外務省外交史料館所蔵「琉米修好条約」「琉蘭修好条約」「琉仏修好条約」の外交文書原本を展示
~琉球王国が1850年代、アメリカ・フランス・オランダと締結した琉米・琉仏・琉蘭3条約~

■琉球新報 2015年3月29日 

“歴史の証人”に見入る 幕末展、きょうまで

明治維新前後における日本や琉球の時代の鼓動を伝える「琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展」(沖縄産業計画・琉球新報社主催、浦添市教育委員会共催)の会期中、最後の週末を迎えた28日、会場の浦添市美術館は大勢の家族連れらで混雑した。29日まで。

 来場者は琉球王国が1850年代にアメリカ、フランス、オランダと締結した琉米、琉仏、琉蘭の3条約の原本をはじめ、激動期の息吹を伝える歴史的資料に見入った。

  特別展で考えたことをまとめる春休みの宿題の作文を書いていた、同市立港川中学校2年の平良柚穂さん(14)と下地美夢さん(14)は「授業で習ったことよりもっと詳しく当時のことを知ることができた」などと話した。


琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展

会期:2015年2月27日(金)~2015年3月29日(日)
琉球・幕末・明治維新展のギャラリートークを開催いたします。詳細はこちら
 

 本展は沖縄県民に幕末・明治維新史をより良く理解し、歴史を再認識していただけるように企画構成しました。歴史教育の中でも非常に重要である1853年のペリー来航から1877年の西南戦争までの四半世紀の史資料をもって幕末・明治維新史を俯瞰し、日本の近代化に貢献した人物にスポットをあてた展示内容です。

日本が近世から近代へと生まれ変わる、鎖国から開国そして明治維新への道程は決して楽なものではなく、多くの人々が英知をもって取組み、大変な努力の末に明治維新をなしとげました。世界史の中でも、日本を近代化させた明治維新は奇跡であるといわれ、高く評価されています。

 本展は「ペリー来航」「吉田松陰と長州藩士」「井伊大老と安政の大獄」「幕臣たち」「横浜開港」「西郷隆盛と薩摩藩士」「勝海舟と神戸海軍操練所」「坂本龍馬と土佐藩士」「近藤勇と新撰組」「幕末外交史」の10つのコーナー展示で日本の近代化を紐解きます。
今回、外務省外交史料館所蔵の「琉米修好条約」「琉蘭修好条約」「琉仏修好条約」の外交文書原本を、本展で沖縄展示致します。(展覧会ちらしより)




■琉球新報 2015年3月7日 

琉米修好条約 原本「6通」存在 米側「間違いない」

「琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展」で展示されている琉米修好条約の原本
=2月28日、浦添市美術館

琉球国1854年7月に米国と結んだ琉米修好条約の原本は当時、6通あったことが6日までに分かった。55年11月にフランスと締結した琉仏修好条約の原本も当時3通あったことが判明した。史料研究者の栗野慎一郎氏が「琉球王国評定所文書」と「尚家文書」で確認した。現在、琉米条約原本は外務省の外交史料館が保管する1通、米国立公文書館で1通琉仏条約原本は外交史料館で1通、フランスの海軍公文書館で1通が確認されている。
 米公文書館は琉球新報の取材に対し、条約を締結したペリー提督が米海軍長官に宛てた手紙の内容から、米国に3通渡ったのは「間違いない」と回答した。残り2通の所在は特定できていないという。
 米側代表のペリー提督と琉球側の「総理官」54年7月11日、正本4通に調印し、双方2通ずつ受け取った。その翌日、米側の「翻訳官」がさらに2通の調印を要求。交渉に当たった板良敷(いたらしき)里之子(さとぬし)親雲上(ぺーちん)(後の牧志朝忠)は最初の4通で了解してほしいと嘆願するが、米側は、原本がネズミの被害などで損壊するのを恐れ「予備」として締結を迫った。13日に2通に調印、双方1通ずつ持ち帰った。

