護憲を掲げる団体が自由な言論を抑圧するおぞましい現実(1)
2014年1月19日
・「民主団体」の言動の内外落差を示す事態がまた一つ
・掲載延期の求め、なぜ?
・掲載延期に一理あったのか?
・宇都宮批判は前科?
「民主団体」の言動の内外落差を示す事態がまた一つ
「革新陣営」「民主団体」の言動の内外落差――他者に批判を向けるのと同じ過ちを自らが犯すという自己撞着、その自己撞着を自覚せず自浄できない体質――を考えさせられる事態がまた一つ、伝わってきた。澤藤統一郎氏の私設ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」の本年1月15日付記事「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい-その26」が明らかにした事態である。
http://article9.jp/wordpress/?p=1926
http://article9.jp/wordpress/?p=1936
それによると、この1月8日、憲法会議(正式名称は「憲法改悪阻止各界連絡会議」)の平井正事務局長が澤藤氏宅を訪ね、昨年12月27日に電話で澤藤氏に執筆を依頼した同会機関誌『憲法運動』2月号(1月末発行)への寄稿を2月号に掲載できなくなった、3月号以降に掲載を延期したいが、いつになるかはわからないと告げたという。
掲載延期の求め、なぜ?
澤藤氏のブログ記事によると、依頼された原稿のテ-マは「岩手靖国訴訟」で、澤藤氏も即座に応諾し、執筆の準備にとりかかっていた。それだけに、澤藤氏は掲載延期の申し出が腑に落ちず、理由を尋ねると、平井氏は「先生が宇都宮さんを批判していることが問題なのです」と答えた。さらに、こうした掲載延期を求めるのは誰かがそう言っているからではなく、憲法会議事務局の判断だと告げたという。
澤藤氏は納得せず、自分には宇都宮氏を批判する言論の自由がある、あなたがやろうとしていることは私の言論への口封じだと反論した。しかし、平井氏はこれにはほとんど応答せず、持ち帰って再度内部で協議するといって澤藤宅を辞したという。
それから6日後の今月14日、平井氏から澤藤氏に電話があり、再度、要請をしたいので訪問したいとのこと。前回とは別の提案なのかと澤藤氏が尋ねたところ、平井氏は前回の要請をさらに詳しく説明したいとの答え。澤藤氏が、それでは会う意味はないので翌日までに要請の趣旨と理由を文書にしてファックスで送ってほしいと伝えたところ、翌日、確かにファックスが届いた。しかし、そこでは、澤藤氏が掲載号延期の要請を受け入れない場合は「掲載見送り」となっていたことを知って澤藤氏は怒った。氏は、ファックスの文面の最後の4行に記された掲載拒絶の理由を原文のままと断ってブログ記事に転載している。重要な部分なので以下、そのままを引用しておく。
「年が変わった時点で、澤藤先生がブログで『宇都宮健児君、立候補はおやめなさい』と題する文書を発信し続けていることを知りました。2月9日投票の東京都知事選挙において、宇都宮候補の当選をめざして、全力をあげて奮闘している憲法会議構成諸団体の納得を得ることはできません。」
それから2日後の1月17日付けで澤藤氏が連載28として掲載したブログ記事には次のような経過が記されている。
同日、澤藤氏が平井氏宛に電話をし、依頼を受けた原稿が完成したこと、それを送ったら2月号に掲載してもらえるか尋ねたところ、ファックスで要請したように3月号以降への掲載と依頼しているとおりとの返答。そこで、澤藤氏が、掲載延期の理由は同氏が宇都宮健児氏を批判する記事をブログに掲載したからか、と再度尋ねたところ、平井氏は「そのとおりです。そのこともファックスに記載しています」と答えたという。
長々と経過を説明したのは、澤藤氏と平井氏のやりとり、送られてきたファックスの内容に重要な意味があると考えたからである。
掲載延期に一理あったのか?
