《連載 危ない「道徳教科書」(プレジデント オンライン)》
 ◆ 監督の"打つな"を無視した野球少年の末路
   ~上からの命令は絶対なのか

寺脇 研(てらわき・けん 映画評論家、京都造形芸術大学教授)

 チームの「和」を乱す人は罰せられるべきなのだろうか。今年度から小学校で使われはじめた道徳の教科書に「集団生活を乱さないことは、個人の考えより重要」とする教材が載っている。教育行政に詳しい寺脇研氏は「この教材は、作者の意図と異なり、『守るべき規範』を押し付けるものになっている」と指摘する――。(第1回)
 ※本稿は、寺脇研『危ない「道徳教科書」』(宝島社)の一部を再構成したものです。

 ◆ 物議をかもした「星野君の二塁打」
 小学校の道徳教科書で、もっとも議論の対象となったのが6年生の教科書に掲載されている「星野君の二塁打」という教材である。原作は児童文学者の吉田甲子太郎(1894-1957)。もとは1947年に雑誌『少年』に掲載された作品である。


 1950年代から小学校の国語の教科書に掲載され、また1970年代からは、「道徳の時間」(正式教科となる前)の副読本の教材としてもしばしば使われてきた経緯がある。今回、2社の道徳教科書に採用された。
 【星野君の二塁打】
 (打てる、きっと打てるぞ!)
 星野君は、強くバットをにぎり直した。
 (かんとくの指示は、バントだけれど、今は打てそうな気がするんだ。どうしよう……。)
 ピッチャーが第一球を投げ込んできた。星野君は反射的に、思いきりバットをふった。
 バットの真ん中に当たったボールは、ぐうんとのびて、セカンドとショートの間をあざやかにぬいた。ヒット! ヒット! 二塁打だ。ヒットを打った星野君は、二塁の上に直立して、思わずガッツポーズをとった。この一打が星野君の所属するチームを勝利に導き、市内野球選手権大会出場を決めたのだ。
 その翌日も、チームのメンバーは、練習を休まなかった。決められた午後一時に、町のグラウンドに集まって、焼けつくような太陽の下で、かた慣らしのキャッチボールを始めた。
 そこへ、かんとくの別府さんが姿を現した、そして、
 「みんな、今日は少し話があるんだ。こっちへ来てくれないか。」
 と言って、大きなかしの木かげであぐらをかいた。
 選手たちは、別府さんの周りに集まり、半円をえがいてすわった。
 「みんな、昨日はよくやってくれたね。おかげで、ぼくらのチームは待望の選手権大会に出場できることになった。本当なら心から、『おめでとう。』と言いたいところだが、ぼくにはどうも、それができないんだ。」
 別府さんの重々しい口調に、選手たちは、ただごとではなさそうなふんいきを感じた。
 別府さんは、ひざの上に横たえたバットを両手でゆっくり回していたが、それを止めて、静かに言葉を続けた。
 「ぼくが、このチームのかんとくになる時、君たちは、喜んでぼくをむかえてくれると言った。そこでぼくは、君たちと相談して、チームの約束を決めたんだ。いったん決めた以上は、それを守るのが当然だと思う。そして、試合のときなどに、チームの作戦として決めたことは、絶対に守ってほしいという話もした。君たちは、これにも気持ちよく賛成してくれた。そうしたことを君たちがしっかり守って練習を続けてきたおかげで、ぼくらのチームも、かなり力が付いてきたと思っている。だが、昨日ぼくは、どうしても納得できない経験をしたんだ。」
 ここまで聞いた時、星野君はなんとなく
 (これは自分のことかな。)
 と思った。けれども自分がしかられるわけはないと、思い返した。
 (確かにぼくは昨日、バントを命じられたのに、バットをふった。それはチームの約束を破ったことになるかもしれない。しかしその結果、ぼくらのチームが勝ったじゃないか。)
 その時別府さんは、ひざの上のバットをコツンと地面に置いた。そしてななめ右前にすわっている星野君の顔を、正面から見た。
 「はっきり言おう。ぼくは、昨日の星野君の二塁打が納得できないんだ。バントで岩田君を二塁へ送る。これがあの時チームで決めた作戦だった。星野君は不服らしかったが、とにかくそれを承知した。いったん承知しておきながら、勝手に打って出た。小さく言えば、ぼくとの約束を破り、大きく言えば、チームの輪を乱したことになるんだ。」
 「だけど、二塁打を打って、このチームを救ったんですから。」
 と、星野君のヒットでホームをふんだ岩田君が、助け船を出した。
 「いや、いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことに変わりはないんだ。いいか、みんな、野球はただ勝てばいいんじゃないんだよ。健康な体を作ると同時に、団体競技として、協同の精神を養うためのものなんだ。ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ。」
 別府さんの口調に熱がこもる。そのほおが赤くなるにつれ、星野君の顔からは、血の気が引いていった。選手たちは、みんな、頭を深く垂れてしまった。
 「星野君はいい選手だ。おしいと思う。しかし、だからといって、ぼくはチームの約束を破り、輪を乱した者を、そのままにしておくわけにはいかない。」
 そこまで聞くと、思わずみんなは顔を上げて、別府さんを見た。星野君だけが、じっとうつむいたまま、石のように動かなかった。
 「ぼくは、今度の大会で星野君の出場を禁じたいと思う。そして、しっかりと反省してほしいんだ。そのために、ぼくらは大会で負けるかもしれない。しかし、それはしかたのないことと、思ってもらうよりしようがない。」
 星野君はじっと、なみだをこらえていた。
 別府さんを中心とした少年選手たちの半円は、しばらく、そのまま動かなかった。
 ◆ 「監督の指示は絶対」となるのは明らか
 これが、教科書に収録された「星野君の二塁打」である。監督のサインを守らなかった星野君に対し、勝利に貢献したという評価は与えられず、逆に出場禁止という罰を与えられてしまう

