◆ 鵜飼哲という万華鏡
時代と格闘する精神 (『救援』から)
前田朗(東京造形大学)
◆ テロルの時代にに
『テロルはどこから到来したか―その政治的主体と思想』及び『まつろわぬ者たちの祭り―日本型祝賀資本主義批判』。
鵜飼哲がインパクト出版会から相次いで送り出した二冊の書物は、時代と格闘するとはどういうことかを私たちに教えてくれる。
『抵抗への招待』から二三年、『応答する力―来たるべき言葉たちへ』から一七年、『主権のかなたで』から一二年、そして『ジャッキー・デリダの墓』から六年。
ジャン・ジュネの研究者にして、ジャック・デリダの翻訳者。
ナショナリズムとレイシズムの厳しい批判者として、天皇制との思想的闘いの先陣を切ってきた鵜飼哲。
反東京オリンピックの理論と運動の仕掛け人でもある鵜飼哲。
現代思想の最前線を疾駆しながら、つねに立ち止まり、反芻し、言葉を紡ぎ直し、問い返し、つねに光速の鮮烈な思考を巡らせてきた鵜飼哲。
私たちは「テロルの時代」に生きている。
鵜飼はテロ、テロル、テロリズムという言葉の彼方にある歴史と思想の激突を、幾本もの補助線を引きながら、分画し、併合し、裏返し、重ね合わせ、時に溶解しながら詰めていく。その手つきは誰にも真似の出釆ない鵜飼流だ。
鵜飼が引く補助線は簡明でありながら独特だ。意外な場所に細く小さな補助線を挟むかと思えば、長く太い、太すぎる補助線を強引に割り込ませる。
直線とは限らない。緩やかにうねり、迂回して元に返る。
補助線の上にそれを否定するかのような補助線が引き直されたと思うと、消失したはずの補助線が図面を支配する。
そんな比喩しかできないが、ここに私たちが鵜飼の文章を三〇年も読み続けてきた深奥の秘密がある。
鵜飼は、「世代論的」と言われることも覚悟の上で、同時代に向き合ってきた自分の年代・経験に言及する。
フランス文学・思想研究者なので、いつ、どの時代にパリに滞在したかは決して偶然的なこととしてではなく、鵜飼の思想形成につねに影響を与えているからだ。
パレスチナと南アフリカを「類比」しながら語る際に、南アフリカの最初のイメージは小学生時代に、出張した父親から受け取った絵はがきだという。
鉱物資源、金やダイヤモンドの、そしてアパルトヘイトの南アフリカ。
学生時代にシャープビルの虐殺を知り、アパルトヘイトへの認識を深めていく。
一九五五年生れの鵜飼にとって、どの事件にどのように遭遇したかは、思索を積み重ねるために常に意識されていなければならない。
先行世代が全共闘世代であり、圧倒的にこの国の青年達の思想に影響を与えてきた。引きずり回してきたといった方が良いかもしれない。
それゆえ鵜飼の問いは複雑化していく。複雑化した問いを、一つひとつていねいに解きほぐし、世代論を意識しながら、世代論に回収されない思想をデザインする。
一九五五年生れで、鵜飼と同じ世代論的経験をしてきた私にとって、「ああ、やっぱり。そうだったのか」という言葉を繰り返しながら鵜飼の著書を読むことは、ある種の愉しみである。
世代が一緒だからと言って、同じ風景を見てきたわけではない。鵜飼に見えたものが私には見えなかったことも少なくない。それでも、「ああ、やっぱり」なのだ。時代と格闘する精神を育んだ磁場を共有しているからだ。
◆ ともに闘うために
死刑も鵜飼の重要テーマの一つであり、「政治犯の処刑」というテーゼが打ち出される。『500冊の死刑―死刑廃止再入門』(インパクト出版会)での私の言葉で言えば「非国民の死刑」となる。
死刑は国民と非国民を分かつ制度であり、「生きるに値する者と生きるに値しない者を分かつ制度」である。
鵜飼は「政治犯の処刑」を視野に入れつつ、天皇制ファシズムの日本で死刑が多用されなかったのは、「転向」「思想犯保護観祭」のゆえであったことを踏まえる。転向を迫るファシズムの風土はいまなお健在なのだから。
この半世紀近くフランスでも世界的にも、テロルは目の前の現実であり、思想の課題であり、運動のバネであった。このことが見えていたのは、鵜飼と、ごぐ僅かの思想家だけだろう。
「生きてやつらにやりかえせ」という講演は、テロルに立ち向かい、テロルを飲み込み、テロルをわがものとし、テロルをつぶさに分析する鵜飼の革命的離れ業を鮮やかに見せてくれる。
「私たちは『未来の残酷さ』のただなかにいる」――地震、津波、原発事故の三重の打撃によって政治的、社会的な未曾有の危機に陥つた日本資本主義が、スポーツ・ナショナリズムの鞭を全力で振るって、なりふ構わず正面突破を図ろうとしているからだ。
明治一五〇年、天皇代替り、リニア新幹線、東京オリンピック・パラリンピック、大阪万博構想と続く、国民国家主義とグローバル資本主義を媒介する巨大スペクタクルが時代を陰鬱に刻印する。
半世紀前の六〇年安保、ミッチーブーム、東京オリンピック、東海道新幹線、大阪万博、明治一OO年、札幌オリンピックと連なったイベントの再来が、資本主義を復活しつつ、その終焉を予告する。
「災厄のポリティクス」「境界から歴史をみつめ直す」「日本型祝賀資本主義批判」の三部にまとめられた文章の数々が、鵜飼哲ワールドをつくりあげる。
二〇一〇年代の日本の狂乱と崩落を、力ずくで統合しようとする「日本型祝賀資本主義」の倒錯と暴力を、鵜飼は言葉の銃弾で撃ち抜く。
鵜飼流の批判の作法は定型化できない。
歴史を遡行し、論理を組み替える。
言葉の表層を掠めるかと思うと、深層からぶち抜く。
直喩あり、暗喩あり、比喩の限界の指摘あり。時の彼方から迎撃することもある。
〈フクシマ〉と〈ヒロシマ〉の交差点に思想の爆弾を投下する。
原発政策と対抗運動の弁証法的展開を追跡するかと思うと、境界のリミットに身を浸して現状を測定し直す。
実証的データに基づく批判と、目の覚めるような飛翔論理を巧みに操る。
鵜飼の立論は「ともに考えること、闘うこと」に差し向けられる。
どこからでも誰であっても、ともに闘いのフィールドに参戦できる。思想の愉しみを満喫しながら、自分を鍛え、他者との共感を実感しながら、私たちは鵜飼の闘いをコンマ一秒遅れで滑降することができる。
いまやTOKYO2020は阻止した。
モリ、カケ、サクラ、そしてクロカワの〈惨事自招型資本主義〉のアベシンゾーと別れを告げるため、TOKYO2020―TOKYO2021阻止に向けて、次の一歩を。
『救援 616号』(2020年7月10日)
今、東京の教育と民主主義が危ない!!
東京都の元「藤田先生を応援する会」有志による、教育と民主主義を守るブログです。