この問題を性急に論評するのを避け、論点を整理しながら考えていきたい。
かりに、澤藤氏が依頼された原稿の中で、宇都宮氏の立候補を阻止・撤回させることを意図した記述をする公算が高いと考えられたとしよう。この場合、そうした内容を含んだ論稿を掲載した機関誌を都知事選の選挙期間さなかの1月末に発行することが公選法で禁じられた文書図画の頒布に当たらないかと憲法会議事務局が懸念し、選挙後の3月号以降への掲載延期を申し出たのだとしたらどうなるか?そうなら憲法会議事務局は、公選法のどの条項に抵触する恐れがあるのかを澤藤氏に丁寧に説明し、掲載延期を了解してもらうよう努めるのが道理である。
しかし、事実経過を見ると、このような想定のもとに今回の事態を検討する意味はないことがわかる。澤藤氏がブログに書いた内容から判断して、同氏が依頼原稿に書こうとしたのは依頼されたテーマ(岩手靖国訴訟の記録と現時点での教訓)に沿ったもので、それと関係のない宇都宮氏の立候補をめぐる持論を展開するつもりがあったとは思えないからである。それでもなお、澤藤氏が言に反して出稿した原稿に、依頼したテーマとはずれた宇都宮氏の立候補に関する言及があったのなら、原稿の修正なり加除なりを、あるいは掲載延期なりを両者協議するのが道理である。
宇都宮批判は前科?
しかし、憲法会議事務局はこうした対応を取らなかった。むしろ、事務局が澤藤氏に送信したファックスの文面から判断すると、澤藤氏が宇都宮氏の立候補について言及する意図がないことがわかっても、都知事選の選挙期間さなかに発行される機関誌に、「宇都宮氏を批判した実績のある」澤藤氏の原稿を掲載するのを忌避する意図があったと受け取れる。現に、澤藤氏が、自分が承諾した原稿は都政の問題でなはなく靖国問題である、宇都宮氏への批判が出てくるわけがない、と反問したのに対して平井氏は「それは分かっています。それでも先生が宇都宮さんを批判していることが問題なのです」と答えたという。これでは、原稿の内容以前に(内容を理由に掲載の時期を差別扱いすること自体も問題となりうるが)、特定の主張をした人物であることを理由に論稿の掲載時期を差別的に扱ったことになる。
こうした憲法会議事務局の態度は、二重の意味で――日本国憲法の該当条項の効力が直接及ぶといえるかどうかは別にして――言論の自由、思想・良心の自由を抑圧するものだった。
一つは、澤藤氏の原稿の掲載を正当な理由なく差別的に扱った点で言論の自由の抑圧に当たる。もう一つは、澤藤氏が過去に(といっても直近の時期であるが)執筆し公表した記事の中で特定の主義・主張を展開したことを理由に(まるで「前科」かのようにみなし)、論稿発表の自由を奪ったという意味で思想の自由の侵害にあたる。
・「民主団体」の言動の内外落差を示す事態がまた一つ
・掲載延期の求め、なぜ?
・掲載延期に一理あったのか?
・宇都宮批判は前科?
「民主団体」の言動の内外落差を示す事態がまた一つ
「革新陣営」「民主団体」の言動の内外落差――他者に批判を向けるのと同じ過ちを自らが犯すという自己撞着、その自己撞着を自覚せず自浄できない体質――を考えさせられる事態がまた一つ、伝わってきた。澤藤統一郎氏の私設ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」の本年1月15日付記事「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい-その26」が明らかにした事態である。
http://article9.jp/wordpress/?p=1926
http://article9.jp/wordpress/?p=1936
それによると、この1月8日、憲法会議(正式名称は「憲法改悪阻止各界連絡会議」)の平井正事務局長が澤藤氏宅を訪ね、昨年12月27日に電話で澤藤氏に執筆を依頼した同会機関誌『憲法運動』2月号(1月末発行)への寄稿を2月号に掲載できなくなった、3月号以降に掲載を延期したいが、いつになるかはわからないと告げたという。
掲載延期の求め、なぜ?
