西脇洋子作品集
私のスケッチブック より
雑誌「ナースアイ」1991年11月号寄稿文
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ひとりの力は小さくても
大田病院外来主任看護婦
看護学校のクラス会
久しぶりに看護学校のクラス会に出席した時のことです。32名の卒業生のうち、母校に残っている日値は一人もいませんでした。ただ今、子育てまっさいちゅうの人が多く、現役で働いているのは半分ほどでした。市役所の健康課に勤めていたり、学校の養護教諭になっている人もいて、病院で3交替をしている人はごく少数でした。結婚をして、子どもを産んで育てながら、夜勤をして、なをかつ同じところに十数年働き続けていることにみんな驚いていました。私の勤務する病院では、30歳を過ぎると夜勤がきついと言いながらも、2~3人の子どもを持ちながら、働き続けています。しかし悩みがないわけではありません。夜勤労働の厳しさ、健康破壊、人手不足で忙しい毎日、若手教育の悩み、看護婦としての自分の展望、子育ての悩みなどひとりひとりが抱えている問題はたくさんあります。
こんなに大変ならやめてしまったほうがよいのではと思うこともあります。子育てに専念し、自分の好きなことをやって、もっと余裕のある生活もいいのではないかと思うのです。
仕事をやめて子育てをしているクラスメートをうらやましく思う反面、『看護婦としての自分を生かせる仕事がしたい・・・・・・」と複雑な気持ちでした。
そもそも私が看護婦になろうと決めたのは、人間相手の仕事が好きだったことと、医療・福祉の仕事に興味があったからです。小学校の卒業文集に、20年後の自分は僻地で保健婦をしてその土地の人々のために働いていると書いていたのを思い出します。
私が受験したころは、競争率も3倍ぐらいで、現在のように競争率10倍近くまで上がってしまうことや、看護学校の予備校があることなど、考えられませんでした。
地域に根差した医療・看護
就職を決めるときも、何の迷いもなく、大学病院に残るつもりでした。実習病院の印象が良かったことや、婦長さん個人にひかれていたからです。しかし、卒業前の冬休みに、病院の見学実習のお誘いがあり、他の病院も見ることは参考になるのではと軽い気持ちで友人と見学に行きました。地域に根ざし、働く人々の生命と健康を守るという綱領を掲げている、100床ほどの病院でした。一部が木造で、歩くと床のきしむ音がしたり、職員の下駄箱にお風呂屋さんにあるような下駄箱が使われていたり、見るもの聞くもの驚かされるものばかりでした。一看護学生である私に、たくさんの職員が、自分が就職したときのこと、どんな思いで働いているのか、どんな看護婦になりたいのか、どんな医療をやりたいと思っているのかなど熱っぽく語ってくれました。看護学校で看護というものは学んでいても、自分がどのよう医療や看護をしたいのか、どんな看護婦になろうとしているのかなど深く考えてもみなかった私は、医療や看護を社会とのかかわりの中で広くとらえていくことが必要であることを初めて知りました。私たちに語ってくれた職員ひとりひとりのエネルギーはどこから出てくるのだろう、この連帯感は何なのだろう、そんなことに強くひかれ、就職を決めたのです。いま思えば私の一生を左右するほどの大きな意味のある決断だったと思います。同じクラスの仲間が5人同期で就職したことも、とても心強いことでした。
就職当時に感じたあのエネルギーは何だったのだろうと考えてみると、ひとりひとりの職員が患者さんのために良い医療を提供したいという思い、そして集団として学び成長していくなかで、ひとりひとりが自分の意見を出し合い、自分らしさを失わずに自分も成長できる職場であることのなかから生まれてきたものだと思います。
だから困難があっても、それを乗り越えていく力をみんなで出し合えるのです。一人の力は小さくても、ひとりひとりの個性を大切に、それぞれの持てる力を発揮できたら、集団として、とても大きな力になると思います。
そんななかで、私自身がいままで働き続けてこられたのは、看護婦という仕事が好きだったのはもちろんですが、両親、夫などよき理解者・協力者がいてくれたこと、また同期の仲間、職場の仲間と、悩みを出し合いながらも励ましあってこられたからです。話好きな私は、「しゃべらないと元気がない」とよくいわれました。話すことで自分の考えを整理し、逆に自分に言いきかせたり、励ましてもいたのです。もっぱら聞き役は夫であり、職場の仲間たちでした。
また、私は就職当初から現在まで組合役員を続けてきました。はじめはわけがわからなくて引き受けましたが、どうせやるなら何か一つでも吸収してやろう、の精神で楽しくやってみようと思いました。困難であればあるほど、闘志がわき、みんなで話し合い、知恵を出して乗り切ってきました。
