東京新聞 2014年12月22日 夕刊
元禄津波 戒名は語る 犠牲者に「大震動波」「合水」
 
 「大震動波信士」「吸波禅定門」…。元禄十六(一七〇三)年の年号と共に、風変わりな戒名を刻んだ墓が静岡県伊東市にある。三百十一年前の十一月二十三日(新暦十二月三十一日)未明、伊豆半島東海岸を元禄地震の津波が襲った。相模湾沖を震源地としたこの地震は、警戒される首都直下地震の地震タイプの一つ。地元の人々は「犠牲者の多くは女性や子ども。生き残った者への戒めの意味もあっただろう」と話す。 (斉藤明彦)
 
 市内の幾つかの墓地は、先祖代々の墓と別に古い墓を寄せた場所があり、元禄期の墓も存在する。
 「伊東を襲った津波は江戸時代より前にもある。しかし、被害実態を読み解けるのは元禄地震が最古」と分析するのは市生涯学習課主幹の金子浩之さん(54)。それ以前の文書や碑文は残っておらず、庶民に墓が広がりだしたのは江戸時代以降だからだ。
 
 市は二〇〇〇~〇五年、市内九十一カ所の墓をくまなく調べた。元禄十六年十一月二十二日か二十三日の墓が群を抜いて多い。当時は夜明けを一日の始まりとすることもあったため、二十二日の墓も津波の犠牲者と考えると二百三基、二百五十六人の戒名を刻んでいた。平年の墓の四倍に相当する。
 元禄十六年全体だと二百四十二基。天明の飢饉(ききん)があった一七八四(天明四)年の二百四基、天保の飢饉(一八三三~三六年)の百十八~百二十四基も上回った。津波は飢饉より被害が大きく、一度に多数の命を奪ったことを示している。
 
 戒名は男女内訳も明らかにしている。成人女性が51%を占め成人男性の二倍。子ども・幼児も22%いた。金子さんは「逃げ遅れた子どもや女性が巻き込まれた。男性が少ないのはギリギリの体力差ではないか」とし、墓石は被害の実態に迫る有効な史料だと指摘する。
 
 一部の戒名は「合水」「伝流」などの字を含み、津波による犠牲を示唆した。曹洞宗弘誓(ぐぜい)寺(伊東市新井)の深沢隆孝(りゅうこう)住職(67)は「通常は穏やかな言葉を選び、合水や大震動波とは付けない。後世に『気を付けなさい』との思いを込めたとの解釈もできる」と話す。
 
 市内に残る津波供養塔は七百四十三人の村人が亡くなったと伝える。静岡県の地震被害想定は元禄型の地震が発生した場合、十分後に八メートルの津波が襲来し、最大二千八百人の犠牲者を予想する。墓は、津波の教訓を今に伝える碑でもある。
 
 <元禄地震> 元禄16(1703)年11月23日(新暦12月31日)未明に発生した相模湾沖合の相模トラフを震源地とした海溝型巨大地震。地震の規模はマグニチュード(M)7・9~8・2と推定されている。地震の直後、房総半島から相模湾沿岸にかけ大津波が襲来し、約6000軒が押し流され約1万人が死亡したとされる。関東大震災=大正12(1923)年=と同じ発生タイプで、中央防災会議は首都直下地震が起きた場合、全壊する建物は約51万5000棟、死者は2万~7万人を想定している。