  琉仏条約については、琉球国はフランスのゲラン提督との間で3通調印し、2通は提督側、1通は琉球が受け取った。琉蘭修好条約の締結交渉に関する史料は確認されていない
 琉球側の3条約原本は74年、1通ずつ明治政府に没収されたとみられる。その際、琉球は3条約の写本3通を明治政府から受け取った。琉米条約の正本2通と、3条約の写本3通が首里城内に保管されていたはずだが、栗野氏は「79年の『琉球処分』(琉球併合)の際に没収され、その後、関東大震災で消失したのではないか」と話している。

  外務省の外交史料館が保管している3条約の原本は29日まで浦添市美術館で開かれる「琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展」で展示されている。(新垣毅)


■琉球新報 2015年2月4日 
琉米・琉仏・琉蘭条約の原本、里帰り 27日から展示

 琉球国が1854年に米国、55年にフランス、59年にオランダと締結した修好条約の3原本が27日から浦添市美術館で展示される。原本は74年5月に明治政府によって没収され、外務省が保管している。国際法の専門家は「3原本は琉球が当時、国際法の主体として主権を有していた証し」と指摘している。米軍基地問題などをめぐって沖縄の自己決定権要求が高まる中、今回の里帰りは沖縄の「主権回復」を求める議論に影響を与えそうだ。

  琉米修好条約は、鎖国状態だった日本に開国を迫るため浦賀(現神奈川県)や琉球などを訪れたペリー提督との間で結ばれた。米船舶への薪(まき)や水の提供、米国の領事裁判権を認めるなど不平等な内容で、琉球は当初、締結を拒んだが、ペリーの圧力に屈し、条約を結んだ。フランス、オランダともほぼ同様の条約を結んだ。

  明治維新の後、政府は琉球国の併合をもくろみ、外交権剥奪に乗り出す中で73年3月、3条約の提出を琉球に命じた。琉球側は粘り強く抵抗したが、最後は政府の強硬姿勢に屈し、74年5月、津波古親方政正が条約原本を携えて船で上京、政府へ引き渡した。現在、外務省外交史料館が原本を保管している。

  琉球は日本に併合される過程(「琉球処分」)で、条約締結国に対し、条約は「主権の証し」と主張、明治政府の「処分」に抵抗する切り札に使った。

  上村英明恵泉女学園大教授と阿部浩己神奈川大教授は、3条約締結の事実から「琉球は国際法上の主体であり、日本の一部ではなかった」と指摘。軍隊や警察が首里城を包囲し「沖縄県設置」への同意を尚泰王に迫った明治政府の行為は、当時の慣習国際法が禁じた「国の代表者への強制」に当たるとして「国際法上不正だ」と指摘している。

  3条約の原本は27日から3月29日まで浦添市美術館で開かれる「琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展」(主催=琉球新報社、協同組合・沖縄産業計画)で展示される。(新垣毅)


   1854年に琉球国が米国と結んだ琉米修好条約の原本(外務省外交史料館所蔵)



■毎日新聞 2014年08月14日

日本にとって沖縄とはどういう存在か

:【基礎知識】「琉球」から「日本」へ−−沖縄の辿った道

http://img.mainichi.jp/mainichi.jp/ronten/images/20140813dyo00m010013000p_size5.jpg
戦闘で瓦礫と化した首里の街を行く米兵(1945年)(毎日新聞社)
http://img.mainichi.jp/mainichi.jp/ronten/images/20140813dyo00m010014000p_size5.jpg
1945年6月20日、米軍が伊江島に上陸、その3日後、沖縄の戦いは終わった。雨中の泥道を3キロ歩き、投降する伊江島の住民 (毎日新聞社)

 ◇独立国家・琉球王国

 沖縄県那覇市の県立博物館には、1458年に琉球国王が鋳造した「万国津梁(しんりょう)の鐘」が置かれている。銘文には「(琉球国は)舟楫(しゅうしゅう)を以て万国の津梁となし、異産至宝は十方刹(じっぽうさつ)に充満せり」(船をもって万国の架け橋とし、諸国の宝がいたるところに満ちている)とある。かつて沖縄が独立国として海運貿易で栄えた歴史を伝える文言だ。

