◆ 米軍基地がある沖縄――子どもたちの未来は (教科書ネット)
石原昌家 沖縄国際大学名誉教授

 ◆ 基地の中の沖縄

 戦後73年という長い月日を、米軍基地と隣り合わせに過ごすことになると、沖縄のひとたちは想像しえたでしょうか。
 人間の身体の中に大きな異物が入っていて、それを取り除かないといけない。そのままにしておくと身体がむしばまれてしまう、と思いながら過ごしているうちに73年経ってしまっているというのが、沖縄戦生存者の実感であろう。
 「沖縄に基地があるのか、基地の中に沖縄があるのか」、といわれながら今日に至っている。
 「米軍基地がある沖縄で、子どもたちの未来は」という与えられたテーマは、米軍基地と隣り合わせの子どもたちがどのような体験をしてきたか、その子どもたちの未来はどうであるのか、という視点で考えたい。


 73年間、沖縄の米軍は、他国の人びとに対して殺裁の限りを尽くしてきたのが特徴である。
 その恐るべき基地周辺に住む子どもたちにとって米軍基地は、どのような存在だったのか、それを具体的に振り返ることが、「子どもたちの未来」は?という問いに答えることになるのかもしれない。

 ◆ 沖縄戦が終わっても

 1950年6月に始まった朝鮮戦争では、嘉手納空軍基地から米軍機が連日、朝鮮半島での「北朝鮮」軍への爆撃のため飛び立っていった。米軍は沖縄住民を相手に空襲警報を嶋らしてすべての灯りを消すという防空演習が、ときおり53年7月まで続いた。
 朝鮮戦争が休戦になってまもなく、ベトナムではフランス軍との戦闘の第一次インドシナ戦争がデイエンビエンフーの闘いで終結をみた。
 米国は、これでアジアがドミノ倒しのように共産主義化するという危機感から、沖縄の米軍基地は「悪魔の共産主義」から守る「民主主義のショーウィンドー」だという宣伝を強めた。
 したがって、米軍の意に逆らうものは、すべて「悪魔の手先」として弾圧の対象にしていった。

 【沖縄本島での体験】

 私が小学校6年の1953年、映画館でも夜間、米軍の空襲警報が鳴るや、上映が中断され真っ暗闇の中でしばらく待機したり、走行中のバスもすぐに消灯して停車し、解除のサイレンを待った。
 深夜の不気味な爆音で、不安で眠つけない夜があったが、それは朝鮮半島への渡洋爆撃のB29の飛行だったことは後年知ることになった。

 その頃・中城(なかぐすく)村津覇(つは)小学校での知人は信じられないような体験をしていた。
 学校附近で演習していた米兵の一団が授業中の教室へ窓から飛び込んできて外に向けて撃ち合い(空砲だったであろう)、あっけにとられた生徒たちを尻目に、サッと出入口から走り去った。
 つまり、子どもたちが授業中の教室を朝鮮半島でのゲリラ戦の訓練場にしていたのである。この同年代の知人の体験は、私が自分の体験を語ったときに思い出したエピソードだった。

 私が夏休みのある日、友人二人で人里離れた夜道を散歩しているとき、暗闇からいきなり、ダッダッダッという連射音と同時に真っ赤な火が向かってきたので、反射的に二人はワッという叫び声をあげて倒れこんだ。すると、5、6名の米兵が倒れている二人の側をガヤガヤ言いながら去って行った。無傷だったから空砲だったに違いない。米軍は夜間も住民を敵兵にみたてて訓練していたのであろう。
 これらのことは日常茶飯事だったようで、なんの話題にもならず・子どもたちの記憶の中にしまわれただけである。

 【スクラップブームと伊江島の子どもたちの体験】

 日米最後の地上戦闘だった沖縄戦は、「鉄の暴風」と形容されるほどすさまじく、住民の生産手段、生産施設などあらゆるものを破壊つくしたうえ、米軍は住民の生産の場・生活の場を奪っていった。

