◆ 教科書の沖縄戦記述はどう変わったか
-検定意見撤回のとりくみがオール沖縄の原点- (教科書ネット21ニュース)
◆ 2006年度教科書検定
2006年12月、高等学校日本史教科書の検定意見連絡があった。そこでは、これまで検定意見がつかなかった沖縄戦の記述について、「沖縄戦の実態について、誤解するおそれのある表現である」という検定意見が付された。
これだけでは、何が「誤解するおそれがある」のかはわからない。教科書調査官の説明によれば、軍から「集団自決」を強制するオフィシャルな命令が出されたということは確認できないので、そのように文章を修正してほしいということであった。
つまり、日本軍が集団自決を「させた」・「強いた」・「強要した」・「強制した」などの表現は再検討せよということであった。
この検定意見が付けられる前の教科書記述は、例えば
「日本軍の島民に対する残虐行為・集団自決の強要などが生じた」(山川出版2003年度版)、
「日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いたものもあった」(東京書籍2003年版)、
「日本軍のため、集団自決を強要されたり…」(実教出版1989年版)
など、「集団自決」に関する日本軍の強制が書かれており、検定で修正を求められることはなかった。
しかし、2006年度の検定で「誤解するおそれがある」という意見が付されたのである。
ちなみに、前年の2005年度検定で、沖縄戦については同一の記述であるにも関わらず、修正を求める検定意見は付されなかった。
各出版社の修正検定意見が付されれば、それに対して何らかの修正を施さない限り検定に合格することはできないので、各出版社は検定意見に沿って修正せざるを得ない。
各出版社は、
「原文 日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いられたものもあった」
→「修正文 『集団自決』に追い込まれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった(東京書籍日本史A)」。
「原文 日本軍に『集団自決』を強いられたり…」
→「修正文 追いつめられて『集団自決』した人や…(三省堂日本史A・B)」。
「原文 なかには日本軍に集団自決を強要された人もいた」
→「修正文 なかには集団自決に追い込まれた人々もいた(清水書院日本史A・B)」、
などと修正し、検定に合格した。
住民は誰に追いつめられたのか、誰に追い込まれて「集団自決」したのかが不明瞭な文章となってしまった。住民の自発的な行為とする軍国美談になりかねない修正であった。
◆ 検定意見の背景
なぜ、この時期に、このような検定意見が付いたのだろうか。
時の政権は、第一次安倍政権であった。安倍政権は多くの人々の反対を押し切って、2006年12月、教育基本法を改悪して愛国心の強要を盛り込んだ。こうした状況下での検定意見に文科省の「付度」があったと考えるのは、うがち過ぎだろうか。
検定公開後、文科省が検定意見作成の参考資料として『沖縄戦冤罪訴訟』なるものをあげていたことが判明した。これは、大阪地裁に提出された原告の陳述書であった。
そもそも歴史事実とは、裁判で決定するものではなく、研究の穣み重ねで確定されるものであるが、文科省は判決でも証拠資料でもなく、原告の一方的な陳述書を検定意見の根拠としたのである。
さらに、関東学院大学教授林博史氏の『沖縄戦と民衆』のごく一部を示し、「自決命令は確認されていない」とした。しかし、『沖縄戦と民衆』を通読すれば、日本軍の強制なくして「集団自決」は起こりえなかったことを明確に叙述していることがわかる。林氏も文科省の判断は、自己の著作の誤読によるものだと反論したほどである。
◆ 大江・岩波沖縄戦裁判
2005年8月、大江健三郎氏の1970年に出版された『沖縄ノート』をめぐり、大江氏と出版元の岩波書店が名誉棄損で大阪地裁に訴えられていた。
原告の主張は、沖縄戦での「集団自決」に日本軍は関与しておらず、自決命令は出していないとするものであった。
原告は沖縄戦当時の戦隊長らであったが、実質的には藤岡信勝氏らの歴史修正主義グループであった。
彼らは、教科書から「南京大虐殺」「日本軍慰安婦」「沖縄戦での日本軍の残虐行為」を消し去りたいと考えている。
既に中学校の歴史教科書から「日本軍慰安婦」の削除に成功した彼らの次なる目標は「沖縄戦」だったのだろう。
出版から35年も経ての提訴の目的は、名誉の回復などではなく、沖縄戦の真実を隠ぺいすることにあったのではなかろうか。
裁判経過を詳述するスペースはないが、2008年3月に大阪地裁で、2008年10月に大阪高裁で、それぞれ原告の主張は明確に否定され、2011年4月に最高裁で上告が棄却されて大江・岩波側の勝訴が確定した。