 14世紀後半、中国大陸に成立した明(みん)は、明商人の国外交易を禁止した。代わりに近隣諸国に朝貢を促し、応じた国には進貢貿易を認めた。琉球王国も明に朝貢し、海上の要衝にある地の利を生かして東アジア全域で中継貿易を行った。

 16世紀、ポルトガルやスペインが東南アジアに進出し、明商人も海禁を解かれて海上交易を始めると、琉球の中継貿易は陰り、王国の力も衰退した。これに追い討ちをかけたのが、1609年の薩摩の琉球侵攻だった。薩摩は、表向きは琉球王朝の統治を存続させたが、奄美を薩摩の直轄領に組み入れたほか、検地を行って年貢を徴収した。対外交易も掌握し、中国大陸で明から清への王朝交代があった後も、朝貢を続けさせた。以来、琉球は薩摩を介して日本に服属し、同時に清にも朝貢するという日清両属を強いられたのである。

 ◇内地人の差別意識

 明治の廃藩置県で、明治新政府が直面した最大の難問は、琉球の日清両属だった。新政府内では意見が割れた。「日清両属を絶ち、版籍奉還を図るべし」という井上馨。日清連合して西欧列強と対抗するという立場から、「琉球を明確に日清両属とし、琉球人を日本人と区別する」という大隈重信。「清国との交渉で琉球の日本専属を認めさせよ」という山県有朋……。
 議論の末、新政府は1872年、琉球王国を琉球藩に格下げし、国王を藩主とした。75年には琉球の清国への朝貢の停止を命じた。次いで79年、琉球藩を廃し、沖縄県を設置する。これが「琉球処分」(沖縄では「琉球併合」と呼ぶこともある)といわれた一連の措置である。 

 本土への同化政策は、この時期から始まった。先導役を担ったのは本土から赴任した県官吏、警察官、軍人教師各分野の商人たちだった。彼らは琉球人に同化を強いる一方、頑迷固陋な民とみなし、劣等視した。「琉球処分」から9年後の1888年、沖縄を旅行した内地人の見聞記に〈当地にて内地人の威張る有様は、丁度欧米人の日本に来て威張ると同じ釣合にて、利のある仕事は総て内地人の手に入り、引合わざる役回りは常に土人に帰し、内地人は殿様にて土人は下僕たり〉と差別を認めながらも、〈優勝劣敗の結果にて、如何ともすべからざる訳なれども、亡国の民ほどつまらぬものはなし〉とある(「琉球見聞雑記」琉球政府・沖縄県教育委員会編『沖縄県史』14)。内地の一般民衆も、沖縄人に故なき優越感をもって接していたのだ。

 1903年には、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の「人類館」に、中国人、朝鮮人、アイヌ、台湾原住民、さらに「琉球人」を展示するという事件が起きた。当時の「琉球新報」は、「沖縄差別を助長する」と激しく告発している。

 太平洋戦争末期の沖縄戦(1945年3月〜6月)では、住民約10万人が、米軍に追われ敗走する日本軍とともに島内を逃げ回り、犠牲になった。将兵の多くは内地人であり、行動を共にした住民に対して差別的に振舞うことも少なくなかったという。
 それでも、沖縄人は軍に協力し、日本人として献身的に戦った。青壮年(17〜45歳)は召集に応じ、中学校や師範学校の男子は「鉄血勤皇隊」、女生徒は「看護婦隊」として戦闘に加わった。海軍沖縄根拠地隊司令官だった大田実少将(最終階級は中将)は、自決する直前に海軍次官に宛てた電報で、県民の敢闘ぶりについて詳しく報告し、最後にこう書き記した。−−沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後生特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。

