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2021年12月17日 5時00分朝日新聞


検査院指摘→二重計上の量減らす 国交省、不自然に見えぬよう調整か


会員記事国交省の統計書き換え問題


朝日新聞が入手した国土交通省の都道府県向けの説明資料。業者が遅れて提出した調査票の受注実績を消し、最新月の数字のように書き換える指示が示されている

 国土交通省による建設業の基幹統計の書き換え問題で、同省が会計検査院の指摘を受けた後も、書き換え作業をやめずに本省側で行うようになった際、「二重計上」する受注額の量を意図的に減らしていたことがわかった。同省は「(当時の担当者が)大きく減らすと、数字に大きな影響があると思ったのではないか」と説明。統計が不自然に見えぬよう調整していた可能性がある。

書き換えが発覚した国の「基幹統計」とは? 戦争の反省から厳格に
 この統計は「建設工事受注動態統計」で、建設業者が公的機関や民間から受注した工事実績を集計する。書き換えていたのは、業者が受注実績を毎月記し提出する調査票のデータ。同省は、回収を担う都道府県の担当者に指示し、遅くとも2010年代前半から書き換え作業を行わせていた。

 同省は19年11月に検査院から指摘を受けたため、20年1月に都道府県に書き換え作業をやめるよう指示。ただ、書き換え自体はやめず、今年3月までの1年3カ月間は本省職員が書き換え作業をしていた。

 複数の国交省関係者によると、書き換え作業の担い手が都道府県の職員から本省の職員に代わるタイミングで、書き換える受注額の量も変更していたという。

 変更前は、業者が受注実績の提出期限に間に合わず、数カ月分をまとめて提出した場合、この数カ月分全てを最新1カ月の受注実績のように合算していた。一方、未提出月には提出した業者の平均を推計値として計上するルールがあり、二重計上が生じていた。

 国交省は本省側で書き換え作業を始めた20年1月以降は、足し上げるのを2カ月分だけに減らしたが、その間も二重計上は続いていた。21年4月以降は書き換えをやめて正しく集計していたという。

 同省建設経済統計調査室は取・・・

 

 

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12/15(水) 5:00朝日新聞デジタル

 

国交省、基幹統計を無断書き換え 建設受注を二重計上、法違反の恐れ

 建設業の受注実態を表す国の基幹統計の調査で、国土交通省が建設業者から提出された受注実績のデータを無断で書き換えていたことがわかった。回収を担う都道府県に書き換えさせるなどし、公表した統計には同じ業者の受注実績を「二重計上」したものが含まれていた。建設業の受注状況が8年前から実態より過大になっており、統計法違反に当たる恐れがある

【写真】「すべての数字を消す」国が指示 消しゴムで書き換えた統計データ 記者が入手した説明資料

 この統計は「建設工事受注動態統計」で、建設業者が公的機関や民間から受注した工事実績を集計したもの。2020年度は総額79兆5988億円。国内総生産(GDP)の算出に使われ、国交省の担当者は「理論上、上ぶれしていた可能性がある」としている。さらに、月例経済報告や中小企業支援などの基礎資料にもなっている。調査は、全国の業者から約1万2千社を抽出し、受注実績の報告を国交省が毎月受けて集計、公表する。

 国交省によると、書き換えていたのは、業者が受注実績を毎月記し、提出する調査票。都道府県が回収して同省に届ける。同省は、回収を担う都道府県の担当者に指示して書き換え作業をさせていた。具体的には、業者が提出期限に間に合わず、数カ月分をまとめて提出した場合に、この数カ月分の合計を最新1カ月の受注実績のように書き直させていた。

 一方、国交省による毎月の集計では、未提出の業者でも受注実績をゼロにはせず、同月に提出してきた業者の平均を受注したと推定して計上するルールがある。それに加えて計上する形になっていたため、二重計上が生じていた。

 複数の国交省関係者によると、書き換えは年間1万件ほど行われ、今年3月まで続いていた。二重計上は13年度から始まり、統計が過大になっていたという。

 同省建設経済統計調査室は取材に、書き換えの事実や二重計上により統計が過大になっていたことを認めた上で、他の経済指標への影響の度合いは「わからない」とした。4月以降にやめた理由については「適切ではなかったので」と説明。書き換えを始めた理由や正確な時期については「かなり以前からなので追えていない」と答えた。