勝訴の大きな要因は、沖縄戦の体験者から、これまで語られることのなかった貴重な証言が次々と明らかにされ、沖縄戦の真実が明らかにされたことにある。思い出すこともつらい体験、子や孫にも伝えることのできない凄惨な体験が、粛々と語られたのである。そこには、体験者でなければ語ることのできない迫真の証言があった。裁判所は、これこそ真実だと判断したのである。
◆ 9.29県民大会
沖縄では、検定意見の撤回を求める県議会決議が全会一致で可決され、42の全自治体でも同様の決議があげられた。
これを受け2007年9月29日、沖縄戦の真実を歪曲する検定意見の撤回を求める県民大会が11万人余を結集して実現した。
ここに現在に至る「オール沖縄」が結成された。
党派を超えた連帯は全国に波及し、その後の野党共闘、さらには市民との連帯に発展した。オール沖縄の運動は、その原点といえる。
再度の訂正申請11万人余を結集した沖縄の強い思いは、政府・文科省を動かした。
福田康夫内閣の渡海紀三郎文科大臣は、沖縄戦記述についての検定意見は撤回しないが、出版社側が訂正申請をするのであれば受け付けるとしたのである。
同年11月、各社が訂正申請を行い、日本軍の強制性を復活させた。
しかし文科省は12月、検定調査審議会日本史小委員会の「基本的とらえ方」なる見解を示した。それは、「集団自決」に関する軍の強制はあくまで認めないが、関与までなら許容するという内容であった。一定の枠組みを設定し、その範囲内での修正以外は認めないとしたのである。
表現の自由、学問の自由を踏みにじる行為であった。各出版社は、既に提出していた訂正申請を取り下げ、この「基本的とらえ方」に沿った内容で再度訂正を申請した。
その結果、「軍の強制」という表現は姿を消し、「住民は集団自決に追い込まれた」などとする表現になり、誰が追い込んだのかが不明な文章となった。
教科書記述はその後の改訂を経て、2017年版では、日本軍によって「集団自決」に追い込まれたとか、軍に強要されたと書かれるようになっており、ある程度は回復している。
しかし、「沖縄戦について誤解するおそれがある」という検定意見が撤回されない限り、また「基本的とらえ方」という枠組みがある限り、十分な記述の回復は難しい。沖縄の人々をはじめ、多くの市民が検定意見撤回にこだわるのは、そのためである。(てらかわとおる)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 117号』(2017.12)
-検定意見撤回のとりくみがオール沖縄の原点- (教科書ネット21ニュース)
寺川徹 出版労連教科書対策部長
◆ 2006年度教科書検定
2006年12月、高等学校日本史教科書の検定意見連絡があった。そこでは、これまで検定意見がつかなかった沖縄戦の記述について、「沖縄戦の実態について、誤解するおそれのある表現である」という検定意見が付された。
これだけでは、何が「誤解するおそれがある」のかはわからない。教科書調査官の説明によれば、軍から「集団自決」を強制するオフィシャルな命令が出されたということは確認できないので、そのように文章を修正してほしいということであった。
つまり、日本軍が集団自決を「させた」・「強いた」・「強要した」・「強制した」などの表現は再検討せよということであった。
この検定意見が付けられる前の教科書記述は、例えば
「日本軍の島民に対する残虐行為・集団自決の強要などが生じた」(山川出版2003年度版)、
「日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いたものもあった」(東京書籍2003年版)、
「日本軍のため、集団自決を強要されたり…」(実教出版1989年版)
など、「集団自決」に関する日本軍の強制が書かれており、検定で修正を求められることはなかった。
しかし、2006年度の検定で「誤解するおそれがある」という意見が付されたのである。
ちなみに、前年の2005年度検定で、沖縄戦については同一の記述であるにも関わらず、修正を求める検定意見は付されなかった。
各出版社の修正検定意見が付されれば、それに対して何らかの修正を施さない限り検定に合格することはできないので、各出版社は検定意見に沿って修正せざるを得ない。
各出版社は、
「原文 日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いられたものもあった」
→「修正文 『集団自決』に追い込まれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった(東京書籍日本史A)」。
「原文 日本軍に『集団自決』を強いられたり…」
→「修正文 追いつめられて『集団自決』した人や…(三省堂日本史A・B)」。
「原文 なかには日本軍に集団自決を強要された人もいた」
→「修正文 なかには集団自決に追い込まれた人々もいた(清水書院日本史A・B)」、