就職3年目、月13=14回の夜勤の数に、このままではやっていけないと、独身看護婦、子持ち看護婦の立場を超え、健康で働き続けてくための条件づくりという点で論議を重ね、3年間かかって夜勤協定を結びました。
このときは、夜勤の入り、明けでも職場に来て話し合いを持ちました。いま思うと、よくそんなことができたなあと思うのですが、ひとつのことをみんなでやり遂げたという実感がありました。
最近の看護婦不足が深刻化するなかで、地域から目に見える行動として東京の各地で「ナースウェーブ集会」が取り組まれています。大田区でも今年の2月20日に「ナースウェーブin大田(いつまでも輝いて働き続けたいから)」が51団体300人の参加で大きな成功を収めました。医療の問題、看護婦不足の現状をたくさんの人に知ってもらい、看護婦増やせの運動に参加してもらいたいと、病院、労働組合、民主団体の協力を得て、実行委員会を決しして取り組んできました。
医療者だけでなく、地域の人とかかわりながら取り組めたことは、これからの運動を進めてうえで大きな力になり、本当にうれしかった。当日は、東京医労連看護婦闘争委員長の田中千恵子さんの公園があり、「自分の置かれている厳しい状況からものを見ると、先が見えてしまう。本来どうあるべきかということから見なければいけない。看護婦問題を社会問題化させた力に自信と誇りを持ち、運動を進めていこう」とわたしたちをはげましてくれました。
大変だなあ、しんどいなあと思いながらも組合の仕事を続けてきたことで、今の医療・看護の置かれている現状が認識できたし、常に社会の動きと結び付け広い視野で考えられるようになりました。また、自分たちの病院だけでなく、他病院と交流するなかで、仲間の輪も広がりました。このことは、今のエネルギー源です。
もっと生活に潤いを!
、私は結婚して8年目になります。夫とは、地域の音楽鑑賞サークル活動で知り合いました。二人に共通の趣味があることで、共通の話題や仲間ができて、よかったと思っています。忙しい最中でも、コンサートにはよく出かけました。
一番思い出深いことは1989年12月27日~1990年1月5日まで、300人の合唱団を結成し、東ドイツで第9の演奏を行ったことです。私たち二人も参加しました。オーケストラは、ベルリン放送管弦楽団でした。3回の演奏を行いましたが、演奏終了後、客席の人々が全員総立ちとなって大きな拍手を送ってくれたことを今でも思い出します。ベルリンの壁が壊され、東西が一つになった記念すべき年に演奏できたことは、大きな喜びでした。
第九を歌ったのは3回目です。不規則な勤務で、定期的な習い事はあきらめていたのですが、思い切って初めてみるとできるもので、なんとかステージに立つことができました。オーケストラと一緒に歌えた時の感激は忘れられません。何にでもチャレンジする気持ちを常に持っていたいものです。
困難を喜びに変えて
4年前に一人息子を事故で亡くしました。両親や兄弟、、夫、そして自分がかかわってきたたくさんの人たちの励ましを受け、支えられてきました。こんなにも多くの人と自分はかかわってきたのだと思いながら、そのことは、自分自身が作ってきた財産なんだと思いました。かけがえのないものを失ったとき、同時に私は、私自身を見つめ直してみる機会を与えられたのでした。
人間の生と死に直接かかわる看護婦の仕事の中で、私は喜んだり悲しんだりして大きくなったのです。大げさなことをいえば、私個人はちっぽけなどこにもいる人間なのに、看護婦としての自分は、患者さんからも、職場の仲間からも求められているとしたら、私の存在は確かに意味があるのだと実感できるのです。
誰のために、なんのために働き続けるのかっといえば、それは私自身のためなのです。働き続けるための困難や大変さも、働き続けていく中で得られる喜びに変えていくことができるのではないでしょうか。
私は現在、約10年間の病棟勤務後、外来で働いています。1日に500人近くの患者さんが来院します。限られた時間の中で、的確な診断と、病気や生活へのアドバイスなど、きめ細かな指導が求められています。人手のないなかで、とかくカルテの運び屋になりがちの状況ですが、患者さんひとりひとりの声に耳を傾けるように心がけています。
忙しさに追われがちな毎日ですが、看護婦としてだけでなく、ひとりの人間としてもゆとりのある生活ができ、健康で働き続けられるために、職場を原点に、身近にできることから取り組んでいきたいと思っています。
現実の厳しさに負けず、自分自身の人生を心豊かに楽しく生きたいと思っています。
雑誌「ナースアイ」1991年11月号に寄稿
『看護婦増やせ』の闘争に命の炎を燃やした西脇洋子さん
29回目の命日に
2022年1月23日