 同省は、書き換えの事実や、過去の統計が過大だったことを公表していない。

 国の基幹統計をめぐっては、18年末に厚生労働省所管の「毎月勤労統計」が、決められた調査手法で集計されていなかったことが発覚。この問題を受けて全ての基幹統計を対象とした一斉点検が行われたが、今回の書き換え行為は明らかになっていなかった。

 

(伊藤嘉孝、柴田秀並)

 

 

 

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12/14(火) 11:02デイリー新潮

 

鹿島建設と鹿島家の「婿取り作戦」 

70歳の「新社長」誕生で、女系家族による世襲経営に幕


鹿島守之助氏

 スーパーゼネコンの一角を占める鹿島(法人名は鹿島建設)の経営トップが6年ぶりに交代した。6月25日の定時株主総会後の取締役会で、副社長執行役員だった天野裕正が取締役社長に昇格し、社長だった押味至一(おしみ・よしかず)は会長に退いた(敬称略・出典など巻末註1)。

【写真4枚】高層ビル、ダム、高速道路などなど、これまで鹿島建設が手がけてきた建築を見ると、同社の技術力は一目瞭然だ

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 入社以来、天野は建築畑を歩み、押味から2代続けて建築部門の出身者がトップの椅子に座る。

 天野は取締役の経験がない。執行役員からいきなり代表取締役社長に就くが、9月で70歳になった。押味も72歳であり、若返り人事ではない。

 最大のサプライズは、序列ナンバー2の代表取締役副社長だった渥美直紀が相談役に退いたことだ。創業家出身で、かれこれ20年近く「次期社長の本命視されてきた」(関係者)のに、社長になれないままひっそりと去ったのである。

 2015年、専務執行役員だった押味は第12代社長(15~21年)に昇進した。11代社長・中村満義(05~15年)は代表権のある会長に退いた。中村は「鹿島を作ってきた創業家を尊敬している。ただ、社長は時代に即した人物を選ぶことで(鹿島は)成長する」と述べた。

 だが、押味時代、鹿島は不祥事の連鎖に見舞われた。

 今年3月1日、リニア中央新幹線工事をめぐるスーパーゼネコン4社の談合事件で、独占禁止法違反(不当な取引制限)罪に問われた大成建設の元常務執行役員・大川孝、鹿島の元専任部長・大沢一郎と、法人としての両社に対する判決が東京地裁で行われた。

鹿島は冒頭陳述で反論
 判決で、被告の大川と大沢にはいずれも懲役1年6月、執行猶予3年(求刑・懲役2年)、両社に罰金各2億5000万円(同・罰金3億円)を言い渡した。

 事件をめぐっては、法人としての大林組と清水建設も起訴されたが、2社は談合を認め、それぞれ罰金2億円、同1億8000万円が確定している。両社の担当者は立件されなかった

 鹿島は談合の事実を認めず、「受注者を決める競争は、JR東海の意向によって事実上、決着していた」と裁判の冒頭陳述で主張した。

 今年10月1日には、東日本大震災の復興事業をめぐり下請け業者から受け取った謝礼を申告せず、約8300万円を脱税したとして所得税法違反の罪に問われた鹿島東北支店元営業部長、宮本卓郎の初公判が、仙台地裁であった。宮本は起訴事実を認め「自己保身のために所得を隠してきたことを深く反省している」と述べた。

 起訴状などによると《宮本被告は、鹿島が代表社の共同企業体(JV)で現場所長を務めた際に下請け業者から受け取った謝礼など、合計2億2000万円の所得を申告せず、計約8300万円を脱税した》とされた。

 11月10日、検察側は懲役1年、罰金2500万円を求刑、結審した。判決は12月21日の予定である。


談合の水脈
 スーパーゼネコンと呼ばれる建設会社は、鹿島建設、清水建設、大成建設、大林組、竹中工務店の5社だ。このうち大成建設を除く4社は創業家による経営関与が続いてきた。他の業界では考えられないゼネコン特有の形態である。なぜ創業家か? 

