《「子どもと教科書全国ネット21ニュース」から》
 ◆ 新科目「公共」について
   ~その特徴と問題点

大内俊介(おおうちしゅんすけ・私立学校教員)


 高校社会科のなかに「現代社会」という科目が新設されたとき、私はちょうどその1年目の授業を受けている高校生でした。1982年のことです。2021年の今年、廃止される「現代社会」の最後の授業をしています。
 「現代社会」と入れ替わりで、来年度に入学する生徒から始まる新科目が「公共」です。すでに文科省による検定を経た教科書見本は公開され、来年度に向け、採択する教科書選定が進められてきました。
 ここでは「公共」という科目と教科書をめぐって、一つの視点を示してみたいと思います。

 ◆ 2つの背景と現場の抵抗感

 新科目「公共」をめぐっては懸念期待の両方があります。まずは科目設置につながった政治的な背景です。


 2006年に第一次安倍内閣によって教育基本法が「改正」ざれ、「公共の精神」という文言が盛り込まれました。2010年には「公共」という科目の設置が自由民主党のマニフェストに記されています。新科目の設置方針が中教審で具体化されたのは、2015年のことです。
 こうした経緯をみると、「公共」という新科目は、これまでの教育を変質させてしまう科目になるのではないかという疑念が生まれます。

 しかし他方、新科目「公共」は「シティズンシップ教育」に取り組む科目として広く受け止められてきてもいます。
 18歳選挙権が始まり、成人年齢も2022年4月に18歳に引き下げられるタイミングだという理由もありますが、それだけではありません。すでに21世紀に入る頃から「シティズンシップ教育」はイギリスをはじめ世界的な動向となってきていました。
 日本学術会議の心理学・教育学委員会と政治学委員会はそれぞれ、充実したシティズンシップ教育を構想しながら、新科目「公共」をめぐる提言を発表しています。
 8つの教科書会社が編集した12冊の教科書をみると、新しい学びへのアプローチなど、多くの工夫が盛り込まれていると感じます。

 けれども、学習指導要領が「現代社会」から大きく変わったことに伴い、これまで社会科教育の根幹的部分の一つであった基本的人権の扱いの比重が下げられ、日本国憲法の平和主義をまとまった単元として扱わない形も目にします。これらは新学習指導要領が出された時にすでに指摘されていた問題点です。
 編集された各社の教科書をみると、活字のポイントを落として左右二段組みに割り付けたページを多く目にします。新学習指導要領の上では抜け落ちていく内容があり、しかしその大切な内容を残すために、工夫した跡だと受け止めています。
 新科目への変更に対して、現場の教員の声とそれを反映した教科書の編集の現場が示している抵抗であるのかもしれません。
 教科書は「恐れていたほどは『現代社会』から変わらなかった」という声も聞かれます。


 ◆ 「公共」という言葉

 ところで、なぜ「公共」という科目名なのでしょうか。また教科書内容の柱の一つとされた「公共的な空間」という言葉への戸惑いも聞かれます。
 すでに触れた科目設置までの経緯を考え合わせると、はたして「公共」という科目名は真面目に取り合わない方がよいものなのでしょうか。それとも、科目の内容の中心に置いて取り組むべきテーマでしょうか。

 今回の新しい教科書の一つ(清水書院705)は巻頭で「公共」という言葉の背景を丁寧に説明しています。
 まず、朝廷や役所のことを指した「おおやけ」という大和言葉漢語の「公」との違い。漢語の「公」も日本に伝わって「おおやけ」と同じ「官」の意味を帯びたこと。そして“people”を語源にもつ“public”が「人びと」に共通のことがらを指していること。その訳語が「公共」という言葉であること、などです。
 さらに、「公共のことがら」を指した“res publica”という言葉が、古代ローマの共和政に由来することも結びつけて理解しておくべきかもしれません。
 「公共」という言葉とテーマを掘り下げることには大きな意義があります。


