《尾形修一の紫陽花(あじさい)通信から》
 ◆ 福田村事件-関東大震災時の虐殺事件①


 関東大震災に際して、地震による倒壊や火災などで多数の死者が出ただけでなく、さまざまな虐殺事件が起きた。それが関東大震災の恐ろしさだと思う。東京近辺にまた大地震が起こっても、悪質なデマや不寛容で世の中が一変してしまうことはあり得る。まさかまた大規模な虐殺事件が起きるとは思わないけど、災害に伴う「社会の分断」をいかに防ぐかは大事な問題だ。

 僕が一番関東大震災について調べたのは、もうずいぶん前のことだ。震災80年にあたる2003年ごろに一番震災研究本を読んでいた。当時は震災で大きな被害を受けた東京都墨田区にあった定時制高校に勤務していた。生徒に身近な教材を取り上げるという意味合いが自分には大きかった。そのころ発信してた個人的メールマガジンに当時の勉強結果が残っている。その後ほとんど調べなおしていないんだけど、まだ意味はあると思うので、当時の文章をまとめてみたい。


 まず、千葉県の福田村(現・野田市)で起きた「福田村事件」。今もなお、多くの人が知らないままだと思う。
 香川県から行商に来ていた日本人15名が襲撃された。日本人が虐殺されたのかと驚く人もいるかと思うが、朝鮮人と間違われて殺された人は相当数いた
 「日本語の発音」で民族を判別しようとしたことが多かったので、聴覚障害者や吃音者が疑われやすかった。後に劇団俳優座を結成した千田是也(せんだ・これや)は「千駄ヶ谷で朝鮮人と間違われた」体験から芸名を付けたという。

 この事件は、発生以来真相が明るみに出ないまま、歴史の闇に埋もれていた。21世紀になって、犠牲者の地元香川県観音寺市付近で、真相究明の盛り上がりがあり、2003年に事件の起こった千葉県野田市に追悼の碑が建てられた。野田市三ツ堀の円福寺境内にある。(写真)

 現在千葉県野田市に属す福田村とその隣りの田中村(現在、柏市)は、利根川と江戸川を結ぶ「利根運河」(明治21年開削)により分けられたが、元々一体の地域だった。
 震災時には、「自警団」が組織され、「不逞鮮人」(ふていせんじん=当時の朝鮮人に対する差別用語。特に独立運動をするのが「不逞」であるという意味)に対する「警戒」を行なっていた。ここで「朝鮮人と間違われて殺された」日本人がいた。当時、自警団員に対する裁判が行なわれ、新聞報道もなされたが、犠牲者は何人いてどこの人だったか、くわしいことは知られないままだった。

 千葉県で朝鮮人虐殺の調査を進めるグループが、野田で起きた事件の犠牲者はどうも香川県出身らしいという情報をつかんだ。その情報が香川県の高校で日本史を教える石井雍大に伝わった。1983年のこと。
 以来、石井氏はあちこちに情報を求め、翌年犠牲者の親戚に出会い、位牌を見る事が出来た。おどろく事に、位牌の裏には「千葉県ニ於テ震災に遭シ三堀渡船場ニテ惨亡ス」と書かれていたのである。また、なんと6歳、4歳、2歳という幼児の位牌もあった。

 こうして初めて犠牲者の名がわかったが、まだ犠牲者のすべてはわからない。さらに追跡をすすめるうち、1986年になり、からくも難を逃れた生存者(事件当時21歳)が存命であることがわかり、連絡がついた。
 そして、当時検事からの要請で書いた手記も出てきた。これはその生存者が妻にも一言も話さず(事件の数年後に結婚)、半世紀も秘蔵していたものだ。また、その人から、もう一人当時14歳だった生存者がいることを知らされた。この二人の証言が貴重な事実を明るみに出したのだ。

 これにより、犠牲者9人、生存者6名、計15名(内4名が幼児)の全体像がわかった。彼らは行商人だった。香川県の被差別部落の生まれで、差別の中、地元で生業がなく、薬の行商で身をたてていた。富山の薬売りは、置き薬方式つまり薬を置いていって翌年使った分の代金を回収し薬を補充するが、香川では資本がなく、売り切り方式で関東を回っていたのだという。