澤藤氏のブログ記事によると、依頼された原稿のテ-マは「岩手靖国訴訟」で、澤藤氏も即座に応諾し、執筆の準備にとりかかっていた。それだけに、澤藤氏は掲載延期の申し出が腑に落ちず、理由を尋ねると、平井氏は「先生が宇都宮さんを批判していることが問題なのです」と答えた。さらに、こうした掲載延期を求めるのは誰かがそう言っているからではなく、憲法会議事務局の判断だと告げたという。
澤藤氏は納得せず、自分には宇都宮氏を批判する言論の自由がある、あなたがやろうとしていることは私の言論への口封じだと反論した。しかし、平井氏はこれにはほとんど応答せず、持ち帰って再度内部で協議するといって澤藤宅を辞したという。
それから6日後の今月14日、平井氏から澤藤氏に電話があり、再度、要請をしたいので訪問したいとのこと。前回とは別の提案なのかと澤藤氏が尋ねたところ、平井氏は前回の要請をさらに詳しく説明したいとの答え。澤藤氏が、それでは会う意味はないので翌日までに要請の趣旨と理由を文書にしてファックスで送ってほしいと伝えたところ、翌日、確かにファックスが届いた。しかし、そこでは、澤藤氏が掲載号延期の要請を受け入れない場合は「掲載見送り」となっていたことを知って澤藤氏は怒った。氏は、ファックスの文面の最後の4行に記された掲載拒絶の理由を原文のままと断ってブログ記事に転載している。重要な部分なので以下、そのままを引用しておく。
「年が変わった時点で、澤藤先生がブログで『宇都宮健児君、立候補はおやめなさい』と題する文書を発信し続けていることを知りました。2月9日投票の東京都知事選挙において、宇都宮候補の当選をめざして、全力をあげて奮闘している憲法会議構成諸団体の納得を得ることはできません。」
それから2日後の1月17日付けで澤藤氏が連載28として掲載したブログ記事には次のような経過が記されている。
同日、澤藤氏が平井氏宛に電話をし、依頼を受けた原稿が完成したこと、それを送ったら2月号に掲載してもらえるか尋ねたところ、ファックスで要請したように3月号以降への掲載と依頼しているとおりとの返答。そこで、澤藤氏が、掲載延期の理由は同氏が宇都宮健児氏を批判する記事をブログに掲載したからか、と再度尋ねたところ、平井氏は「そのとおりです。そのこともファックスに記載しています」と答えたという。
長々と経過を説明したのは、澤藤氏と平井氏のやりとり、送られてきたファックスの内容に重要な意味があると考えたからである。
掲載延期に一理あったのか?
この問題を性急に論評するのを避け、論点を整理しながら考えていきたい。
かりに、澤藤氏が依頼された原稿の中で、宇都宮氏の立候補を阻止・撤回させることを意図した記述をする公算が高いと考えられたとしよう。この場合、そうした内容を含んだ論稿を掲載した機関誌を都知事選の選挙期間さなかの1月末に発行することが公選法で禁じられた文書図画の頒布に当たらないかと憲法会議事務局が懸念し、選挙後の3月号以降への掲載延期を申し出たのだとしたらどうなるか?そうなら憲法会議事務局は、公選法のどの条項に抵触する恐れがあるのかを澤藤氏に丁寧に説明し、掲載延期を了解してもらうよう努めるのが道理である。
しかし、事実経過を見ると、このような想定のもとに今回の事態を検討する意味はないことがわかる。澤藤氏がブログに書いた内容から判断して、同氏が依頼原稿に書こうとしたのは依頼されたテーマ(岩手靖国訴訟の記録と現時点での教訓)に沿ったもので、それと関係のない宇都宮氏の立候補をめぐる持論を展開するつもりがあったとは思えないからである。それでもなお、澤藤氏が言に反して出稿した原稿に、依頼したテーマとはずれた宇都宮氏の立候補に関する言及があったのなら、原稿の修正なり加除なりを、あるいは掲載延期なりを両者協議するのが道理である。
宇都宮批判は前科?
しかし、憲法会議事務局はこうした対応を取らなかった。むしろ、事務局が澤藤氏に送信したファックスの文面から判断すると、澤藤氏が宇都宮氏の立候補について言及する意図がないことがわかっても、都知事選の選挙期間さなかに発行される機関誌に、「宇都宮氏を批判した実績のある」澤藤氏の原稿を掲載するのを忌避する意図があったと受け取れる。現に、澤藤氏が、自分が承諾した原稿は都政の問題でなはなく靖国問題である、宇都宮氏への批判が出てくるわけがない、と反問したのに対して平井氏は「それは分かっています。それでも先生が宇都宮さんを批判していることが問題なのです」と答えたという。これでは、原稿の内容以前に(内容を理由に掲載の時期を差別扱いすること自体も問題となりうるが)、特定の主張をした人物であることを理由に論稿の掲載時期を差別的に扱ったことになる。
こうした憲法会議事務局の態度は、二重の意味で――日本国憲法の該当条項の効力が直接及ぶといえるかどうかは別にして――言論の自由、思想・良心の自由を抑圧するものだった。
