第47回放送フォーラム
原発被災者の憤りにどう向き合うか
NHK「家族は放射能の向こうに」出演者を迎えて〜
 
  ゲスト 福島県大熊町木村紀夫さん
 2012年6月9日(土)
  東京・代々木区民会館
  主催 放送を語る会
  協賛 日本ジャーナリスト会議 メディア総合研究所
 
  <ゲスト、木村紀夫氏の冒頭での発言より>
 
 2011311日、午後246分。
 私は、隣の富岡町にある職場の養豚場で子豚の移動後、使用した4トントラックの荷台を洗浄してました。その地震は、もちろん今まで経験したことのない規模のもので、トラックの上だったこともあり、横転しそうな程の横揺れでしたが、割と冷静に荷台にしゃがんで収まるのを待ちました。
 職場の建物は、築40年以上の古い物も含め倒壊した物はなく、餌用の大きなタンクが幾つか倒れた程度だったため、自宅は大丈夫だろうと判断し、仕事を続けることにしました。電話は不通、停電で情報も入らない状況でしたが、車に置いてあった携帯で連絡することはしませんでした。家も家族も無事だろうと安易に確信していました。
 
 倒壊した建物は無かったものの、基礎が歪んで豚房の床が落ち、200頭以上の子豚が糞尿の溜まったピットへ転落していたため、職員全員でその救出にあたりました。子豚といっても既に体重30キロ以上あり、それは大変な作業になりました。誰も自宅の様子を見に帰ると言う者はなく、数人の従業員を使う立場にあった私が、瀕死の子豚を残して帰る訳にはいかず、みんなに一度帰ろうと提案することも出来ませんでした。残念ながら、自宅を流された社員が私以外にも何人かいましたが、幸いにも犠牲者は我が家の3人だけでした。
 
 子豚の救出作業中、上司がラジオの情報で「3メーターの津波がくるらしい」と伝えに来ました。その情報で更に私は安心しました。自宅は海岸から100メーターと近かったものの、海抜は5から6メーターあり、3メーターの津波で流されるとは考えられません。更に家の前50メーターも歩けば高台で、今回の津波もそこまでは上がっていません。その情報が誤ったものであるなどと疑うこともなく、家族は大丈夫と思い込んでいました。
 
 
 その頃、自宅のある大熊町の熊川地区は修羅場でした。我が家族3人も恐怖のなかで戦っていたのだと思います。それが長く続いたのか、あっという間だったのか分かりませんが、何より守らなければならない者の命が消えそうな時、私は子豚の命を助けていました。苦しみや恐怖が長く続かなかったことを、今は願うのみです。皮肉なことに、助けた子豚も原発事故で置き去りにされ、豚房から逃げることの出来た一部以外は餓死しました。
 
 熊川に津波が来たのは、午後335分頃だったようです。一波目は川を遡る程度でしたが、2波目、3波目がすごかったそうです。20メーター以上ありそうな、海岸の松林を潮けむりを上げながら越えて来ました。
 
 その時間、自宅にいた住民は年寄ばかりでした。地震直後、熊川区長が先頭に立って住民を避難場所になっていた公民館へ集めましたが、そこも海岸から500メーター程で海抜は6メーター。もちろん津波にのまれましたが、木によじ登ったり、しがみついたりして、幸いにも犠牲者はでませんでした。その中には、津波の上がらなかった自宅から地震後に公民館に避難して波にのまれた92歳のおばあちゃんもいました。津波から生還したにもかかわらず、この冬、残念ながら避難先で亡くなられたそうです。
 そんな中、木村家は盲点でした。区長も、あそこは津波はあがらないと思い込んでいて見に行かず、行く余裕もなかったようです。
 
 
 地震が起きた時間、私の父王太朗は、私の長女舞雪を学校まで迎えに行く途中だったようです。既に校庭に避難していた孫娘の所に来て、「家に一人でいる婆ちゃんの様子を見に行くから、お前はここで待ってろ」と伝え、孫娘を残して戻っていきました。舞雪はこれで救われました。小学校は海から2キロ、海抜も50メーター以上あります。
 