 ゼネコンの営業形態が請負(うけおい)の仕事であることに起因している。個人の業績が見えづらく、社内で権力闘争が起きると、もめやすい、こじれる。だから創業家の人間を御輿に担いだほうが、もめごとを抑えられるという判断だ。創業家は重石(おもし)の役割を担っていると言ってもいいだろう。

 もう一つは、請負の仕事につきものの談合だ。談合の歴史は豊臣秀吉の時代に導入された入札制度とほぼ同時期に始まったとされているから、かなり古い。

 高度成長時代の1960年代に入ってから、現代の談合のルールが整備された。この頃は大物の値切り屋の時代だった。

 60年代は大成建設副社長だった木村平が中央談合組織を仕切った。木村の引退後は、鹿島副社長の前田忠次と飛島建設会長の植良祐政(すけまさ)が引き継いだ。

 大成、鹿島には談合の水脈がある。

 木村平が仕切っていた時代に、田中角栄が「3%ルール」を作った。各社にまんべんなく公共工事を配分する見返りに、ダム、道路、鉄道の大型工事では受注額の3%を上納させるという仕組みだ。角栄は植良以外からは直接、上納金を受け取らなかったという伝説が残っている。これで植良の力は盤石となった。

骨を拾わない創業家
 1993年、宮城県知事の本間俊太郎や茨城県知事の竹内藤男ら自治体の首長や、ゼネコンの業務担当役員が逮捕された事件で、植良と、植良の後を継いだ鹿島副社長の清山信二が逮捕されている。

 ゼネコンの経営は、表と裏の両輪で回ってきた。ゼネコンの業界では談合などの脱法行為が“必要悪”として続けられてきた。談合は会社のためにやり続けたわけで、体制を維持するには、万一の時に擁護してくる権力者が絶対に必要だ。「骨を拾ってくれる」人、それが創業家の重要な役割だった。

 今日、「談合禁止令」で、創業家は動けなくなった。創業家が「骨を拾う」ことを止めたことが、スーパーゼネコンでも不祥事が続発する根底にある。

 鹿島で押味時代に不祥事が多発したのは、一族経営の重石が薄れた影響があるかもしれない。「骨を拾ってくれる」人の存在が見えなくなったことから、腕に覚えのある営業マンたちは、自分でリスクを取って危ない橋を渡り、塀の内側に落ちてしまい、ギルティ(有罪)の宣告を受けることに相成った。

鹿島の「3人娘」
 リニア中央新幹線では大林組と清水建設は、それに関わった幹部社員だけでなく社としても談合を認めた。一方の鹿島と大成建設は談合を認めず、社員も会社も起訴された。

「鹿島は創業家が『(社員の)骨を拾う』ことを止めたから、こうなった」(建設業界の談合の歴史に詳しい談合の元仕切り役)といった、幕内からの陰の声が響き渡る。

 鹿島の経営には創業家が大きな力をもってきた。「中興の祖」と言われた鹿島守之助(第4代社長)の息子・昭一(第8代社長、2020年11月死去)は、直近まで事実上のオーナーだった。

 経営陣には「3人娘」と言われる守之助の娘(昭一の姉)たちの息子である副社長の渥美直紀(71)と石川洋(62)、取締役の平泉信之(63)が名を連ねていた。

 異例ともいうべき高齢の天野が社長に就任した人事を読み解くカギは、3月9日の社長交代会見での押味の発言にある。

5代続けて非同族社長
 東洋経済オンライン(21年3月17日付)は、こう報じた。

《「昭一氏が亡くなる前に、後継についての相談をしなかったのか」。記者から問われた押味氏は次のように答えた》

《「(昭一氏とは生前に)年に2回、じっくりとお話しする機会を設けてもらっていた。『中核である建設業をしっかりとやらなければいけない』という話をずっと受けていた。後継者についても、お願いを申し上げたこともあった。ただ、その面は譲らなかった。強い意志を示された」》

《この言葉の意味を、鹿島の経営体制に詳しい業界関係者はこう読み解く》

《「押味氏は創業家への『大政奉還』を描いていた。現在の経営陣のうち、平泉氏は2012年に取締役就任と遅かったこともあり、今回の社長候補ではなかったかもしれない。渥美氏は(71歳と)高齢で2021年6月の取締役退任が決まっており、本命は石川氏だったのではないか」》

