雑誌「マスコミ市民」2014年2月号「放送を語る会談話室」 
 
忘れてはならないことの記録
~原発の町のドキュメント『汐凪を捜して』の衝撃~
 
            放送を語る会会員 戸崎健二
            
 
 たいへんな記録が出版された。尾崎孝史『汐凪を捜して 原発の町大熊の3.11』(かもがわ出版)である。読んで受けた衝撃は大きい。
 汐凪(ゆうな)とは、東日本大震災の津波で行方不明になった少女の名前である。当時7歳、今も父親の木村紀夫さんが捜し続けている。
 
 木村さん一家は、福島第一原発のある福島県大熊町で、夫婦と娘二人、木村さんの両親の六人で暮らしていた。海沿いの自宅は津波で流され、その時自宅周辺にいた次女の汐凪ちゃんと妻、父親の三人が行方不明になった。
 津波で家族を失うというのは、体験しない者の想像を絶する悲劇だ。木村さんの場合は、その悲劇が特に痛ましい様相を帯びた。津波直後、福島第一原発の事故が起こり、高い放射能によって、捜索、救出活動が阻まれたのである。
 
 震災時、隣町の職場にいた木村さんは、三人の家族がどのような最期を迎えたのかを知ることができなかった。何とか知りたいという願いに、原発災害の取材を続けていた写真家、尾崎孝史氏が応え、津波と原発事故発生当時の大熊町がどのような事態に直面し、その中で木村さんの家族はどうなったかを探る取材を開始した。『汐凪を捜して』は、その長期にわたる取材の詳細な記録である。  
 本書は、時系列で日時を示しながら証言を配置していく構成をとっている。木村さん一家を知る住民、小学校の先生、消防団、防災無線担当者をはじめとする大熊町の役場職員、そして、地域出身の東電社員、協力会社の作業員といった多様な人びとの生々しい証言が綴られていく。
 取材者の主観は抑制され、事実がひたすら提示されるため、3・11前後の記述は切迫感に満ちている。刻々と変わる第一原発の状況、政府や東電の対応、全町避難という未曽有の事態に見舞われた町の混乱などが、随所に織り込まれる。
 
この記録には、一つの家族のドキュメントを軸にしながらも、「原発を受け入れた町の3・11」の全体像が描かれているのである。とくに、原発で働き、事故に遭遇した人びとの証言、原発の恩恵を受けた町民の、事故にたいする複雑な思いなどが組み込まれたことによって、記録は多様な視点を持つ奥行の深いものとなった。
加えて、随所に掲載された写真が強い効果を発揮している。尾崎氏が撮影した証言者たちのワンショットは、民衆の肖像の優れた表現であり、自宅周辺から回収された家族写真の中の汐凪ちゃんの愛らしさはたとえようもない。写真という媒体の本来の役割は何か、ということを根本から考えさせられる記録でもある。
 
 木村さんは、3月11日夜から12日にかけて、夜を徹して家族を捜したが発見できない。大熊町の放射能汚染が広がり、12日には全町民が避難する事態となった。木村さんは生き残った長女と母親を安全なところへ避難させ、再び捜索に戻ったとき、バリケードに阻まれるのである。
 のちに妻の深雪 (みゆき )さん、父の ()太朗 (たろう)さんの遺体が発見されるが、王太朗さんが自宅の近くで見つかったのは、震災49日後のことだった。この間、遺体は放置されていた。もし、12日以降も捜索が続けられれば発見できた位置であり、あるいはその時まだ息があったかもしれない、と木村さんは言う。この責任を東電はどうとるのか、という木村さんの訴えは限りなく重い。
この一家の例一つだけで、日本の全原発を廃止させるに充分な理由になり得る、そう感じさせるだけの力を、このドキュメントは持っている。
大震災から間もなく3年、汐凪ちゃんはまだ見つかっていない。このいたいけない7歳の少女は、どこかで、すべての人びとに「風化させてはいけないこと」「終わらせてはならないこと」は何かを、声にならない声で語り続けている。
「汐凪」という名は、原発災害の残酷さ、非人道性を象徴するものとして長く記憶されなければならないだろう。
この本の印税は、すべて木村紀夫氏が設立した「汐凪基金」に寄付され、その名であしなが育英会その他の団体に寄付される)