「カローシ」
 
東京新聞 2012年7月25日 朝刊

過労社会 止まらぬ長時間労働<上> 「夫の死 何だった」トヨタ 緩む残業制限

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/images/PK2012072502100147_size0.jpg
 
 かつて日本の高度経済成長を支えたサラリーマンたちは「企業戦士」と呼ばれた。家庭を顧みず会社に尽くす働き方は、いのちを削り、「過労死」という言葉を生んだ。ちょうど三十年前のことだ。だが、今なお働く人たちは、長時間の残業を強いられ、企業は企業戦士の残像を求めているかのようだ。なぜ過労死はなくならないのか。背景を探った。 
 「車を造り上げる喜びで、仕事が止まらなくなるんです」
 トヨタ自動車の技術者だった亡き夫の同僚が、仏前で妻の山本令子さん(48)=仮名=にこう告げた。
 三万人以上の技術者が働くといわれるトヨタ本社(愛知県豊田市)の一角にあるテクニカルセンター。その七階にある通称「Z」と呼ばれる新車開発部門が、夫の職場だった。
 夫は「カムリ」のハイブリッド車開発の全工程に関わる責任者だった。久々の家族だんらんのときを過ごした二〇〇六年正月、午前十時になっても起きてこない夫を長女が起こしに行くと、布団の中で冷たくなっていた。四十五歳、虚血性心疾患。米国での完成発表に出発する前日だった。
 Zは花形の部署で、責任は重い。各部署との折衝に、分刻みの会議。納期に追われ、一円単位で原価を切り詰める。手付かずの弁当を持ち帰ってくることもたびたびあった。
 「今日もアドレナリンが出っぱなしだった」。帰宅するなり夫はそう笑っていた。やりたい仕事、男の生きがい。本人は本望だったかもしれない。だが、労災保険の補償給付が認められた今も、家族にはやりきれなさが残る。「職場は常に興奮状態で、自らを追い込んでいく。だからこそ会社がストップをかけないと」と訴える。
 夫の死から六年。山本さんの思いとは裏腹に、トヨタは今、残業規制を緩める流れにある。
 昨年八月のトヨタの四半期決算の会見。伊地知隆彦専務から「若い人たちに時間を気にせず働けるような制度を早く入れてもらわないと、日本の物づくりは大変なことになる」との発言があった。
 円高や電力不足など国内企業を取り巻く状況は厳しさを増す。トヨタも単体では四年連続赤字。トヨタの危機感は「残業時間の制限など労働規制が成長の足かせ」という日本産業界の本音の表れでもある。
 本紙の調査では、トヨタの残業の上限は過労死ライン上の月八十時間。しかし、上限近くまで働かせようにも、労使の取り決めから制約は多かった。それが、昨年十月から今年一月にかけ、技術者ら事務系労働者(ホワイトカラー)の働き方に関する労使協定を次々に見直した。
 協定で定めた年間の残業の上限三百六十時間を超えて働かせる場合に必要だった労使間の事前協議を事後協議とし、忙しいときには集中的に働けるよう残業の延長手続きを簡素化した。
 トヨタの広報担当者は「働きたいときや働く必要があるときに、生産需要に応じて働けるような、柔軟な働き方を進めないと世界で戦えない。残業時間については事後検証している」と説明する。
 徹底的に無駄を排除する「トヨタ生産方式」。技術者にもさらなる開発期間の短縮、コスト削減を求める。年三百六十時間を超えて残業した社員数は一〇年度から再び増加に転じた。その大半がホワイトカラーだ。
 この十年間で少なくとも三人の社員が過労死や過労自殺し、労災認定された。トヨタの労働問題に詳しい中京大経営学部・猿田正機教授は「国際競争にさらされ、労働の密度、量とも負荷は高まっている。利益追求のあまり社員の健康管理がおざなりにならないか」と懸念する。
 山本さんは悲しそうにつぶやく。「夫の死は何だったんでしょうね。会社は何も学んでない」
 