 しかし、どうゆう訳か学童保育で学校の隣の児童館へ預けられていた二女の汐凪を王太朗は連れて帰ってしまいます。いつも母親が仕事を終えて迎えに来る5時まで児童館で遊んでいる汐凪も、この時は「爺ちゃんが迎えに来た」と喜んで車に飛び乗って帰ったそうです。
 何が姉妹を全く別の方向へ導いてしまったのか、そこに何があったのか、今となっては分かりませんが、それはほんの些細な判断であり、ちょっとしたことで簡単に生と死という全く反対の方向に導かれることを痛感しました。
 
 妻、深雪は海岸から6キロ程内陸に入った別の小学校で給食の仕事をしていました。地震直後に「家の様子を見に行くから」と職場を離れたそうです。深雪の父親が3時頃携帯で連絡がとれた時、「家に戻って、自宅の中にいる犬を連れだす」と言っていたそうです。その途中、児童館にも立ち寄っているようです。3時半頃電話しても、携帯はつながりませんでした。
 
 
 私が自宅へ戻ったのは、夕方6時頃だったと思います。家は基礎を残すのみとなっていました。それでもまだ、家族は無事と思い込んでいました。
 避難所に行くと母と長女がいましたが、そこで初めて3人がいないことを知りました。愕然とした私はまず、避難所に止まっている数百台の車の中に、妻と父の車がないか確認し、その後他の避難所、更に病院を回りましたが3人を確認できず、再び自宅へ戻った時、裏山の暗闇から飼い犬がリードを引きずって飛び出してきました。そこで初めて誰か、恐らく妻が家に戻り、被災したかもしれないと思いました。それから一晩、犬を連れて自宅周辺を捜しましたが、3人を見つけられず、12日朝、熊川区長から避難指示が出たことを聞かされました。「生きてる者の方が大事だぞ」その区長の言葉で別のスイッチが入りました。残された長女を守らなければならない。
 
先に避難していた長女らと川内村の避難所で合流し、12日の水素爆発後にそこからも出て、いわき、那須、埼玉と避難しましたが、1415日の爆発で更に妻の実家、岡山県美作市まで逃げることを決めました。安易に大丈夫と思い込んだために3人を失った私にとって、妥協することは許されませんでした。美作についたのは、16日早朝でした。
 そして、その日の昼には、どうしても付いていくと言って聞かない妻の妹と2人、福島へと引き返しました。
 
 
   それから3月いっぱい、大熊町が避難していた田村市の総合体育館でお世話にな 
  りながら、3人の情報を求めて福島県内の避難所、自治体を回りました。それしか出来ませんでした。こっそり警戒区域に入ることも可能だったようだし、義妹もそれを望みましたが、若い彼女を被爆させるわけにはいかず、私に何かあって長女を孤児にすることも出来ない。さらに、警戒区域から放射能を持ち帰ってばら撒いてしまうことは、決して許されないことでした。私たちは、警戒区域外からバリケードの向こうを睨めつけることしか出来ませんでした。
 
 
   4月からは、1人、各地の遺体安置所を回って歩きました。客観的に見て3人が生きているとは考えられません。海へ流されてることを考え、茨城、宮城の警察にも連絡をいれました。
   そんな中、父親が見つかりました。429日、どこで飛ばしてたのか未だに解らないのですが、無人のヘリコプターによって、自宅前の田んぼで倒れている父親は発見されました。震災から49日後のことでした。震災直後は水没して見つけてあげることは出来ませんでしたが、312日に捜索していれば、確実に発見出来た所でした。
   この責任は誰が取るのでしょうか? 発見の遅れは原発事故のせいであり、事故の原因は、原発は安全だと言ってきた東電幹部、御用学者たちにあると思うのですが。そんな方々は、今どんな生活をしているのでしょうか? 
 
  
   妻は、震災後丁度1ヶ月の4月10日、警視庁のヘリコプターによって自宅から50キロ南の海上で発見されました。それが妻だということがわかったのは、6月2日、DNA鑑定によるものでした。しかし、私は4月中旬の時点でいわきの警察署でその情報を見ていました。身長145センチ、女性、下着と黒のタンクトップ。
  妻の身長は158センチ。身長の誤差はせいぜい5センチ程度だという警察の話。その時点で、それは、深雪ではないと判断してしまいました。よくよく見ると、黒のタンクトップには見覚えがありました。しかし私は、警察の情報をうのみにして彼女に気づいてやれなかった。遺体も痛みが激しく、足先が脱落していたらしいです。
   そして、二女汐凪は未だに発見してあげられていません。