 ◆ 2つの「シティズンシップ」

 「シティズンシップ教育」で何を目指すのか。少し還回りをして、「シティズンシップ」論の基本を確認してみましょう。
 20世紀中頃に、シティズンシップ(市民権)論を整理したT.H.マーシャルは、歴史的に形成されたシティズンシップを3つに分類して、それぞれ「市民的」・「政治的」・「社会的」な領域についての市民権の成立を、歴史的な発展として説明しました(『市民権と社会階級』1950年)。
 18世紀的な市民的権利(自由権)から20世紀的な社会権へと拡大してきた、という理解の枠組みです。
 基本的人権の内容を自由権・参政権・社会権と分類する方法は、いまも広く用いられています。

 これに対して、最近30年ほどの間で多く用いられている新しい視点は、シティズンシップを「自由主義的市民権」「共和主義的市民権」に分ける方法にもとづきます(デレック・ヒーター『市民権とは何か』2002年、などを参照)。
 このうち「自由主義的市民権」とは、自然権の思想と社会契約の政治理論を背景にして近代革命を通して成立した権利を指します。これは私たちが学んできた基本的人権の基礎知識であり、教える際にも基本的な枠組みとしてきた理解です。

 それに対して、「共和主義的市民権」の方は、古代ギリシア、古代ローマに起源をもつ市民の権利です。それは、政治活動への資格をもち、「公共」領域に参加する自由を指します。そして、最近30年ほどのあいだに、この2つめのシティズンシップに向けてより多くの注目と関心が向けられてきたのです。

 近年の「シティズンシップ教育」への注目の背景には、この現代のシティズンシップ論が与えた示唆がありました。だからこそ、「公共」領域のメンバーとして生きる市民、政治に関心をもち、主体的な意見を表すことのできる市民を育てることが、大切な日標だと位置づけられてきました。日本では「主権者教育」という言葉も用いられてきました。
 政治への関心を育む目標は重なりますが、「シティズンシップ教育」という言葉の方が、「公共」領域への参加をより表している面があります。


 ◆ 2人の思想家と「公共空間」

 では、実際の「公共」教科書の中で「公共」という視点が中心に置かれているのでしょうか。おそらく、教科書も学習指導要領もそこまでの一貫した視点で貫かれているとは言えそうにありません。
 それでも目を留めておくべき内容の一つは、「公共」への注目そのものを拡げた2人の重要な思想家、ハーバーマスとアーレントについてです。

 ハーバーマスは、人間が「コミュニケーション的理性」を発揮し、合意形成へのたゆまぬ協働を続けることの重要性を指摘しました。その先には「討議デモクラシー」(熟議民主主義)が構想されています。これらは、現代の人間が「公共空間」をつくる可能性を求めた思想でした。

 その著書『全体主義の起源』などで知られるハンナ・アーレントは、20世紀で最も重要な思想家の一人であるでしょう。ハーバーマスにも影響を与えています。
 アーレントは『人間の条件』の中で、自分と異なる他者と出会い、複数の見方と向き合いながら、互いに働きかける実践を「活動」と呼びます。古代ギリシャにおいてその「活動」が「公共空間」をつくりだし、政治に参加する「市民」が生まれたことになります。

 このような解説とともに、新しい「公共」教科書のほとんどが、この2人の思想家を取り上げています。2人の思想が淵源となり、今日の「公共」への幅広い関心が生まれてきたということが大切な点だからです。


 ◆ ざまざまな懸念と可能性

 新科目「公共」の教科書が公開された.今年、すでに多くの検討がされています。ここで取り上げたのは、「公共」という言葉とシティズンシップ教育というテーマについてでした。もとより限られた視点からの検討にすぎません。来年度からは現場の実践もさまざまな場で報告されていくでしょう。
 新科目「公共」をめぐるさまざまな懸念とともに可能性への控えめな期待の行方を、今後も注目したいと思います。

『子どもと教科書全国ネット21ニュース 141号』(2021.12)

 

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