 しかし、敗戦後の沖縄県民に待っていたのは、「特別の高配」どころか、米軍政統治下に置かれ、事実上、米国の軍事植民地となるという過酷な運命だった。米軍統治は日本が主権を回復した1952年以降も続いた。土地を強制収用し基地の建設・拡充を行い、本土にあった米軍施設の多くを移設した。県民は、基地に囲まれた土地に息を潜めて暮らすことを余儀なくされ、度重なる米兵の犯罪にも脅かされることになった。
 沖縄の施政権が返還されるのは1972年5月、敗戦から27年目のことである

 ◇地政学上の重荷

 本土復帰が実現しても、すべてが本土並みになったわけではなかった。県の面積が日本全体の0.6%にすぎない沖縄に、在日米軍専用施設の75%が集中するという過酷な現実は、復帰後も自動的に受け継がれ、米国による軍事植民地の面影は色濃く残されたままだった。

 地政学的に見れば、沖縄は、ロシア、中国、北朝鮮を封じるラインを形成する中心点、「扇の要」に位置し、朝鮮半島有事にも台湾海峡有事にも即応できる戦略的要所となる。沖縄への基地集中問題を議論するとき、しばしば持ち出される論拠だ。裏を返すと、それは“本土の盾”としての沖縄論でもある

 沖縄には、ほんの500年前まで、その地政学上の利点を生かし、東アジア全域で万国の津梁(架け橋)となったという誇るべき歴史が刻まれている。そしてもう一方には、先の大戦で日本人として犠牲的に戦ったという記憶がある。「本土も応分の負担を」という議論に表向き反対する国民はいないが、普天間基地に配備されたオスプレイが本土に分散配備されようとすると、関係市町村からは猛烈な反対運動が起こる。沖縄の過重な負担を認めながら、わが町の負担はできれば避けたい本土住民。なぜ沖縄だけが……沖縄県民と本土の住民との深い溝をどう埋めたらよいのか。いまだ答えは出ていない。

 ◇独立国家・琉球王国

 沖縄県那覇市の県立博物館には、1458年に琉球国王が鋳造した「万国津梁(しんりょう)の鐘が置かれている。銘文には「(琉球国は)舟楫(しゅうしゅう)を以て万国の津梁となし、異産至宝は十方刹(じっぽうさつ)に充満せり」(船をもって万国の架け橋とし、諸国の宝がいたるところに満ちている)とある。かつて沖縄が独立国として海運貿易で栄えた歴史を伝える文言だ。

 14世紀後半、中国大陸に成立した明(みん)は、明商人の国外交易を禁止した。代わりに近隣諸国に朝貢を促し、応じた国には進貢貿易を認めた。琉球王国も明に朝貢し、海上の要衝にある地の利を生かして東アジア全域で中継貿易を行った。

 16世紀、ポルトガルやスペインが東南アジアに進出し、明商人も海禁を解かれて海上交易を始めると、琉球の中継貿易は陰り、王国の力も衰退した。これに追い討ちをかけたのが、1609年の薩摩の琉球侵攻だった。薩摩は、表向きは琉球王朝の統治を存続させたが、奄美を薩摩の直轄領に組み入れたほか、検地を行って年貢を徴収した。対外交易も掌握し、中国大陸で明から清への王朝交代があった後も、朝貢を続けさせた。以来、琉球は薩摩を介して日本に服属し、同時に清にも朝貢するという日清両属を強いられたのである。

◇内地人の差別意識
 明治の廃藩置県で、明治新政府が直面した最大の難問は、琉球の日清両属だった。新政府内では意見が割れた。「日清両属を絶ち、版籍奉還を図るべし」という井上馨。日清連合して西欧列強と対抗するという立場から、「琉球を明確に日清両属とし、琉球人を日本人と区別する」という大隈重信。「清国との交渉で琉球の日本専属を認めさせよ」という山県有朋……。

 議論の末、新政府は1872年、琉球王国を琉球藩に格下げし、国王を藩主とした。75年には琉球の清国への朝貢の停止を命じた。次いで79年、琉球藩を廃し、沖縄県を設置する。これが「琉球処分」(沖縄では「琉球併合」と呼ぶこともある)といわれた一連の措置である。 

