沖縄戦について、ごいっしょに 考えてみませんか?
《子どもと教科書全国ネット21ニュースから》
◆ 8月15日に沖縄戦は終わらなかった
~第32軍司令部壕跡を平和・歴史学習の場に
元東京都公立学校小学校教員 牛島貞満(うしじまさだみつ)
◆ 開会式のディレクター解任劇であらわになった日本の歴史認識
様々なトラブルを引き起こし、コロナ禍での東京オリンピック開催の是非についても耳を貸さなかった大会組織委員会が、開会式の前日7月22日、開閉会式のディレクターを務める小林賢太郎氏(48)を解任した。
ナチスによるホロコーストを揶揄する「お笑いコント」がその理由だが、機敏に国際世論に反応したのは、小林氏の役職留任のまま開会式を強行できないと判断したにすぎない。
日本の政治と文化を「代表している」と自負する人々の歴史認識や人権意識が、いかに国際標準からかけ離れているかを露呈したのだった。
第2次世界大戦・アジア太平洋戦争の教訓をないがしろしにし、近現代の教育を疎かにしてきた日本社会と学校教育が問われた瞬間でもあった。
ドイツのメルケル首相は2019年12月、初めてポーランドのアウシュビッツ強制収容所を訪れ、ナチスによる犯罪を「記憶しておくことは…決して終わることのない責任の一つで、国家のアイデンティティーの一部だ」と表明した。
アウシュビッツのような過去の戦争と過ちを具体的に学ぶ戦争遺跡・学習施設は、日本にあるだろうか。
こうした学習施設と学校教育での歴史学習の不十分さが、日本を「代表する」と自負する政治家や文化人を「輩出」してしまったのではないか。
前置きが長くなったが、本題に入る。
76年前、「捨て石」にされた沖縄、住民を盾にした沖縄戦と言われるが、そもそも
沖縄戦はいつ終わったのか?
なぜ軍人より住民の死者が多くなったのか。
この問いに根拠をもって答えられる日本人はどれくらいいるだろうか。
アジア太平洋戦争で日本国内での最大で最後の地上戦について、私たちがどれだけ真摯に向き合ってきたのかが問われている。
◆ なぜ住民が兵隊よりも多く亡くなったのか
住民の犠牲者が多くなったのは、①戦場になると想定していながら、住民疎開が不十分だった、②後方支援に県民を動員した、③皇民化教育と軍官民一体化スローガンなどが挙げられるが、最も直接的な原因は、第32軍の2つの作戦命令にある。
沖縄戦が始まる1年前、1944年に創設された第32軍に大本営から下達された命令は、本土決戦準備のための時間稼ぎ=持久戦であった。
そもそも「沖縄の土地や沖縄県の住民を守る」ための戦争ではなかった。
沖縄戦の本当の目的を知っていたのは、沖縄戦を指揮した第32軍の将校たちだけだった。
動員された兵士や沖縄県の住民は、「日本軍が沖縄を守ってくれる」と信じて中国大陸や他県から次々と到着する日本兵を歓迎した。
45年4月1日、米軍は、沖縄島の中部西側の読谷海岸から、日本軍の5倍の兵力で上陸し、北、中飛行場を占領し、翌2日には東海岸に達し、沖縄島を南北に分断した。
北部方面に進撃した米軍は、4月13日には北端の辺戸岬まで到達した。一方中南部に展開した米軍は、日本軍の二重三重に作られた地下陣地から激しい抵抗を受け戦死者約5000人を出しながらも約2か月をかけ、首里に迫った。
第32軍は、武器の性能と数、兵士の人数に優る米軍の前に、2度の大攻勢に出るが、ひとたまりもなく失敗に終わり、持久戦に戻ることになる。
日本軍は兵力の2/3(約6万4000人戦死)を失った。
この間の米軍との戦闘は、日米の正規軍同士の戦いであった。
沖縄戦が始まって約50日、首里城の近くまで米軍が迫った5月21日、首里地下司令部壕で各部隊の参謀長・参謀を集め、作戦会議が行われた。
提案されたのは、
(1) 首里決戦(事実上持久戦)案と、
当初計画にはなかった(2) 南部・喜屋武半島への撤退案、
(3) 南東部・知念半島撤退案であった。
各部隊は、その事情をそれぞれ主張したが、予想される住民犠牲については、一切論議されなかった。
◆ 南部撤退で何が起きたか
