◆ 司法が開催を認めた「表現の不自由展」 (『東京新聞』【夕刊】)
志田陽子(しだ・ようこ=武蔵野美術大教授、憲法学)
東京・大阪・名古屋で企画された「表現の不自由展」が悪質な妨害を受けながら、開催期間を終えた。その後、京都では、妨害を避けるため告知をせずに開催したとも聞く。それぞれが、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の中の企画展「表現の不自由展・その後」を、市民が再構成した内容だという。
東京では、会場の民間ギャラリーが開催前に妨害を受けた。
大阪と名古屋では自治体の市民スペースが展示会場となっていたが、どちらも罵声による嫌がらせがあり、名古屋では施設職員に爆竹の入った郵便物、大阪では有毒物質の名前をつけた不審物や脅迫状が送りつけられるといった犯罪レベルの妨害が続いた。
このため大阪では、市民ギャラリーのある施設が「安全配慮のため」と称していったん使用許可取り消しとなったが、その後、大阪地裁が施設の使用再開を認めた。
会場側の抗告も高裁と最高裁が退けて、不自由展の開催が実現した。
一方名古屋では、再開できないまま開催期間が終了した。
◆ 批判と妨害 違い理解を
「表現の不自由展」の内容が芸術として評価できるか、歴史認識に賛成できるか。そうした議論は「表現の自由」の土俵が回復された後、「自由に」行われるべきことだ。
「表現の自由」にはたしかに批判の自由が含まれる。だが、批判の自由が成り立つには、批判する側とされる側がひとしく表現の土俵に乗れる状態にあることが必要である。一方の表現を塞(ふさ)いでしまう妨害行為は「表現の自由」によって擁護できない。
◆ 事後の金銭補償 救済に当たらず
このようなとき、同じ裁判でも事後的な金銭による賠償は、表現者にとっては本当の救済にならない。
この点で、大阪地裁が七月九日に出した「決定」は、傾聴すべき内容だった。
「正当な理由」のない会場閉鎖は、企画展主催者に回復困難な「重大な損害」を与える、と指摘。警察も抑えられないような事態が起きているならば「正当な理由」と言えるが、大阪の会場でそのような事情は認められないとの判断によって、会場使用が認められた。
この趣旨を酌み、異例のスピードで会場側の抗告を退けた高裁、最高裁の決定も見事だった。
警察の対応に目を転じると、市民の表現を警察が抑えたり、強制排除した例は多い。
札幌では選挙演説に向かって「やめろ」と叫んだ市民を、警察が実力で排除している。
どうも、「表現の自由」に関する限り、警察が制止に動くべき場面と、成り行きを社会に任せて見守るべき場面とが逆になっている。
この逆転は警察活動の「公平中立」に反していないかと、他所で指摘もした。
しかしこのような経緯で開催された大阪の不自由展では、警察も真剣さを見せた。市民が「見ている」ことの重要さを感じさせてくれる場面だった。
◆ 「圧力に屈せず」が公の仕事
表現への妨害は、文化の担い手である社会全体にとって、深刻なダメージになる。この時社会が萎縮していくのか、それとも「表現の自由」を支える空気をつくれるのか。
主催者の姿勢も、文化行政の担当者も、警察も、自治体首長の言葉も、報道も、この成り行きに影響を与える。
開かれた場を支え、それを壊す圧力には屈しない。それが法治国家における公の仕事である。
《支える仕事》が成り立った場面を見ることができて、胸をなでおろしているが、日本社会の体質にしみついた表現の不自由問題はまだ終わっていない。
『東京新聞』(2021年8月2日【夕刊】)