 だが、「昭一の同意を得られなかった、ということではないのか?」と筆者は考えている。

 創業家への“大政奉還”を断念した押味は、若手社員の時から二人三脚で歩んできた天野を社長に起用した。5代続けて非同族社長が生まれたことになる。


本家が世襲経営に幕引き? 
 元社長で取締役相談役の鹿島昭一は2020年11月4日、心不全のため死去した。享年90。創業家5代目。入社以来67年間、取締役を務め、84年から90年まで社長の座にあった。

「日刊建設工業新聞」(2020年11月12日付1面)は「建築をこよなく愛す」のタイトルで鹿島昭一を追悼した。

《元社長で取締役相談役の鹿島昭一氏が(2020年)11月4日、心不全のため東京都内の病院で死去した。90歳だった。1953年に東京大学工学部建築学科を卒業後、父が社長を務める鹿島に入り取締役に。54年からハーバード大学大学院建築科に3年留学(建築学修士)した後、建築・設計分野の担当に就いた。59年、代表取締役副社長、78年に同副会長を経て84年、社長に就任。90年に再び同副会長になり、94年から取締役相談役を務めていた》

《リッカー会館は昭一氏が米国留学から戻り、本格的に設計に取り組んだ最初の作品。ダブルスキンのファサードが特徴で、建物外壁の外にバルコニーをとり、そこにカーテンウォールを設置した。昭一氏は「当時、カーテンウォールは米国では普及していたが、日本は工業化されていなかった。そこで可能な限り本格的なカーテンウォールを追求した」。いまや超高層建築の外装で使われるカーテンウォールはこの建物から始まったとも言える》

《建築を文化として愛し、先進的な技術に果敢に挑んできた昭一氏。社員と共に手掛けた数多くの建築はいまでも息づいている》

 日本経済新聞も2月21日付けの夕刊で鹿島昭一の「追想録」を掲載した。

《米ハーバード大大学院で、合理性と機能美を追求するモダニズム建築を学んだ》

《海外出張する際には自ら調べて現地の美術館に足を運び、展示された作品に込められた意味を同行者に解説してみせるこだわりようだった。歴史や宗教、芸術を通じて得た人間への洞察力は経営を判断する支えでもあった。「本当は建築家に専念したかった」。周囲にはそう話していたという

 建築家らしく、昭一は合理性を重んじた。談合を筆頭とする“土建屋体質”を憎んだ。


洋風建築から鉄道へ
 更に昭一は世襲も嫌った。分家の渥美や石川の社長就任には最後まで首を縦に振らなかった。先代たちが、営々と受け継いできた同族経営に幕を下ろした。

 鹿島は女系家族である。政官財界の人脈ネットワークを見ると、鹿島家ほど広く、深く、根を張っている一族はない。最後にはキングメーカーにまでなった元首相の中曽根康弘と結び付いた。

 鹿島家が壮大な政経閨閥を作り上げたのは、3代にわたる婿取り作戦の成果である。

 鹿島は1840(天保11)年、鹿島岩吉が江戸中橋正木町(現在の京橋)で「大岩」を創業したのが始まりである。岩吉は1816(文化13)年、武蔵国入間郡小手指村(現・埼玉県所沢市)の豪農の二男として生まれ、江戸に出て大工修業をし、24歳の時に棟梁の株を得て独立した。幕末には横浜に進出、英国一番館(外国商館)などの洋風建築を手がけ「洋風の鹿島」と謳われた。

 1880(明治13)年、岩吉の死去にともない息子の岩蔵が2代目を継いだ。岩蔵は工部省鉄道頭(かしら)・井上勝の知遇を得て鉄道工事を請け負う。全国に延びる鉄道建設の波に乗って発展、「鉄道の鹿島」の名を広め、今日の基礎を築いた。

 岩蔵は男子に恵まれなかった。ここから、鹿島家の婿取り作戦が展開されることになる。

 鹿島家の婿取りで共通しているのは、いずれも名家で、東大出のエリート官僚を迎え入れていることだ。

娘婿は逓信省官僚と外交官
 最初の女婿は葛西精一(かさい・せいいち)。1875(明治8)年、岩手県は旧盛岡藩士の名家・葛西家の長男として生まれた。盛岡中、第一高等学校を経て東京帝国大学工学部を卒業、逓信省鉄道作業局の官僚になった。岩蔵の長女・糸子と結婚し婿養子となり、鹿島組副組長に就いた。