一つは、澤藤氏の原稿の掲載を正当な理由なく差別的に扱った点で言論の自由の抑圧に当たる。もう一つは、澤藤氏が過去に(といっても直近の時期であるが)執筆し公表した記事の中で特定の主義・主張を展開したことを理由に(まるで「前科」かのようにみなし)、論稿発表の自由を奪ったという意味で思想の自由の侵害にあたる。
護憲を掲げる団体が自由な言論を抑圧するおぞましい現実(2)
2014年1月19日
・護憲と破憲の内外落差
・護憲を掲げる資格が問われている
・構成団体にも問われる自浄の意思と能力
護憲と破憲の内外落差
日本国憲法の諸条項、特に、人種・信条・性別・社会的身分・門地を理由とした政治的・経済的・社会的関係における差別の禁止(第14条1項)、思想・良心の自由(第19条)、信教の自由(第20条)、集会・結社および言論・出版の自由(第21条)、学問の自由(第23条)などの精神的自由権の効力は私人間にも及ぶのかどうかは憲法解釈上の一大問題である。なぜなら、憲法、とりわけ精神的自由権はもともと国民の国家権力に対する防御権として制定されたものであり、私人間関係までも直接に律することを予定したわけではないからである。
現に、学説上も判例上も、私人間の関係はあくまでも民法、商法、労働法といった関係法令によってあるいは個人が属する団体の自治によって律せられるものとし、憲法の自由権条項ないしは人権条項の効力は私人間関係にも直接及ぶとする「直接適用説」はほとんど支持されていない。むしろ、憲法の当該条項の効力は関係法令や契約自由の原則、私的自治の原則を介して間接的に及ぶとする「間接適用説」が通説になっている。これを今の問題に当てはめて考えるとどうなるだろうか。
憲法会議のホームページを閲覧すると、同会の目的が次のように記されている。
「(目的)本会は日本国憲法のじゅうりんに反対し、民主的自由をまもり、平和的・民主的条項を完全に実施させ、憲法の改悪を阻止することを目的とします。
また、憲法会議が2013年10月23日に発表した「『戦争する国』づくりに直結し、憲法原理を覆す『秘密保護法案』に反対します」と題する声明の冒頭で次のように記されている。
「憲法会議は、安倍内閣が25日の閣議で決定し、今臨時国会に提出しようとしている『秘密保護法案(特定秘密保護法案)』に断固反対します。それは同法案が、国民の知る権利、言論・表現の自由を脅かすなど民主主義の根幹と国民主権、平和主義の日本国憲法の基本原理を根底から覆すものだからです。」
この文章に表わされた知る権利、言論・表現の自由が、国家権力からの国民の防御権という意味で用いられていることは明らかである。私も「特定秘密保護法案」の脅威をこのようにとらえ、同法案の成立・施行を阻止する運動を強く支持してきた。
護憲を掲げる資格が問われている
しかし、今日、私たちが社会生活で直面する思想の自由や言論の自由の侵害、信条等を理由にした社会関係面での差別的処遇は、国家や公共機関と個人との関係だけで起こっているわけではない。企業内の労使関係、職域団体、大学、地域の自治会・町内会などでも例外といって済まない頻度で起こっている。さらに言えば、私が東京都知事選をめぐる問題を扱った一連の記事で取り上げたように、民主的市民団体と通称される団体内でも、「運動の世界で生きていきたければ騒ぐな」といった恫喝まがいの言動や執拗に異論を唱えるものを組織から排除するといった行為が起こったことが報告されている(そうした行為をしたと名指しされた当事者からはこれまでに反論なり反証はない)。
このように、憲法の基本的人権を自治の中で活かすことが期待されているはずの団体の内部で、逆に基本的人権を侵害する行為がまかり通っているのは「悪い冗談」では済まない深刻な事態である。
憲法会議が自ら掲げた「目的」の中で擁護すると謳った憲法の「民主的条項」に思想・良心の自由、言論の自由は入っていないはずがない。とすれば、自ら守ると擁護を唱える憲法の民主的条項を自らが蹂躙したのであるから、自己撞着の極みである。こうした自己撞着、言動のダブル・スタンダードを速やかに自浄すべきは当然である。それなしには憲法会議は憲法の民主的条項の擁護を国民に向かって呼びかけ、啓蒙する資格はないのである。
構成団体にも問われる自浄の意思と能力
もうひとつ、私が指摘したいのは憲法会議に参加している諸団体の道義上の連帯責任である。憲法会議事務局から澤藤氏に送られたファックスの文面には、澤藤氏の論稿を『月刊憲法運動』の2月号に掲載するのは、宇都宮候補の当選をめざして、全力をあげて奮闘している憲法会議構成諸団体の納得を得ることはできないと記されている。
・護憲と破憲の内外落差
・護憲を掲げる資格が問われている