私の祖父である第32軍牛島満司令官は首里の司令部壕で降伏せず、無謀な(2) の南部・喜屋武半島に撤退する作戦を決裁した。
その結果、日本軍、米軍、住民の三者が混在する戦場がつくられ、多くの住民が戦闘に巻き込まれ、犠牲者は大幅に膨らんだ。
極限状態に陥った兵士が壕から住民を追い出したり、殺害したり、食料の強奪することも起きた。
強制集団死など、沖縄戦で語り継がれる悲劇が南部撤退によって凝縮して発生した。
私が、沖縄戦の授業を行ってきた南部撤退の通り道にある長嶺小学校の子どもたちが調べた「長嶺小学区域の月別死者数のグラフ」から、南部撤退直後の6月に約7096の方が亡くなっていたことがわかる。
さらに南部撤退命令は、米軍との戦闘で負傷した日本軍兵士にとっても過酷なものであった。
野戦病院に収容されていた負傷兵は、戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けるな」の通り、自力で歩いて南部に移動できる者以外は青酸カリ入りのミルクや注射によって同僚の日本軍兵士に虐殺されるか、手りゅう弾での「自決」を強いられた。
私の祖父牛島満が命じた「南部撤退」が、住民に多くの犠牲者を出した主要な要因であった。
◆ 沖縄戦はいつ終わったか?
住民にとって、沖縄戦が終わった日は米軍の捕虜になった日である。
では、第32軍にとってはいつであろうか?
米軍の掃討作戦は、住民と目本軍兵を南部に追い詰めていく。「本上決戦」が必ず行われると信じて疑わなかった牛島は、6月19日撤退した最南端の摩文仁の司令部壕から2つ目の作戦命令「各部隊は生存者中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」を出す。
6月22日、摩文仁の司令部壕で祖父牛島満は、自死した(※牛島家では祖父の命日を6月23日でなく、22日としている。米軍記録や司令部衛兵等の証言もある)。
戦闘終結・武装解除を命令する司令官が不在になった。兵士にとっては、司令官の命令による組織的戦闘からゲリラ戦に変更されたに過ぎず、まさしく「最後の一兵まで、戦い続ける」しかなかった。
沖縄の日本軍は、8月15日を超えて9月7日に嘉手納基地において、米軍に降伏調印し、やっと戦闘を終えることができた。
多くのメディアや沖縄県などは、沖縄戦の終わりを「組織的戦闘が終了した6月23日」という表現を用い、慰霊の日を6月23日としているが、これもまた、沖縄戦の真実の理解を妨げている。
第2の命令「最後まで敢闘し」と司令官の自死は、「終わりなき沖縄戦」を作り出した。
「本土決戦」準備の時間稼ぎとして戦われた沖縄戦は、県民と動員された日本軍兵士の命を無意味に殺すためだけの命令となり、持久戦を命じた大本営は、何ら対処もせず放置した。
これが、沖縄戦の実態であり、この第32軍の2つの作戦命令が、兵士より住民の犠牲を多くした直接の原因である。
◆ 第32軍司令部壕跡を平和・歴史学習の場に
2019年10月首里城焼失を契機に地下にある第32軍司令部壕に注目が集まった。
沖縄県はこれまで「公開は難しい」と事実上保存・公開に向けた取り組みを中止していたが、公開を求める声の広がりに、今年1月、第32軍保存・公開検討委員会を設置し、公開へ向けた第一歩を踏み出した。
特に「南部撤退」の作戦命令を起案、論議、決済をした場所が首里の司令部壕である。
地下に埋もれたまま、現在のように「保存」だけされていたのでは意味はない。
公開・活用されて初めて戦争遺跡としての価値をもつ。
76年前、沖縄の住民が身をもって紡ぎ出した教訓「軍隊は住民を守らない」は、日本の私たちだけでなく、東アジアの未来の平和を築くための大切なメッセージとなるであろう。
そして、首里司令部壕を過去の戦争と過ちを具体的に学ぶ場として整備することは、世界に通じる歴史認識を獲得するための私たちの責務だと考える。
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 89号』(2021.8)