 精一は類まれな秀才だったことから岩蔵が将来を見込んで学費を出し、東大に残れといわれたのを強引に婿にしたとされている。

 1912(明治45)年、岩蔵が亡くなると、精一は鹿島組の組長になった。精一は17年の歳月と多くの犠牲者を出しながら、1934(昭和9)年に世紀の難工事といわれた丹那トンネル(東海道本線・熱海駅―函南駅)を完成させた。ところが、彼もまた嫡男に恵まれなかった。

 そこで白羽の矢を立てたのが、当時、少壮の外交官だった永富守之助(ながとみ・もりのすけ)である。

 守之助は1896(明治29)年2月、兵庫県揖保郡半田村(現・たつの市揖保川町)の大庄屋の四男に生まれた。生家の永富家は2000余坪の宅地に、母屋だけで200坪もある旧家。頼山陽(らい・さんよう)の流れをくむ漢学者の父・敏夫は教科書に載りそうな人格者だったという。


船旅で運命の出逢い
 重要文化財に指定された永富家の屋敷の2階の子供部屋には、明治期にはモダンだったと思われる小さな勉強机と椅子が置いてある。恵まれた環境で育った守之助は、京都の第三高等学校から東京帝国大法学部政治学科に進み、卒業後は外務省に入った。

 1922(大正11)年5月、気鋭の外務官・守之助はベルリンの日本大使館駐在の辞令をもらい、米国経由で欧州に向かう。ニューヨークでベリンガリヤ号に乗り、デッキから自由の女神を眺めていると、肩を叩かれた。振り向くと、鹿島組組長の鹿島精一と取締役の永淵清介(ながぶち・せいすけ)が立っていた。乗客の日本人は3人だけ。

 すぐに打ち解け、15日あまりの船旅を楽しんだ。異郷の地で3人はすっかり意気投合した。この時、精一は洗練された物腰の永富守之助に強く惹かれた。

 この航海で精一は守之助を未来の鹿島組を託す男と見込んだ。

《1925(大正14)年1月。東京日日新聞に「新貴族論」という記事が載った。筆者はベルリンの日本大使館に勤務する永富守之助。門閥貴族や官僚、退廃した資本家ではなく、新しい指導者層「新貴族」出現の必要を説いている。「新貴族」になるのは、「士族と地方の地主階級ではないか」と記す。まさに自分自身のことだ》(「20世紀日本の経済人II」日経ビジネス人文庫)

6年越しのラブコール
 3年間のドイツ勤務を終えた守之助は1925年7月、本省に戻った。

 ある日、「海外旅行中にお世話になったお礼に」と、突然、鹿島組の永淵が訪ねて来た。精一の長女・卯女(うめ)との縁談を持ち込んできたのである。もちろん守之助は、婿養子になる気などなく断った。永淵は断られても、断られても外務省を訪れ、説得を続けた。そこで守之助は永淵に結婚の条件を出す。

「私は将来、政治家になりたい。その時は、政治資金を出していただけますか」

 縁談に応じるというより、むしろまとまらなくするための無理難題のはずだった。しかし、永淵はまったく動じない。「結構です。鹿島の仕事には政治が必要です」と応じた。それでも守之助は、ライフワークである外交史と国際政治の研究を捨てる気にはなれなかった。永淵は「結婚後も鹿島の仕事をしなくてもいい」という条件を出して、ようやく見合いのオーケーをとった。ところが、卯女に会った途端、守之助のほうが一目惚れしてしまう。

 1927(昭和2)年、守之助は卯女と結婚して鹿島家の婿養子に入った。精一は船中で出会って以来、およそ6年間にわたって守之助を口説き続けたわけだ。それはまさに婿取り大作戦であった。


妻が鹿島の社長に就任
 卯女は幼少の頃から父に連れられて工事現場を回っており、若くして鹿島組の経営に参画していた。単なる令嬢ではなかった。

 結婚後も守之助は、鹿島へは出社しなかった。およそ8年もの間、衆院選に立候補しては落選したり、学位論文を執筆して法学博士になるなどして、土建屋とはまったく関係のない生活を送った。