 ある教科書を見ると、この「星野君の二塁打」というタイトルの横には「チームの一員として」というキャッチが添えられており、さらに上部には「よりよい学校生活、集団生活の充実」という表記がある。
 これは、学習指導要領に掲げられた小学校高学年用の項目名そのもので、その指導内容である「先生や学校の人々を敬愛し、みんなで協力し合ってよりよい学級や学校をつくるとともに、様々な集団の中での自分の役割を自覚して集団生活の充実に努めること」を教えるために、この「星野君の二塁打」の話を入れましたよ、ということをわざわざ念押ししているのだ。
 これを前提に子どもたちに議論させたならば、どういうことが起きるか。「星野君は間違った。悪いことをした」「監督の指示は絶対。それを守らなかった星野君が悪い」という意見が圧倒的に多くなるのは明らかだ。

 ◆ 監督の指示に忠実だった日大アメフト部
 しかし、それは一方で「結論の押し付け」でもある。たとえ監督の指示が明らかに間違っていると思ったときでも、100%指示を守らなければいけないのか。あるいは、たとえ指示に反した行動を取ったとしても、それによってペナルティを与えられるべきなのか。
 そうした議論はあっていいはずだが、この「星野君の二塁打」の話からはそうした議論の発展が生まれにくく、「集団生活を乱さないことは個人の考えより重要」という結論しか見えてこない。

 2018年、日本大学アメフト部の宮川泰介選手が、監督に指示されたとおり、相手選手に悪質なタックルを仕掛け、大きく報道された一件があった。タックルで相手を潰しケガをさせなければ、自分は試合に出させてもらえないという葛藤のなかで、宮川選手は相手に反則タックルを仕掛けた。
 果たして、監督の指示を忠実に守った宮川選手はいけないことをしたのか、もしそうだとしたら何がいけなかったのか、自分だったら監督の指示を拒否することはできるか――この「宮川君のタックル」の実話のほうが、「星野君の二塁打」よりよほど、「集団の中での自分の役割」を考え議論する材料に適しているように思う。

 ◆ 星野君は命令に背いて、甲子園に出場停止となった
 もともと、この「星野君の二塁打」は、道徳の教材のために書かれたものではない。
 日本国憲法が公布され、教育基本法が施行された1947年にこの物語を発表した原作者は、野球の話を通じ、民主主義的な態度というものは何か、あるいはスポーツの精神というものについて考えてほしかったのではないだろうか。

 掲載誌の『少年』は1946年創刊の少年向け娯楽読み物雑誌であり、江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズを看板にしていた。
 また、原作は「甲子園の全国中等学校野球大会」、つまりいまの全国高等学校野球大会の地区予選決勝の話であり、星野君は「次の試合」でなく甲子園に出場停止となるのだ。
 当時の中等学校はいまの高校、つまり高校生の陥る葛藤の話を、あたかも自分のこととして小学校6年生に考えさせている。
 しかも、これが道徳の教科書に使用されると、話の結末が、生きるうえでの守るべき規範という形で押し付けられることにつながりやすく、作者の意図とは違ったところで「監督の指示にはいかなるものでも絶対に従わなければならない」という全体主義的な結論が導かれかねない。

 確かに野球の試合の場合にはそうかもしれないが、もっと広げて考えれば、人生のいかなる場合にも、上からの命令に従い続けるべきだろうか
 命令や組織の「和」と称される暗黙の決まりが、必ずしも正しいとは限らない場合もある。この「星野君の二塁打」で、そうした広い議論ができるかどうかといえば、それは大いに疑問だ。

 ◆ 教科書でカットされたシーン
 教科書に掲載されている「星野君の二塁打」の話は、いまの高校野球に相当する中等学校野球が小学生の少年野球にされているのをはじめ、原作を教科書用に都合よく編集してある。

