★ 意 見 陳 述 書 ★

 東京高等裁判所第17民事部 御中
2012年6月20日
控訴人 河原井純子

 1 「両眼失明の危機」に曝される
 -2003年東京都教育委員会の人権無視の「破壊的教育改箪」の暴挙 都立七生養護学校の「保健・性教育」「こころとからだの学習」への攻撃と2003年10.23通達の強行のなかで-


 私は、2012年1月16日、最高裁第1小法廷・金築裁判長のもとで「停職1ヶ月処分の取り消し」と「損害賠償請求について高等裁判所に差し戻し」の判決を受けました河原井純子です。
 2000年から2005年まで都立七生養護学校の教員でした。
 2003年6月以降は、いまも思い出すだけで、身も心も圧迫されて苦しくなります。
 毎日、毎日、監視と命令の中で、かつて経験したことのない激務が続き、心身共にかなり緊迫した状態でした。
 2004年12月31日、ついに過労のため「両眼眼底出血」となり、受診の結果「これで眼圧が高くなったら両眼失明の危機あり」と診断され、2ヶ月の病気体暇と週一の通院を余儀なくされました。


 当時高等部3年生の担任でした。青年たちひとりひとりの卒業の進路もほぼ決まり、卒業にむけてのさまざまな諸準備に入っているとても大切な結実の時期でした。まさに青年たちとの総括の時だったのです。その時を共有できなかった喪失感、その取り返しがつかない無念さをご想像ください
 3年間共に学んだ青年たちをどうしても社会に送り出したくて、無理を承知で2005年3月11日に職場復帰しました。青年たちも同僚もやさしく迎え入れてくれて、それがいまも私の生きる活力になっています。

 「両眼眼底出血」により、すべでが歪ん見えます。ゆがんで見える世界のなかで、文章を読む時には、A4版プリントはA3版に拡大して、拡大鏡を用いてゆっくり読解しています。文章を提出する時には、A3版用紙に、明暗のはっきりとする筆ペンで大きく書いたものをA4版に縮小して提出しています。そんな作業の繰り返しで、なんとか乗り切ってきました。
 そんななかで、ほんの少数の人が、「メールやれ」「パソコンやれ」と迫ってきた人はいましたが、私が今日までなんとか失明を免れて、困難な身ではあっても「もの・こと・ひと」に穏やかに向き合えるのは、出会った、または日常的に現在関わる、多くの人たちの「やさしさ」があるからです。
 私はここで強く訴えます!
 現在東京の教職員はさまざまな「破壊的教育改革」のもとで、ことごとく心身を破壊されています。その状況のなかで最大の被害者は子どもたちや青年たちです。この現場の状況を丁寧に認定していただき、ぜひ法の力でこの惨状を救ってください。

 2 「停職処分」は、子どもたちや青年たち保護者との人間関係を、教育労働者の誇りを人間の尊厳を、そして経済的基盤を、根こそぎすべて奪い去る

 2005年4月、「見えにくい」困難な身のまま、都立調布養護学校に異動しました。
 2006年1月25日、周年行事で「君が代」斉唱時に、どうしても起立することができず、4回めの不起立で「停職1ヶ月」の処分を科せられました。
 その後、多くの仲間から「河原井さんごめんね、どうしても停職だけは避けたい」という悲痛な叫びが、まさに絶叫が届きました。そうです。「停職処分」は限りなく重たいのです。すべてを根こそぎ奪い去り、そして「君が代解雇・免職」の危機が刻々と迫ってくるのですから
 信条を捨てるか、不利益をとるかと心理的に極限まで追い込まれ、信条を貫き子どもたちや青年たちの人権を守ろうとすればする程、学校現場・教育現場から排除されるのです。過酷にして非道な仕打ちです。
 東京の突出した累積加重処分は、そしてこの裁判は全国から注目されています。
 「処分の取り消し」だけでは根こそぎ奪い去られた子どもたちや青年たち保護者との私の人間関係、私の教育労働者の誇り、私の人間の尊厳、そして私の両眼は、けっして取り戻すことはできません。

 3 戦後わたしたちは何を反省し、どんな学校を、社会を構想したのか

 2006年の本件停職処分の時、9・21難波裁判長による画期的な予防訴訟判決があり、いっそう背中を押されました。
 「命令と服従」の体制がどんな惨状を生み出したのかは、歴史が厳しく証明しています。
 わたしたちは、力の限り主張し、証拠を提出して、東京都教育委員会が注意義務に違反して意図的に累積加重処分の停職処分を発令した事実が国家賠償法上も違法であることを明らかにしています。

 南裁判長、真摯な裁決を心から要望いたします。
 一日も早くすべての処分の取消しと、「10・23通達」の違憲・違法性が裁判で明らかになることを願いながら、私の陳述を終わります。
 
パワー・トゥ・ザ・ピープル!! パート2