・構成団体にも問われる自浄の意思と能力
護憲と破憲の内外落差
日本国憲法の諸条項、特に、人種・信条・性別・社会的身分・門地を理由とした政治的・経済的・社会的関係における差別の禁止(第14条1項)、思想・良心の自由(第19条)、信教の自由(第20条)、集会・結社および言論・出版の自由(第21条)、学問の自由(第23条)などの精神的自由権の効力は私人間にも及ぶのかどうかは憲法解釈上の一大問題である。なぜなら、憲法、とりわけ精神的自由権はもともと国民の国家権力に対する防御権として制定されたものであり、私人間関係までも直接に律することを予定したわけではないからである。
現に、学説上も判例上も、私人間の関係はあくまでも民法、商法、労働法といった関係法令によってあるいは個人が属する団体の自治によって律せられるものとし、憲法の自由権条項ないしは人権条項の効力は私人間関係にも直接及ぶとする「直接適用説」はほとんど支持されていない。むしろ、憲法の当該条項の効力は関係法令や契約自由の原則、私的自治の原則を介して間接的に及ぶとする「間接適用説」が通説になっている。これを今の問題に当てはめて考えるとどうなるだろうか。
憲法会議のホームページを閲覧すると、同会の目的が次のように記されている。
「(目的)本会は日本国憲法のじゅうりんに反対し、民主的自由をまもり、平和的・民主的条項を完全に実施させ、憲法の改悪を阻止することを目的とします。
また、憲法会議が2013年10月23日に発表した「『戦争する国』づくりに直結し、憲法原理を覆す『秘密保護法案』に反対します」と題する声明の冒頭で次のように記されている。
「憲法会議は、安倍内閣が25日の閣議で決定し、今臨時国会に提出しようとしている『秘密保護法案(特定秘密保護法案)』に断固反対します。それは同法案が、国民の知る権利、言論・表現の自由を脅かすなど民主主義の根幹と国民主権、平和主義の日本国憲法の基本原理を根底から覆すものだからです。」
この文章に表わされた知る権利、言論・表現の自由が、国家権力からの国民の防御権という意味で用いられていることは明らかである。私も「特定秘密保護法案」の脅威をこのようにとらえ、同法案の成立・施行を阻止する運動を強く支持してきた。
護憲を掲げる資格が問われている
しかし、今日、私たちが社会生活で直面する思想の自由や言論の自由の侵害、信条等を理由にした社会関係面での差別的処遇は、国家や公共機関と個人との関係だけで起こっているわけではない。企業内の労使関係、職域団体、大学、地域の自治会・町内会などでも例外といって済まない頻度で起こっている。さらに言えば、私が東京都知事選をめぐる問題を扱った一連の記事で取り上げたように、民主的市民団体と通称される団体内でも、「運動の世界で生きていきたければ騒ぐな」といった恫喝まがいの言動や執拗に異論を唱えるものを組織から排除するといった行為が起こったことが報告されている(そうした行為をしたと名指しされた当事者からはこれまでに反論なり反証はない)。
このように、憲法の基本的人権を自治の中で活かすことが期待されているはずの団体の内部で、逆に基本的人権を侵害する行為がまかり通っているのは「悪い冗談」では済まない深刻な事態である。
憲法会議が自ら掲げた「目的」の中で擁護すると謳った憲法の「民主的条項」に思想・良心の自由、言論の自由は入っていないはずがない。とすれば、自ら守ると擁護を唱える憲法の民主的条項を自らが蹂躙したのであるから、自己撞着の極みである。こうした自己撞着、言動のダブル・スタンダードを速やかに自浄すべきは当然である。それなしには憲法会議は憲法の民主的条項の擁護を国民に向かって呼びかけ、啓蒙する資格はないのである。
構成団体にも問われる自浄の意思と能力
もうひとつ、私が指摘したいのは憲法会議に参加している諸団体の道義上の連帯責任である。憲法会議事務局から澤藤氏に送られたファックスの文面には、澤藤氏の論稿を『月刊憲法運動』の2月号に掲載するのは、宇都宮候補の当選をめざして、全力をあげて奮闘している憲法会議構成諸団体の納得を得ることはできないと記されている。
私はこの構成団体がどういう団体か知らないが、構成諸団体の意向に沿わないとして澤藤氏の論稿掲載の延期(最終的には見送り)理由が説明された以上、各構成団体は憲法会議事務局が犯した言論・思想の自由侵害行為の関係当事者ということになる。したがって、これら諸団体は憲法会議事務局の当該行為をどう受け止めるのか――澤藤氏の論稿を機関誌の2月号に掲載することを本当に納得しないのか、しないのならその理由は何なのか――について態度表明があってしかるべきである。また、憲法会議事務局の取った対応の方にむしろ納得しないのなら、事務局にどのような善後策を要請するのかについて、しかるべき見解を表明するのが道義的責任である。