”米軍は9条違反”の伊達判決 
  安保改定遅らせた
 
  米政府解禁文書で判明
 
 現行日米安保条約の署名(1960年1月)が当初目論んでいた日程より大幅に延期された背景に、「米軍駐留は憲法9条違反」と断罪した砂川事件・東京地裁判決(59年3月いわゆる伊達判決)が大きく影響していたことが、米政府解禁文書で初めて判明しました。安保改定交渉の”謎”の一つが明らかになりました。
 
 解禁文書は、59年8月3日発信のマッカーサー駐日大使が米国務長官にあてた秘密所感。「安全保守上の理由」で閲覧禁止になっていましたが、布川玲子・元山梨学院大学教授が米国の情報公開法に基づき米国公文書館に開示請求し、入手しました。
 原稿安保条約をめぐり日本政府は当初59年6月末から7月初旬の署名というシナリオを描いていました。ところが突如延期され、署名は翌60年1月になりました。これまで、この延期はもっぱら[自民党内の事情]と説明されてきました。
 この事情に関し秘密書簡は「外務省と自民党筋の情報」として、安保条約改定の日程が遅れたのは、伊達判決の跳躍上告(別項)を受けた最高裁が「当初もくろんでいた(59年の)晩夏ないし初秋までに(判決を)出すことが可能だということに影響された」と指摘。「砂川事件が継続中であることは、社会主義者やそのほかの反対勢力に対し、そうでなければ避けられたような論点をあげつらう機会を与えかねないのは事実だ」としています。最高裁が破棄判決を出す前に、条約に署名、国会提出すれば、安保条約にもとづく米軍駐留を違憲とした伊達判決をもとに厳しく追及されるのを日本政府がおそれていたことを示しています。
 
 また秘密書簡は、伊達判決の跳躍上告を受けた最高裁の田中耕太郎長官がレンハート駐日米首席公使と会談し、公判の日程や判決の落としどころを生々しく報告しています。同書簡の起案日は59年7月31日と推定され、会談は公判期日決定(同8月3日)前に行われたことになります。裁判官として厳守すべき「評議の秘密」まで破って情報提供をする最高裁の対米従属ぶりが鮮明です。
 
 砂川事件・伊達判決
 1957年7月に米軍立川基地(東京都砂川町=当時)の拡張に反対した労働組合員や学生が日米安保条約に基づく刑事特別法で起訴された事件。
一審で東京地裁の伊達秋雄裁判長は59年3月30日、米軍駐留は憲法9条に違反するとして無罪判決を言い渡しました。これに対し政府は高裁への控訴を飛ばして最高裁に上告(跳躍上告)。
最高裁は同年12月16日、一審判決を破棄し、差し戻す判決を出しました。
 
しんぶん赤旗2013年4月8日付 (1面)
 
 日米で血眼になり[判決破棄] ■安保の正当性に深刻な疑問
  政府が恐れた
    安保違憲判決
 
 日米安保条約改定交渉の「空白」を埋める新資料が発見されました。1面所報の、布川玲子元山梨学院大学教授が入手した米政府解禁文書です。
 旧日米安保条約(1952年発効)に代わる原稿安保条約の日米交渉は、59年6月にはほぼまとまっていました。それにもかかわらず、その署名が翌60年1月まで延期されたのはなぜかー。この「空白」の十分な説明はこれまでなされていませんでした。
 例えば、外務省のアメリカ安全保障課長として安保改定交渉に携わった東郷文彦氏は著書で、59年7月の岸信介首相の中南米・欧州外遊前に署名を行うため連日のように交渉を行い、6月には条約はほぼ完成していたと指摘。ところが、6月下旬になって署名は突如延期となり、「これも(自民党の)党内事情であって私は詳(つまび)らかにしない」と述べています。(『日米外交三十年ー安保・沖縄とその後』)。
 しかし、延期の理由は「自民党の党内事情」だけでなく、もっと大きな理由があったことが、布川氏入手の米政府解禁文書で明らかになったのです。
 