 1936(昭和11)年、守之助は取締役として鹿島組に入った。1938(昭和13)年、精一が会長に退き、守之助が第4代社長(1938~1957年)に就任した。博士号を持つ土建屋の社長が日本で初めて誕生した。

 戦後の1947(昭和22)年12月、鹿島組は社名を鹿島建設に変更。守之助は参議院議員として政界に進出。57(昭和32)年、国務大臣就任を機に会長に退き、妻の卯女が第5代社長(1957~1966年)になった。大手ゼネコン、初の女性社長だった。

 卯女が社長時代の61(昭和36)年に東証・大証に上場。65(昭和40)年には日本初の超高層ビル、霞が関ビルを着工。超高層ビル時代の幕を開けた。

 68(昭和43)年4月、三井不動産霞が関ビルは完成。「土木の鹿島」は一躍、建築でも一頭地を抜き、全国各地で超高層ビルを手がけることになる。

 守之助は日本初の超高層ビルである霞が関ビルを完成させるなど、鹿島を大躍進させ、“中興の祖”と呼ばれた。守之助・卯女夫妻は日本の超高層ビル建設の先鞭をつけた。

一族間の継承が続く
 守之助と卯女は1男3女をもうけた。鹿島家は、初めて昭一という嫡男に恵まれたわけである。だが、守之助は岩蔵や精一以上に熱心に、優秀な婿取り作戦を展開した。

 長女の伊都子(いとこ)の婿は渥美健夫(あつみ・たけお)。大阪商船取締役だった渥美育郎(いくろう)の長男。東京大学法学部政治学科を卒業後、商工省に入り、経済安定本部にいた通産官僚だ。役人を続けさせることを条件に結婚させた。いつもの手である。「通産省はあなたがいなくても困らないが、鹿島はあなたを必要としている」。この守之助の殺し文句で、結婚3年後に健夫は鹿島入りした。

 二女のよし子は、初代経団連会長の石川一郎の六男・石川六郎に嫁いだ。六郎は東大工学部土木科を卒業し、運輸省に勤めた。運輸省から国鉄に転じた際、叔父の親友だった財界人から、よし子との結婚話が持ち込まれた。石川は即座に断った。工事を発注する官庁にいる自分が、受注する側の大手建設会社の経営者の娘と結婚すれば役人生活に汚点を残すと考えたからだ。だが、それから3年間、守之助はあらゆる伝手を通じて、石川に働きかけた。社業に関与させないからと、いつもと同じ“空手形”を切って娘婿に迎えたが、結局は鹿島に取り込んでしまった。


遂に長男が誕生
 三女の三枝子(みえこ)は、守之助の後輩の外交官、平泉渉(ひらいずみ・わたる)を婿にした。東大出の官僚である平泉は、戦前、皇国史観を説いた国粋主義の歴史学者・平泉澄(きよし)の息子である。守之助自身は参議院議員となったが、その後継にしたのが平泉で、婿にした後、政界入りさせた。

 第5代社長の卯女の後を継いで、6代・渥美健夫(1966~1978年)、7代・石川六郎(1978~1984年)の2人の婿は、順番に社長になった。

 同族間のたらい回し人事に向けられる経済界の視線は厳しかった。だが、鹿島家はビクともしなかった。守之助は1975(昭和50)年12月、75歳で他界した。卯女は1982(昭和52)年3月、78歳で世を去った。

 鹿島家の婿取り作戦は、ここで一段落した。それぞれの家に長男が誕生したからである。

 その後、東大建築科出身の鹿島家の嫡男・昭一が第8代社長(1984~1990年)となった。

建設業界が驚愕した人事
 時代は移る。昭一の後任として9代目社長に建設省OBの宮崎明(1990~1996年)が就いた。初の非同族社長である。第10代社長に梅田貞夫(1996~2005年)が就任した。梅田は京都大学大学院工学研究科を修了して鹿島に入社。初の生え抜き社長が生まれた。