 
 7月26日 朝刊
過労社会 止まらぬ長時間労働<中> 
月200時間招いた死 残業規制「例外」で骨抜き
 
 長男に先立たれた主婦加藤久恵さん=仮名=は、息子の死後、給与明細を手にして、月二百時間近くも残業していたことを初めて知った。「入社して間もないのに、会社に休ませてなんて言えない」。休養を勧めてもかたくなに拒んだ長男の姿がよみがえった。
 法律や労働基準監督署があるのに、こんな長時間労働がなぜ許されるのか-。わが子の死を受け入れることができなかった。
 長男は二〇〇七年、プラント保守大手「新興プランテック」(横浜市)に入社し、千葉県市原市でプラント工事の現場監督を任された。うつ病を発症し、翌年十一月に自殺。二十四歳だった。労基署は、過労が原因の労働災害と認めた。
 亡くなる三カ月前のことだ。土日も出勤していた長男が急に無断欠勤したと連絡が入った。加藤さんが長男宅を訪れると、久々に再会した息子は別人のようにやせ細っていた。いったん事務職に配置換えとなり、二カ月余り病院に通う日々が続いた。
 現場復帰が決まり、実家に戻ってきた長男は「また休みがなくなるな」とこぼした。心配する加藤さんに「人手が足りないから」と気丈に答えた二日後、命を絶った。
 遺族は長時間労働を課した会社の違法性を訴訟で訴えるだけでなく、適正な指導を怠ったとして国も相手取り東京地裁で争っている。
 国は「監督する義務はなく責任はない」と主張している。新興プランテックのような建設業は労基法の長時間労働規制の対象外とする「例外規定」があるからだ。
 トラックやタクシーの運転手も同様で、労使の合意があれば何時間でも働かせることが可能だ。そのせいか過労が原因とされる脳・心臓疾患の労災認定数は、運輸業と建設業が毎年上位を占める。
 例外規定を設けている理由を厚生労働省は「納期前などに仕事が急増する可能性がある業種だから」と説明する。遺族代理人の川人博弁護士は「どんな仕事にも繁忙期はあり、一部の業種のみ特別扱いする理由はない」と反論する。
 業種による例外だけではない。
 そもそも労基法は残業を認めていない。だが労使合意に基づく協定を結べば、月四十五時間までの残業が認められる。さらに、特別な事情があれば半年間は残業を無制限に延長できる「特別条項」も存在する。
 この協定に関する本紙の調査では、国内の大手百社のうち、いわゆる過労死ラインとされる月八十時間以上の残業を認めている企業は七割に上った。例外に例外を重ねた制度が当たり前となり、「残業は例外」という意識は薄れている。
 新興プランテックも裁判で「法律で残業の上限規制を除外されており、月二百時間の協定を結んでも違法ではない」と主張している。
 加藤さんは制度の不備を問う。「月二百時間残業しないと回らない仕事なんて、『死んでもいい』と言われているようなものです」
 業種による残業規制の適用除外 厚労省は残業について、労使協定を結んでも原則として上限は月45時間、年360時間との基準を定めている。しかし、(1)建設業(2)運輸業務(3)研究開発業務(4)季節的要因などで業務量の変動が著しい業種-については、上限の規制はないとする例外を設けている。
 
 
7月27日 朝刊

過労社会 止まらぬ長時間労働<下> 

休憩重視 効率アップ 心の健康、介護…調和を

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/images/PK2012072702100081_size0.jpg
 
 
 「ここまでひどかったのか」。昨年五月、三菱重工労働組合の村元隆書記長は、社内の会議で、会社側から示された前年の社員健康調査の資料を見て驚いた。
 全十三の事業所で、「精神面の不調」が会社を休んだ理由の上位を占めていた。休んだ日数を見ても全体の六割近くに上った。ただでさえ、二〇〇一年以降、一人当たりの年間の総労働時間は、国が目標とした千八百時間を大幅に上回る二千時間を超える高止まり。長時間労働が常態化し、社員の健康が危ぶまれていた。
 想像を超える過酷な実態を目の当たりにし、村元書記長は「だからこそ『インターバル休息』は必要だ」との思いを強くした。
 欧州連合(EU)で導入されているインターバル休息制度は、一日の生活のうち、まず休息時間を確保する考え方。EUでは、仕事を終えてから翌日の仕事を始めるまでに十一時間以上の休息を義務付けている。
 三菱重工業でも、村元書記長が先頭に立ち、昨年四月に国内メーカーで初めて全職種一斉に導入された。今は最低七時間の休息が努力義務だが、より長い休息時間も検討している。
 製造業だけに突発の発注もあり、会社側からは生産性への影響を心配する意見もあった。しかし、導入してみると、業務に支障が出たことはなく、一年が過ぎ、逆に社員の働き方に対する意識が変わりつつあるという。
 村元書記長は「残業が減れば、社員は家庭のだんらんが増えて癒やしになり、健康維持にもつながる。仕事の効率化が図られ、生産性も上がる」と導入の意義を強調する。
    ◇    
 長時間労働を抑えるために「ワークライフバランス」(仕事と生活の調和)という考え方にも注目が集まっている。政府も〇七年十二月、指針などをつくり、官民挙げた取り組みが進みつつある。
 仕事と家庭の両立というと、育休を連想しがちだ。しかし、企業向けに働き方のコンサルティングを手掛ける会社「ワーク・ライフバランス」(東京)には、昨年ごろから、介護との両立に関する相談が増えているという。
 団塊世代は現在六十五歳前後。高齢化に伴い、要介護の親を抱える団塊ジュニアは今後、一気に増えてくる。しかも、介護を担う世代は男女を問わず、会社の主力社員たちだ。
 厚生労働省の雇用動向調査によると、一〇年に介護を理由に仕事を辞めた人は約五万人に上る。多くの働き盛りの社員が、仕事との両立がかなわず辞めざるをえないとなれば、企業ばかりか社会にとってもマイナスだ。
 同社の小室淑恵社長は「今や会社と家庭の両立は切迫した問題。長時間労働に頼った働き方の限界は近い。これ以上、経営者は現実に目を背けるべきではない」と話す。
 働く人たちの命と健康の問題だけではない。ライフスタイルの多様な変化からも、「脱長時間労働」は待ったなしだ。
 
 (中沢誠と皆川剛が担当しました)
 ご意見や過労死問題の情報をお寄せください。
 〒231 0007 横浜市中区弁天通4の52 東京新聞横浜支局。ファクス045(201)1046、メール yokohama@tokyo-np.co.jp