 国民的共闘
 
 その大きな理由とは、東京地裁での伊達秋雄裁判長による「米軍駐留は憲法違反」という砂川事件の跳躍上告(59年4月)を受けた最高裁が早期の結審にたどり着けないことでした。
 当時安保改定に反対する国民世論と運動は、日本共産党や社会党、労組、民主諸団体などによる「安保条約改定阻止国民会議」(安保共闘)の結成(同年3月)を機に大きな発展を見せていました。前年の58年には警察官の権限を強化し人権を侵害する警職法改悪案を国民的共闘によって廃案に追い込む成果もあげていました。こうした国民的共闘による安保改定反対運動に一層大きなエネルギーを与えるものでした。
 だからこそ日米両政府は、伊達判決を血眼になって葬り去ろうとします。
 国際問題研究者の新原昭治氏が入手した米政府解禁文書で明らかになったように、マッカーサー駐日米大使が藤山愛一郎外相に、伊達判決を覆すた最高裁に跳躍上告を行うよう働きかけ、これを実現します。
 
  詳しく語る
 
 一方、マッカーサー大使らは最高裁の田中耕太郎長官と複数回にわたり密会。この中で田中長官は公判の日程や判決の見通し、各裁判官の立場などを詳しく語っていたことも米政府解禁文書で明らかになっていました。
今回、布川氏が入手した解禁文書にも、田中長官が在日米大使館のレンハート首席公司に伊達判決破棄の決意などを語ったことが記されています。
 元駐日米特別補佐官の経歴を持つジョージ・パッカード氏は著書で、伊達判決について「日米安保条約の正当性に対し深刻な疑問を投げかけただけでなく、1051年の対日平和条約以来の歴代日本政府の外交的業績をすべて台無しにした」と語っています。(『プロテスト・イン東京』)。伊達判決、ひいてはその根拠となった日本国憲法は、日べ安保条約とそれに基づく外交路線そのものを大きく揺るがしたのです。(榎本好孝) 
 
 しんぶん赤旗2013年4月8日付 (2面)
 
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-04-08/2013040802_03_1.html 

解禁文書全文

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-04-08/2013040802_03_1.jpg
(写真)布川玲子・元山梨学院大学教授が入手した米政府解禁文書のコピー
 布川玲子・元山梨学院大学教授が入手した米政府解禁文書は次の通りです。
米国大使館・東京発
米国務長官あて
(発信日1959・8・3 国務省受領日1959・8・5)
 
 共通の友人宅での会話の中で、田中耕太郎裁判長は、(レンハート)在日米大使館首席公使に対し砂川事件の判決は、おそらく12月であろうと今考えていると語った。弁護団は、裁判所の結審を遅らせるべくあらゆる可能な法的手段を試みているが、裁判長は、争点を事実問題ではなく法的問題に閉じ込める決心を固めていると語った。こうした考えの上に立ち、彼は、口頭弁論は、9月初旬に始まる週の1週につき2回、いずれも午前と午後に開廷すれば、およそ3週間で終えることができると確信している。問題は、その後で生じるかもしれない。というのも彼の14人の同僚裁判官たちの多くが、それぞれの見解を長々と弁じたがるからである。裁判長は、結審後の評議は、実質的な全員一致を生みだし、世論を“揺さぶる”もとになる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っていると付言した。
 
 コメント:大使館は、最近外務省と自民党の情報源より、日本政府が新日米安全保障条約の提出を12月開始の通常国会まで遅らせる決定をしたのは、砂川事件判決を最高裁が、当初もくろんでいた晩夏ないし初秋までに出すことが不可能だということに影響されたものであるとの複数の示唆を得た。これらの情報源は、砂川事件の位置は、新条約の国会提出を延期した決定的要因ではないが、砂川事件が係属中であることは、社会主義者やそのほかの反対勢力に対し、そうでなければ避けられたような論点をあげつらう機会を与えかねないのは事実だと認めている。加えて、社会主義者たちは、地裁法廷の米軍の日本駐留は憲法違反であるとの決定に強くコミットしている。もし、最高裁が、地裁判決を覆し、政府側に立った判決を出すならば、新条約支持の世論の空気は、決定的に支持され、社会主義者たちは、政治的柔道の型で言えば、自分たちの攻め技がたたって投げ飛ばされることになろう。
 
マッカーサー
 レンハート 59・7・31(注=起案日を示すと推定される)