 この間に、一族の新しい世代が後継社長レースに登場してきた。それでも同族による継承に対する各家の思惑には温度差があった。それを象徴する出来事が2005年の社長人事で起きた。2代続いて非同族社長が続いたことから創業家への大政奉還は確実とみられていた。

 前年(2004年)から建設業界紙などでは、「一族の渥美直紀・副社長の社長就任」が既定路線として報じられていた。直紀は大本命の呼び声が高かった。直紀は6代目社長・健夫の長男である。慶應義塾大学法学部卒。50歳の社長適齢期を迎え、「渥美直紀社長、中村満義筆頭副社長」という新体制の人事案までマスコミ辞令として出回っていた。

 ところが蓋を開けてみると、中村満義が11代の社長に就く人事が発表になった。「えっ、社長は渥美さんじゃないの!」。建設業界に思わず驚きの声が上がった。

本家と分家が対立
 記者会見では梅田社長に、「渥美直紀を社長に選ばなかった理由について」の質問が集中したが、「まだ、若いし」と言うだけ。梅田の歯切れは悪かった。

 予想外の人事に「鹿島本家と渥美家、石川家の鹿島一族に異変があったのでは」と囁かれたほどだ。

 後日、ことの真相が明らかになる。直紀の夫人は中曽根康弘元首相の二女・美恵子(みえこ)。鹿島家と政界を結ぶ閨閥(けいばつ)づくりの結晶であった。

 関係筋の話によると、名誉会長の石川六郎は直紀への社長継承を迫ったが土壇場で大逆転。非同族の専務・中村満義の第11代社長への昇格が決まった。鹿島本家の取締役相談役・鹿島昭一が同族経営にこだわらない姿勢を見せたためだといわれている。六郎も最後には折れるしかなかった。昭一には、分家に社長を継がせる気がなかったということだ。

本家の御曹司が退任
 本家と分家の対立が表面化した2年後の2007年6月、本家出身の鹿島光一が取締役に就任した。鹿島の個人筆頭株主で元社長の鹿島昭一取締役相談役の長男。36歳と若く、将来の社長候補というのがもっぱらの見方であった。

 2012年6月、分家の平泉信之が取締役になる。本家の鹿島昭一・光一親子、分家の渥美直紀、石川洋、そして平泉信之と、取締役会のメンバー10人のうち半分の5が創業一族だった。上場している大企業の取締役の半数が創業一族というのは、異例を通り越して異常である、といった辛口の批判もあった。

 2013年の役員人事で光一が取締役を外れた。昭一は本家の跡取りとして長男の光一を後継者に据えると見られていたが、突然、取締役を辞任した。退任を決定できるのは父親の昭一しかいない。当時、親子の確執が取り沙汰された。後継者と期待していた光一が鹿島を去ったことが、昭一が同族経営を断念する契機になったのかもしれない。

 東京五輪向けの特需がなくなった2021年以降、“ゼネコン不況”が到来すると言われている。各社の人手不足も深刻だ。

 鹿島は難局をどう乗り切るのだろうか。「苦しい時の創業家頼み」という言葉もある。
創業家一族の再登板の場面が、はたして訪れるのだろうか。創業家という重石の効用が、再び語り始められている。

註1:この記事は有森氏が上梓した、以下3冊の書籍の内容を踏まえて執筆された。

▽『創業家物語』(2008年7月・講談社)
▽『創業家物語』(2009年8月・講談社+α文庫)
▽『創業家一族』(2020年2月・エムディエヌコーポレーション発行、インプレス発売)

有森隆(ありもり・たかし)
経済ジャーナリスト。早稲田大学文学部卒。30年間、全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書に『日銀エリートの「挫折と転落」――木村剛「天、我に味方せず」』(講談社)、『海外大型M&A 大失敗の内幕』、『社長解任 権力抗争の内幕』、『社長引責 破綻からV字回復の内幕』、『住友銀行暗黒史』(以上、さくら舎)、『実録アングラマネー』、『創業家物語』、『企業舎弟闇の抗争』(講談社+α文庫)、『異端社長の流儀』(だいわ文庫)、『プロ経営者の時代』(千倉書房)などがある。

デイリー新潮編集部
https://news.yahoo.co.jp/articles/56e7283413a86a9c3bd11515b4c6efd7b1e3800e