1940年「生活図画事件」
治安維持法で逮捕され拷問をうけた山下懋さん
紙芝居と音楽で、学校と地域を豊かに
山下懋(つとむ)さんは北海道日本海側の漁村、羽幌村(現羽幌町)で1920年に生まれました。34年、旭川師範学校(現北海道教育大学旭川校)に入学。であった熊田先生から買いが、読書、音楽の指導を受けました。特に美術を通じて現実を正しく科学的に見つめ、かくあるべきだという姿勢で子どもたちと共に学び、生きる教師であれということを学びました。
40年、卒業と同時に日高国新冠(にいかっぷ)村、元神部(もとかんべ)小学校に赴任しました。児童数は70人ほどで、教員は校長と山下さんの2人だけでですから複式学級です。山下さんは2,3,4年を受け持ちました。児童の3分の1はアイヌの子どもです。学校を休んで家の仕事をするのが当然という状況でした。
楽しい学校づくり、地域づくり
山下さんは、子どもたちが学校が楽しくなるよう、紙芝居を作って発表させました。
つづり方にも力を入れ「太陽の子」という文集も作りました。子どもたちは次第に明るく元気になってきました。
山下さんは村の青年たちとともに図書館づくりもしました。青年達は出稼ぎで得たお金で本を買いました。月に一度、「紙芝居と音楽の夕べ」を地域で行い、おとなの人たちにも喜んでもらいました。
熊田先生からは蓄音機とレコードを送ってもらいました。学校が地域の文化の発祥地になると同時に地域・保護者とともに学校づくりをするという今日の民主教育に通ずるものを求めて山下さんは努力しました。
これらの実戦を、求められて札幌の教育集会で発表し、道の視察間もこれを高く評価しました。新聞社や出版社からは村に図書をたくさん寄贈してくれる約束までしてくれました。
「左翼的な育成啓蒙」と断罪
40年11月、翌41年1月に生活つづり方を実践していた北海道の教師56人が治安維持法違反で検挙され、関連して熊田先生も検挙されました。
後者の事件は師範学校や旭川中学校(現旭川東高校)の美術部に在籍していた人々が中心でしたので生活図画事件としてつづり方事件とは区別しています。
山下さんも9月20日早朝、教員住宅で5~6人の特高、刑事に寝込みを襲われ退避され、札幌警察署や旭川刑務所などで2年2か月、拷問・取り調べ・拘留されました。
43年11月4日、旭川地裁で山下さんは「生徒、児童、小学校教員及び一般大衆を左翼的に教育啓蒙せんことを企画し」田として治安維持法違反で懲役2年執行猶予4年の判決が出されました。釈放はされましたが、終戦まで山下さんは特高監視の下で国策会社で働かされ、教師には戻れませんでした。
国会請願に3度参加
戦後は東京、千葉県で生活。2010年から3度、国会請願に参加し、12年には当時の横道隆弘衆院議長に会い、横道氏が「治安維持法犠牲者のことなど国会でしっかりと議論すべき問題です」と答える力になりました。
山下さんは、今年4月散歩中に転び、その後体調をくずされ8月28日に亡くなられました。93歳でした。
(宮田汎・北海道本部長)
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟「不屈」No473 2013年11月15日
山下懋さんには、2008年5月幕張メッセの世界9条会議で、当会も地元のNGOとして司会と治安維持法弾圧犠牲者および現代のビラ配布弾圧被害者の参加・案内の要請を受け、治安維持法同盟主催分科会「戦争と弾圧は手をつないでやってくる」に協賛し協力し、多くの会員も参加しました。
当会の(故)杉山光央代表が、山下さんの最寄りの駅にお迎えにうかがい、会場までタクシーでご案内し参加していただきました。
この分科会会場は、開場するや否やたちまちあふれてしまい、数十人の方に他の分科会に参加して頂き、多くの方に床に座って参加していただきました。
治安維持法弾圧犠牲者の山下さん、横浜事件の弾圧被害者遺族の木村まきさん、現代のビラ配布弾圧事件被害者の堀越明男さんたちの訴えに耳を傾けた参加者の関心は高く、ものすごい熱気でした。