高さ緩和前提で募集  新国立デザイン 「70メートルまで可能」
 
二〇二〇年東京五輪のメーン会場となる新国立競技場(東京都新宿区)建設をめぐり、事業主体の日本スポーツ振興センター(JSC)が、デザインコンペの募集要項で、当時の都の高さ制限の倍以上高い建物を認めていたことが分かった。規制側の都も、計画案を話し合う有識者会議で副知事が「見直しは可能」と発言していたことが判明。緩和ありきで計画が進められた様子が浮かび上がった。 (森本智之)
 JSCは一二年七月から新競技場のデザインコンペを開催。要項に「高さに関する制限」として、最高で七十メートルと明記した。一方、建設地は明治神宮外苑の景観が百年近く保存されている風致地区にあり、一九七〇年に制定された都条例により十五メートルの高さ制限がかかっていた。
 
 条例制定前に建てられた現競技場を建て替えるため、現競技場の最高地点の高さ三十メートルまでは建設可能だが、要項の記載はその二・三倍の高さだった。
 条例に反するにもかかわらず、募集要項に高さ七十メートルと記載された背景には、都側の積極姿勢があった。

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 本紙が情報公開請求で入手した有識者会議の議事録によると、議論は当初から高さ制限を緩める方向で進行。委員だった石原慎太郎知事(当時)の代理で一二年七月の第二回会議に出席した秋山俊行副知事は「都市計画についてきちんと対応していかなければいけない。もちろん権限上、都市計画の見直しが可能」「(地元に)説明する詳細な計画を既に作っております」と発言し、緩和に前向きの姿勢を示した。
 
 コンペの結果、同年十一月、英国の建築家ザハ・ハディドさんのデザインに決まると、JSCは都に対し風致地区の建築制限緩和を提案。都は約一カ月で競技場周辺の高さ制限を十五メートルから七十五メートルへと大幅緩和する地区計画を策定した。計画は都市計画審議会の審査を経て、今年六月に正式に決定された。
 
 秋山氏は「過去の例から見て都市計画の変更に大きな問題はないだろうという見込みはあったが、最初から結論ありきだったわけではない」と説明。計画を事前に作成した理由を「都営霞ケ丘アパートの皆さんも影響を受けるので、早い段階で事情を説明する必要があった」と話した。
 
 都土地利用計画課の飯泉洋課長は「JSCから事業提案を受けた段階で、内容の是非を総合的に検討し、高さ制限を緩和してもこの地域の風致を侵す計画にはならないと判断した。五輪のためなら何をしてもいいとは思っていない」と話した。
 
 <新国立競技場> 現競技場は老朽化が進み、五輪会場の基準を満たさない。このため現在の敷地を拡張して建て替えることが決まった。当初計画では延べ床面積29万平方メートル。後に見直したが、それでも8万人の観客席を備え、2012年ロンドン五輪のメーン会場の倍の22万5000平方メートルある特大サイズ。最大3000億円に膨らんだ総工費は1699億円となる見通し。15年秋の着工、19年春の完成を見込む。
 
 
 
五輪招致活動の源流は神宮外苑「1兆円再開発」計画
【すこぶる怪しい五輪利権の全貌】

 五輪招致を最初に仕掛けたのは誰なのか。出発点はすこぶる怪しい。
 04年6月ごろ、大手広告代理店の社員がA4判10ページの提案書を持って、大手ゼネコン各社を訪問していた。提案名は「GAIEN PROJECT『21世紀の杜』」。国立競技場を中心とした神宮外苑の再開発構想だ。

 国立競技場の建て直しや神宮球場のドーム化などのプランが並ぶ中、ナント、外苑創建100周年に向けた「五輪招致」まで掲げていた。

 1年後に「週刊金曜日」が提案書の中身を報じると、代理店側は「個別取引に関することですので、ご回答は控えさせていただきます」と事実上認めた。今も依頼主は明かしていない。当時は記者として取材にあたった週刊金曜日の平井康嗣編集長が振り返る。

「外苑一帯の土地・施設は『明治神宮』の所有で、そもそもは天皇のために民間の寄付で造営された。おいそれと収益優先の再開発はできません。だから大義に五輪を掲げる必要があったのではないか。当時の明治神宮の総代(崇敬者の代表)は石原都知事でした」
 
石原が五輪招致を最初にブチ上げたのは05年8月のこと。当初は「国立競技場は古く、(招致の)資格にならない。神宮の周りは大開発になる」と気勢を上げていた。

 外苑の再開発を巡っては、すでに03年に財団法人「日本地域開発センター」が「明治神宮外苑再整備構想調査」を実施。この法人の役員名簿には今も三菱地所、竹中工務店、清水建設らの大手ゼネコン幹部が並ぶ。

 同時期に「JEM・PFI共同機構」なる団体も外苑の再開発構想をまとめた。各スポーツ施設を移築して一帯に高級マンション群を建てる計画で、実現時の資産価値を1兆円と見積もった。機構の幹事社には鹿島や大成などが名を連ねた。

 10年前から国立の老朽化をにらみ、ゼネコン各社が再開発利権を狙って、主導権を争っていた状況がうかがえよう。

 JEM代表として幹事社を束ねたのは米田勝安氏だ。宮司の肩書を持ちながら、多くの都市開発で暗躍、永田町の日枝神社を巻き込んだ山王パークタワー建設にも関わった。平井氏は外苑再開発の取材で米田氏に会っていた。
 
「彼が10年9月に75歳で亡くなるまで、最も親交の深かった政治家は森喜朗元首相です。同じ早大雄弁会出身で、森氏の結婚式では司会を務めた仲。米田氏は自伝の中でも森氏との蜜月ぶりを強調していました」

 その森こそ、「東京で2回目の五輪を」と石原をたきつけた張本人だ。05年4月に日本体育協会の会長に就任した直後、都議との会合でこう豪語したという。

「国立競技場の建て替えが、政治家の私が会長になった意味。東京に五輪が来れば全部できる」

 都が晴海にメーン会場を新設する計画を立てると、森は「都内に国立競技場は2つもいらない」と文科省幹部に念押ししたと報じられた。結局、晴海に国の予算は付かず、都は計画を断念。国立競技場は五輪のメーン会場として巨大スタジアムに生まれ変わる。

 森の悲願達成の裏には親友の影がちらつく。外苑一帯は今年6月、建物の高さ制限が15メートルから75メートルに大幅に緩和された。こうして再開発を後押ししたのは、現在の猪瀬直樹都政だ。