などと修正し、検定に合格した。
住民は誰に追いつめられたのか、誰に追い込まれて「集団自決」したのかが不明瞭な文章となってしまった。住民の自発的な行為とする軍国美談になりかねない修正であった。
◆ 検定意見の背景
なぜ、この時期に、このような検定意見が付いたのだろうか。
時の政権は、第一次安倍政権であった。安倍政権は多くの人々の反対を押し切って、2006年12月、教育基本法を改悪して愛国心の強要を盛り込んだ。こうした状況下での検定意見に文科省の「付度」があったと考えるのは、うがち過ぎだろうか。
検定公開後、文科省が検定意見作成の参考資料として『沖縄戦冤罪訴訟』なるものをあげていたことが判明した。これは、大阪地裁に提出された原告の陳述書であった。
そもそも歴史事実とは、裁判で決定するものではなく、研究の穣み重ねで確定されるものであるが、文科省は判決でも証拠資料でもなく、原告の一方的な陳述書を検定意見の根拠としたのである。
さらに、関東学院大学教授林博史氏の『沖縄戦と民衆』のごく一部を示し、「自決命令は確認されていない」とした。しかし、『沖縄戦と民衆』を通読すれば、日本軍の強制なくして「集団自決」は起こりえなかったことを明確に叙述していることがわかる。林氏も文科省の判断は、自己の著作の誤読によるものだと反論したほどである。
◆ 大江・岩波沖縄戦裁判
2005年8月、大江健三郎氏の1970年に出版された『沖縄ノート』をめぐり、大江氏と出版元の岩波書店が名誉棄損で大阪地裁に訴えられていた。
原告の主張は、沖縄戦での「集団自決」に日本軍は関与しておらず、自決命令は出していないとするものであった。
原告は沖縄戦当時の戦隊長らであったが、実質的には藤岡信勝氏らの歴史修正主義グループであった。
彼らは、教科書から「南京大虐殺」「日本軍慰安婦」「沖縄戦での日本軍の残虐行為」を消し去りたいと考えている。
既に中学校の歴史教科書から「日本軍慰安婦」の削除に成功した彼らの次なる目標は「沖縄戦」だったのだろう。
出版から35年も経ての提訴の目的は、名誉の回復などではなく、沖縄戦の真実を隠ぺいすることにあったのではなかろうか。
裁判経過を詳述するスペースはないが、2008年3月に大阪地裁で、2008年10月に大阪高裁で、それぞれ原告の主張は明確に否定され、2011年4月に最高裁で上告が棄却されて大江・岩波側の勝訴が確定した。
勝訴の大きな要因は、沖縄戦の体験者から、これまで語られることのなかった貴重な証言が次々と明らかにされ、沖縄戦の真実が明らかにされたことにある。思い出すこともつらい体験、子や孫にも伝えることのできない凄惨な体験が、粛々と語られたのである。そこには、体験者でなければ語ることのできない迫真の証言があった。裁判所は、これこそ真実だと判断したのである。
◆ 9.29県民大会
沖縄では、検定意見の撤回を求める県議会決議が全会一致で可決され、42の全自治体でも同様の決議があげられた。
これを受け2007年9月29日、沖縄戦の真実を歪曲する検定意見の撤回を求める県民大会が11万人余を結集して実現した。
ここに現在に至る「オール沖縄」が結成された。
党派を超えた連帯は全国に波及し、その後の野党共闘、さらには市民との連帯に発展した。オール沖縄の運動は、その原点といえる。
再度の訂正申請11万人余を結集した沖縄の強い思いは、政府・文科省を動かした。
福田康夫内閣の渡海紀三郎文科大臣は、沖縄戦記述についての検定意見は撤回しないが、出版社側が訂正申請をするのであれば受け付けるとしたのである。
同年11月、各社が訂正申請を行い、日本軍の強制性を復活させた。
しかし文科省は12月、検定調査審議会日本史小委員会の「基本的とらえ方」なる見解を示した。それは、「集団自決」に関する軍の強制はあくまで認めないが、関与までなら許容するという内容であった。一定の枠組みを設定し、その範囲内での修正以外は認めないとしたのである。
表現の自由、学問の自由を踏みにじる行為であった。各出版社は、既に提出していた訂正申請を取り下げ、この「基本的とらえ方」に沿った内容で再度訂正を申請した。
その結果、「軍の強制」という表現は姿を消し、「住民は集団自決に追い込まれた」などとする表現になり、誰が追い込んだのかが不明な文章となった。
教科書記述はその後の改訂を経て、2017年版では、日本軍によって「集団自決」に追い込まれたとか、軍に強要されたと書かれるようになっており、ある程度は回復している。
しかし、「沖縄戦について誤解するおそれがある」という検定意見が撤回されない限り、また「基本的とらえ方」という枠組みがある限り、十分な記述の回復は難しい。沖縄の人々をはじめ、多くの市民が検定意見撤回にこだわるのは、そのためである。(てらかわとおる)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 117号』(2017.12)