 当時は野田にいたが(野田はキッコーマンの地元で行商に向いていた)、震災で5日間足止めを食い、このままではということで、6日になって茨城方面に向かうことにした。みなで利根川にある三堀の渡しという所へ向かった。10時頃(と思われるが)、渡しの近くにある香取神社で休んだが、このとき商店の床机に9人しかすわれず、6人は神社の鳥居で休んだ。その差は30メートル位というが、これが運命を分けたのである。

 渡しは交通の要所だから、自警団がいた。讃岐弁で渡し守と交渉する様子を聞いて「鮮人ではないか」と人が集まってきた。もちろん日本人だと抗議し、納得する人もいたが、だんだん人が集まり暴徒化していった。鉄砲を持ち出している人もいて、川に投げ込んでしまえということになり、川へ投げられた。対岸へ泳ぐ人がいたが船で追いかけて惨殺した。こうして幼児も川へ投げ込まれ、そのまま溺死して死体も上がらないという惨事が起こったのである。

 残りの6人も、その頃捕らえられ、体を針金でしばられ、「君が代」を歌ったりさせられていた。(朝鮮人ではないかを調べるため、君が代教育勅語を知ってるかを聞いた。)生きた心地もしなかったうち、急を聞いて駆けつけた巡査が止めて身柄を引き取り、からくも一命を取りとめたのである。

 様々な虐殺事件がその後明るみに出て、国際問題になる事を心配した政府は自警団員を裁判にかけた。
 自警団による事件のいくつかが裁判となったが、朝鮮人虐殺はきわめて軽い刑となり、日本人に対する事件はより重い刑となった。
 この福田村・田中村事件は「騒擾殺人」で8名が裁かれ、最長で懲役10年の判決となった。これは震災関係の最長の判決だが、大正から昭和への代替わりの恩赦で、1927年2月には全員釈放釈されている。
 田中村は村で裁判費用を負担し、有罪者の一人が後に村長になった。自警団という村のために行なったことで、罪の意識が村ぐるみでなかったのである。(福田村は資料を残さず不明。)

 一体、いくら震災当時とはいえ、数日たった9月6日に、幼児もいる日本人を「朝鮮人と間違えて殺す」というようなことがなぜあるのだろうか? 果たして、日本人と気付かなかったのだろうか? 「朝鮮人と思っていた」のか「日本人と判ったが怪しい一行だと思った」のか。そのあたりは永遠にわからないが、当時の農村の「よそ者」への偏見、行商人への差別の目が事件を起こしたのである。
 そうでなければ、地元で犠牲者への謝罪等があっただろう。この事件が地元で隠され続けて来た事自体が、差別構造が温存されてきた事を意味する。その意味で、部落差別が悲劇の背景にあった。

 当時香川と千葉は遠く、生存者や犠牲者の遺族も「千葉の人は鬼だ。近づきたくない」とこの事件を心に秘めてきた。
 事件から60年以上たち、ようやく真相が明かされ、香川では「千葉福田村事件真相調査会」が出来、それに対応し、野田に「福田村事件を心に刻む会」が出来た。
 80周年の2013年に、ようやく追悼碑が建立される所まで来たが、地元の意識変革、さらに事件や犠牲者の地元だけでなく、全国に伝えていくことは、まだ課題と言える。震災関係で最長の判決が出た事件、部落差別に関係して9人もが殺された事件が知られずに来たことは非常に重大な問題だと思う。

 *この事件に関しては、2013年に辻野弥生『福田村事件 ――関東大震災・知られざる悲劇』(崙書房、2013年7月)が出ているが、僕は読んでいない。その著者の辻野氏に江戸川大学隈本ゼミが取材した記録もネット上にアップされている。福田村事件で検索すると、それらの情報が出てくる。

『尾形修一の紫陽花(あじさい)通信』(2017年08月30日)
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