 本土への同化政策は、この時期から始まった。先導役を担ったのは、本土から赴任した県官吏、警察官、軍人、教師や各分野の商人たちだった。彼らは琉球人に同化を強いる一方、頑迷固陋な民とみなし、劣等視した。「琉球処分」から9年後の1888年、沖縄を旅行した内地人の見聞記に〈当地にて内地人の威張る有様は、丁度欧米人の日本に来て威張ると同じ釣合にて、利のある仕事は総て内地人の手に入り、引合わざる役回りは常に土人に帰し、内地人は殿様にて土人は下僕たり〉と差別を認めながらも、〈優勝劣敗の結果にて、如何ともすべからざる訳なれども、亡国の民ほどつまらぬものはなし〉とある(「琉球見聞雑記」琉球政府・沖縄県教育委員会編『沖縄県史』14)。内地の一般民衆も、沖縄人に故なき優越感をもって接していたのだ。
 1903年には、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の「人類館」に、中国人、朝鮮人、アイヌ、台湾原住民、さらに「琉球人」を展示するという事件が起きた。当時の「琉球新報」は、「沖縄差別を助長する」と激しく告発している。

 太平洋戦争末期の沖縄戦(1945年3月〜6月)では、住民約10万人が、米軍に追われ敗走する日本軍とともに島内を逃げ回り、犠牲になった。将兵の多くは内地人であり、行動を共にした住民に対して差別的に振舞うことも少なくなかったという。

 それでも、沖縄人は軍に協力し、日本人として献身的に戦った。青壮年(17〜45歳)は召集に応じ、中学校や師範学校の男子は「鉄血勤皇隊」、女生徒は「看護婦隊」として戦闘に加わった。海軍沖縄根拠地隊司令官だった大田実少将(最終階級は中将)は、自決する直前に海軍次官に宛てた電報で、県民の敢闘ぶりについて詳しく報告し、最後にこう書き記した。−−沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後生特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。

 しかし、敗戦後の沖縄県民に待っていたのは、「特別の高配」どころか、米軍政統治下に置かれ、事実上、米国の軍事植民地となるという過酷な運命だった。米軍統治は日本が主権を回復した1952年以降も続いた。土地を強制収用し基地の建設・拡充を行い、本土にあった米軍施設の多くを移設した。県民は、基地に囲まれた土地に息を潜めて暮らすことを余儀なくされ、度重なる米兵の犯罪にも脅かされることになった。
 沖縄の施政権が返還されるのは1972年5月、敗戦から27年目のことである。

 ◇地政学上の重荷

 本土復帰が実現しても、すべてが本土並みになったわけではなかった。県の面積が日本全体の0.6%にすぎない沖縄に、在日米軍専用施設の75%が集中するという過酷な現実は、復帰後も自動的に受け継がれ、米国による軍事植民地の面影は色濃く残されたままだった。

 地政学的に見れば、沖縄は、ロシア、中国、北朝鮮を封じるラインを形成する中心点、「扇の要」に位置し、朝鮮半島有事にも台湾海峡有事にも即応できる戦略的要所となる。沖縄への基地集中問題を議論するとき、しばしば持ち出される論拠だ。裏を返すと、それは“本土の盾”としての沖縄論でもある。

 沖縄には、ほんの500年前まで、その地政学上の利点を生かし、東アジア全域で万国の津梁(架け橋)となったという誇るべき歴史が刻まれている。そしてもう一方には、先の大戦で日本人として犠牲的に戦ったという記憶がある。「本土も応分の負担を」という議論に表向き反対する国民はいないが、普天間基地に配備されたオスプレイが本土に分散配備されようとすると、関係市町村からは猛烈な反対運動が起こる。沖縄の過重な負担を認めながら、わが町の負担はできれば避けたい本土住民。なぜ沖縄だけが……沖縄県民と本土の住民との深い溝をどう埋めたらよいのか。いまだ答えは出ていない