 原作では、星野君が打席に立っている間の描写が細かく、彼の内心の葛藤が細かく表現してある。星野君は、決して安易に「ヒッティング」の判断をしたわけではない。
 また原作では、監督が試合翌日に星野君に対する批判を始める前、キャプテンの大川君を呼びこんなやりとりを交わしている。(一部現代仮名づかいに変更)
 「ぼくが、監督に就任するときに、君たちに話した言葉は、みんなおぼえていてくれるだろうな。ぼくは、君たちがぼくを監督として迎えることに賛成なら就任してもいい。校長からたのまれたというだけのことではいやだ。そうだったろう。大川君。」
 大川は、先生の顏を見て強く、うなづいた。
 「そのとき、諸君は喜んで、ぼくを迎えてくれるといった。そこで、ぼくは野球部の規則は諸君と相談してきめる、しかし、一たんきめた以上は厳重にまもってもらうことにする。また、試合のときなどに、ティームの作戦としてきめたことは、これに服従してもらわなければならないという話もした。諸君は、これにも快く賛成してくれた。その後、ぼくは気もちよく、諸君と練習をつづけてきて、どうやら、ぼくらの野球部も、少しずつ力がついてきたと思ってる。だが、きのう、ぼくはおもしろくない経験をしたのだ。」
 教科書では薄められているが、監督は校長からの依頼だけでは引き受けなかった、部員の了承を条件に就任を決めた、という経緯が書いてある。作者のメッセージは、監督が出したバントのサインを守らなかったことの是非ではなく「みんなで決めたことは守っていこう」という「民主主義の原理」だったのではないか。

 ◆ 原作とは違う「後味悪い幕切れ」
 また、これも教科書には掲載されていないが、原作の最後の部分にはこうある。
 「ぼくは、星野君の甲子園出場を禁じたいと思う。当分、謹慎していてもらいたいのだ。そのために、ぼくらは甲子園の第一予選で負けることになるかも知れない。しかし、それはやむを得ないこととあきらめてもらうより仕方がないのだ。」
 星野はじっと涙をこらえていた。いちいち先生のいうとおりだ。かれは、これまで、自分がいい気になって、世の中に甘えていたことを、しみじみ感じた。
 「星野君、異存はあるまいな。」
 よびかけられるといっしょに、星野は涙で光った目をあげて強く答えた。
 「異存ありません。」
 ここで星野君は監督の「処分」を受け入れ、自分なりの態度をはっきりと表明している。教科書の、後味悪い幕切れとは大違いだ。
 作者はここで星野君が間違っていたことを念押ししたかったわけではなく、真摯に反省ができる人間の強さと美しさを伝えたかったのであろう。
 しかし、教科書ではこうしたシーンはカットされているため、指示に従わなかった星野君が救いのない形で描かれ、結果として「監督に言われたことは守ろう」といった方向になりがちである。

 ◆ 「犠牲の精神」がなければ社会へ出てもダメ?
 さらにもうひとつ指摘したい重大な問題は、この話のなかに出てくる「犠牲」という言葉に関してである。「犠牲」とは、もともと神に捧げる「いけにえ」のことであり、小学生には極めて難しい意味合いを持つ。
 この部分については原作にも、監督のセリフで「ギセイの精神のわからない人間は、社会へ出たって社会を益することはできはしないぞ」とあり、これが教科書では「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ。」となっている。
 300万人以上の日本人とその何倍ものアジアの人々が犠牲になった戦争からたった2年後に書かれた原作のこのセリフには、大いに疑問を感じる。

 「集団のための犠牲」というと、満州からの引き揚げに際し、お年寄りや子どもを含む集団の安全を守るため、因果を含めたうえで未婚の娘たちをソ連兵に差し出した悲惨な実話「差し出された娘たち」など枚挙にいとまがない。

 「ギセイ」とわざわざ片仮名で書いたあたりに作者のわずかばかりの逡巡は匂うものの、戦争を反省し人権尊重をうたう日本国憲法が施行された直後に発表された作品とは思えない無神経さだ。
 こんなセリフを、そのまま現在の教科書に使っていいはずはない。
 すでに「犠牲バント」という言葉が消え、単に「バント」あるいは「送りバント」と呼ばれるようになって久しい現代において、「犠牲の精神」がなければ社会へ出てもダメだと決め付けるようなもの言いは時代錯誤だ。
 ちなみに、もう1社の教科書では「犠牲」の部分は使われていない。この話をこんな形で道徳の教科書に使うのは不適切ではないだろうか。
 そうした例は、この「星野君の二塁打」ばかりではない。(続く)

 ※寺脇 研(てらわき・けん)
 京都造形芸術大学 客員教授
 1952年生まれ。東京大学法学部卒業後、75年文部省(現・文部科学省)入省。92年文部省初等中等教育局職業教育課長、93年広島県教育委員会教育長、1997年文部省生涯学習局生涯学習振興課長、2001年文部科学省大臣官房審議官、02年文化庁文化部長。06年文部科学省退官。著書に『国家の教育支配がすすむ』(青灯社)、『文部科学省』(中公新書ラクレ)、『これからの日本、これからの教育』(前川喜平氏との共著、ちくま新書)ほか多数。

『PRESIDENT Online』(2018/10/09)
https://president.jp/articles/-/26355