[決議]
2017年9月30日

 私たち「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」は、朝鮮人虐殺犠牲者の追悼と虐殺の解明を行ってきた市民の集まりである。私たちは、日本政府が朝鮮人虐殺の責任を認め犠牲者遺族に向き合い、真相究明に取り組むよう求めてきた。

 私たちは、小池百合子東京都知事が2017年9月1日に東京都墨田区の横網町公園で開かれた「関東大震災94周年 朝鮮人犠牲者追悼式典」(9.1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼実行委員会主催)に追悼辞送付を取りやめたことに対して厳重に抗議し、来年以降は従来通り追悼辞を送付するよう、強く求める。これまで毎年、東京都知事の追悼辞は参列者の前で読み上げられてきた。このたびの小池都知事の判断は、単に従来の慣習をやめたというにとどまらない、重大な問題をはらんでいることを、以下に訴える。

 小池知事の今回の判断の契機は、2017年3月2日の東京都議会における古賀俊昭議員の質門であった。古賀議員は、朝鮮人犠牲者が殺されたのは「不法行為を働いた朝鮮独立運動家と、彼らに扇動されて追従したため]という荒唐無稽な説を都議会の場で披露し、虐殺の責任を犠牲者になすり付けた。そして、朝鮮人犠牲者追悼碑の撤去と追悼式への追悼辞送付を取りやめるように要求した。これに対して小池知事は、追悼辞について[私自身がよく目を通した上で、適切に判断いたします」と答弁した。

 その結果が追悼辞送付の取りやめであった。小池知事は、8月25日の定例記者会見における記者からの質問に答えて、追悼辞を取りやめることを発表した。また、9月1日の記者会見、26碑の都議会本会議においても動揺の姿勢を崩さなかった。その理由は、東京都慰霊堂で行われる法要において[すべての方々に対しましての慰霊を行っている」からだという。

 その結果が追悼辞送付の上記の「判断」には以下の問題がああり、撤回すべきである。

 第一に、この「判断」が古賀議員の要求を契機にしていることである。こがぎいんは、あたかも震災当時の流言が事実であったかのように[震災に乗じて凶悪犯罪が引き起こされた]とのべているが、このような言説確たる証拠に基づいたものではないことはすでに明らかにされている(※)。いわば「朝鮮人虐殺製討論」とも言うべきでたらめの言説が公的な場で堂々と主張されるのは信じがたいことで、排外的な言動に市民権を与えるものである。これを根拠とするような要求に、正当性は認められない。

 本来ならば、小池知事は「正当化論」を毅然として批判し、これにもとづく要求を拒否すべきであった。にもかかわらず、知事は古賀議員の意向に沿う決定を下し、朝鮮人虐殺について自らの考えを表明することを意識的に避けた。8月25日の会見において、民族差別を背景にした虐殺について追悼の辞を述べることに特別の意味があるのではないかと尋ねた記者に対し、知事は「民族差別という観点というよりは、私はそういう災害でなくなられた方々、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々に対しての慰霊をしていくべきだ」と述べた。これでは、古賀議員の要求を暗に受け入れたと見られても仕方がない。実際、「正当化論」者は、知事の判断を古賀議員の要求を受け入れた「英断」として賛美し、勢いづいている。また、墨田区長は、小池知事に追随して追悼辞を送らなかった。こうした事態を招いた知事の責任は重い。

 第二に、小池知事が、すべての被害者を慰霊しているから個別の追悼辞は出さないという理屈は、およそ追悼辞取りやめの積極的な理由として成り立つものではない。1973年の追悼碑建立にあたっては民間から寄付が寄せられ、都議会の全会派が賛同した。そうしたことがあったからこそ、今日に至るまで東京都知事は追悼辞を送り、参列者の前で朝鮮人犠牲者への追悼と二度と過ちを繰り返さない決意を語ってきたのである。

 小池知事の決定は、こうした歴史的経緯と参列者の思いをふまえたものであったとは到底考えられない。小池知事が「今回は私が判断した」というのであれば、判断に至った経緯と理由について説明する責任がある。説明を欠いた知事の判断は、追悼碑を建立した人びとや追悼式に参列する人びとの思いを毀損している。納得できる説明ができないならば、追悼辞の送付をやめるべきではない。

 第三に、小池知事の決定は、歴史事実としての朝鮮人虐殺を隠蔽するものとなっている。前述のように、知事は関東大震災時の犠牲者をひとくくりにし、また記者の質門が「朝鮮人」「虐殺」という言葉を使っていることに対して、一貫してこれらの言葉を使うことを避けている。

 だが、自然災害の犠牲者と、その後の官民による朝鮮人虐殺が、性質をことにするのは言うまでもない。天才としての自然災害と人災としての虐殺では、命が奪われた経緯とその意味が質的に異なっている。校舎の被害は、まさに日本の植民地支配に起因する人災であり、地震そのものが引き起こしたわけではない。知事は8月25日の会見で朝鮮人犠牲者を、震災に「付随した形で、関連した形でお亡くなりになった方々」などと称しているが、朝鮮人犠牲者は震災に「付随」してなくなったのではない。官民の一方的な殺戮によって命を奪われたのである。

 当時は、地方行政官庁も流言拡大の主体となり虐殺に関与した。東京都知事の追悼辞は、こうした過去への自省と現在まで繰り返されてきた排外的な言動に対して被害者を守り、二度とこのような歴史を繰り返させない決意を確認する意義を持つはずである。
 にもかかわらず小池知事は、記者会見で天災と人災の性質の違いについて問われてもそれに答えず、東京と慰霊堂の法要でも追悼辞のなかに朝鮮人虐殺の文言を入れなかった。朝鮮人虐殺に触れないのは、客観的に見れば明らかに朝鮮人虐殺の隠蔽ではないか。

 8月25日の記者会見では、記者の「大震災のときに朝鮮人が殺害された事実は否定されることになる」という懸念に対して、小池知事は「さまざまな歴史的な認識があろうかと思っております」と述べたが、朝鮮人虐殺は「歴史認識」の問題ではなく他民族に対する加害という「歴史の事実」である。「認識」などという言葉で、虐殺の有無をあいまいにしたり正当化論を認める余地はない。
 私たちが今回の小池知事の判断について問題とすることは以上である。小池知事が過去の朝鮮人虐殺に紳士に目を向け、追悼行事に参列してきた人びとの声に耳を傾け、これまでの東京都知事が行ってきた追悼の精神に立ち返って、再び追悼辞を寄せるよう、私たちは強く要求するものである。

関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を東学集会 参加者一同

(※)詳しくは、webサイト「『朝鮮人虐殺はなかった』はなぜでたらめか」(http://01sep1923.tokyo/)を参照。