 ところが、激戦場の跡のおびただしい不発弾や銃砲弾の破片や薬きょう類には鉄や非鉄金属類が含まれ、島中至る所に散乱していた。じつは、それが「国共内戦」(毛沢東率いる共産軍と台湾に逃げ込んだ蒋介石率いる国府軍との内戦)下の中国大陸などで必要とされ、香港経由の密貿易の形で膨大な量が海を渡った。
 餓死線上をさまよっていた沖縄住民は、地上戦闘の遺物が日常生活用品との物々交換品として活用され、飢えをしのぐことになった。

 さらに、朝鮮戦争によって、日本では「朝鮮特需」がうまれ、沖縄に生産物はなくても戦争の遺物である非鉄金属・鉄の需要が生まれ、一大「スクラップブーム」となった。
 例えば、山野の艦砲射撃跡で砲弾から飛び散った真鍮・銅などを発掘し、高値で売って中学二年の私ひとりで、これまでの薪から石油コンロ生活へとわが家の台所を大改革できた。しかし、1955年頃には沖縄中の山野の「スクラップ」は掘りつくされたようだ。

 そこで米軍の実弾投下訓練が激しい伊江島での子どもたちを中心にしたスクラップ収集は想像を絶する行為がくり広げられた。
 沖縄戦では、降りしきる砲弾から逃げまどいながら奇跡の連続で生き延びた住民は、「針の耳(ハーイヌミー)」をくぐってきたと表現している。ところが、米軍に生産の場を強奪された伊江島では、米軍の模擬爆弾投下訓練が始まるや、落下する弾に我先に駆けつけて、この弾は自分の物という印をつけて、危険が去ってから掘り出すということをしていた。
 もちろん、死傷者もでた。それは本島中部の金武でも演習中に高価な真鍮である薬きょう拾いをして実弾が当たり、死亡する事件も発生している。

 【沖縄脱出】

 子ども心に米軍基地の存在は、沖縄住民を人間として扱わない、米軍に抵抗するものは弾圧するということを実感していたので、子どもたちは「集団就職」「大学進学」という形で、日本本土への「沖縄脱出」を計っていった。
 つまり、「米軍基地がある沖縄で、子どもたちの未来は」という答えは、少なくとも1960年前後以降、子どもたちは、自分の未来の姿を求めて、「祖国日本」「母国日本」をめざしていった。
 日本へ渡れない子どもたちには、沖縄に「取り残された」という焦燥感が多かれ少なかれ漂っていた。

 しかし、「憧れの日本」では、「沖縄返還運動」が起こりながらも「沖縄差別」もあって、自殺者もでるという問題も発生していき、「こどもたちの未来は」必ずしも希望あふれるものではなく、屈折した心を新たにもたらすものでもあった。

 ◆ 「日本復帰」後のいま

 1972年の「日本復帰」後、米軍基地のうえに、自衛隊基地が加わり、軍事基地沖縄は、ますます、「こどもたちの未来」を暗澹(あんたん)たるものにしている。
 とくに、安倍自民党・公明党政権の下で、自衛隊の「南西シフト」とやらで与那国島、宮古島、そして石垣島や奄美諸島への新たな自衛隊の配備は、1944年、南西諸島防衛軍と称してもよい、「第三十二軍」の創設をほうふつさせる。
 まさに、沖縄戦の再来を予感させている。その当時と異なるのは、日米で軍事基地沖縄を強固な砦化しようとしていることである。

 辺野古での新基地建設のため自衛艦・海保・機動隊がさまざまな場面で姿を現して、新基地建設阻止の住民を弾圧している。
 本土民衆の大きな支えを受けながら、沖縄戦の生存者や米軍基地の沖縄を体験してきた子どもたちがいまや定年退職して、子や孫たちに二度と苦難の道を歩まさないようにと、「辺野古ゲート前」で工事車両をストップさせるために座り込みを継続している。
 それが原因で多くの高齢者が命を落としている。それこそ命をかけたたたかいが、いま自民党・公明党政権にむけて粘り強くつづいている。
 それはひとえに「子どもたちの未来」を、明るく輝かしいものにするためだ。

 ※追記:地元テレビは、北中城村の川柳愛好家がつくる「北中城三水会」の天賞は、那覇市の大兼久公枝さんが辺野古での座り込み活動をもとに平和への思いを詠んだ「子を思う命削って座り込み」が選ばれたことをつたえている。
   (いしはらまさいえ)

『子どもと教科書全国ネット21ニュース119号』(2018.4)