*橘柳子さん
浪江町は原発の無い町、しかし、原発が隣接する町です。私は敗戦で引き上げて以来、浪江町に住んでいました。現在は本宮市の仮設住宅に入居中です。それまで9カ所の避難所を転々としました。あの原発事故の時の、被災者の多くは、百人いれば百人の、千人いれば千人の、苦しみと、悲しみの物語があります・・・語りたくとも語れない、泣きたくとも涙が出ない、辛い思いを、みんな、抱えています。
津波で多くの人が亡くなったところは、原発から直線で7キロの距離です。でも、原発事故後の対応のために、外を捜索も出来ずに、消防団をはじめ、救助の人たちは諦めねばならなかったのです。3月11日は「津波による高台への避難指示」、3月12日は、「避難してください」のみの町内放送でした。「なぜ?」が、無かったのです。したがって、ほとんどの町民は2・3日したら帰れるだろう、と思って、着のみ着のまま、避難しました。そこから、そのまま長い避難生活になるとは、どれほどの人が考えたでしょうか・・・
もっとも・・・町長へも・・・国からも東電からも避難指示の連絡は無かった、とのことです。町長は、「テレビに映ったのを見て初めて知りました」ということでした。なぜ、浪江にだけ、連絡が無かったのでしょう? どこからも連絡が無かったのでしょうか? 原発事故を知らせたくなかったのでしょうか? 疑問です。
そのため、避難も、また悲劇的です。115号線という道路を避難したのですが、そこは放射線の最も高い所ばかりでした。最初の避難場所には3日間いました。16日に避難場所の変更、携帯電話は一切通じませんでしたから、誰とも連絡がとりようもなく、町の指示で動くしかありませんでした。12日と14日の太陽の光が、チクチクと肌を刺すようだったこのが、今でも忘れられません。
12日の避難は、私にとって、戦争を連想しました。戦争終結後、中国大陸を徒歩で集結場所に向かいました。今度の事故の避難は徒歩が、車になっただけで、延々と続く車の列と、その数日間の生活は、あの苦しかった戦争そのものでした。そして、私は思いました。国家政策により、二度も棄民されてしまう恐怖です。いつの時も、国策で苦しみ、悲しむのは、罪のない弱い民衆なのです。
脱原発の運動をした人にも、しなかった人にも、原発があった地域にも無かった地域にも、福島第一原発事故の被害は、くまなく覆いました。そして、不幸と再生の中で、差別と分断を、感じる時があります。見逃すことなく、注意していくことが、今後の課題ではないでしょうか?
「福島は・・・東北は、もっと声を、出すべきだ」と言われます。でも、喪失感のみ、心を覆っているのです。声も出せないのです。健康がすぐれない中で、原因や機構の追及は困難です。しかし、未来に生きる子どもたちのことを考え、脱原発、反原発の追求が生きていくことが唯一の希望かもしれません。
先の戦争で、子どもたちが「おとうさんやお母さんは戦争に反対しなかった、と?」と、聞いたように、「お父さんお母さんは原発に反対しなかった、ど?」と言うでしょう。地震国に54基もの原発をつくった日本、そして事故により、日々、放射能に汚染され続ける国の子どもの当然の質問だと思います。
子どもたちの未来のために、人類とは共存できない核を使う原発は、いらない、との意思を示すこと、いったん、事故が起これば、放射能を出し続け、その放射能の被害と甚大さは福島原発事故で確認できたはずです。
この苦しみ悲しみを、日本に限って言えば、他の県の人々には、特に子どもたちには体験させる必要もない。膨大なカネを原発に向けるのではなく、再生可能なエネルギーの開発に向けていくべきです。なぜ、今、原発稼働をするという考えはどこから来るのでしょうか? 他のことを考えることができないほど、原発の影は長―いというのでしょうか?
でも、立ち止まって考えましょう。地震は止められないけど、原発は、人の意思で、人の力で、止められるはずです。
私たちは、ただ静かに、故郷で、過ごしたかっただけです。長―い間、いつくしんできた地域の歴史も、文化も、財産も我々を守ってきた優しい自然も、少しの豊かさでいい。子どもや自然を大事にした社会こそが望まれます。
どうぞ、全国の皆さん、脱原発、反原発に関心を持ち、お心を寄せてください。ささやかでいい、確かな一歩を踏み出すために力をお寄せください。そして、もう少しの間、寄り添ってください。危機は、あまりにも深いのです。
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橘さんの、この訴えを聞いて、アジア太平洋戦争中の空襲・原爆の惨禍の理不尽とダブりました。開戦を決定し、開始し、戦争を継続し、空前の被害をアジア諸国民&日本国民に与えながら、空襲・原爆を経なければ、なお、敗戦を認めようとしなかった昭和天皇はじめとする日本の支配層は、空襲・原爆の被害・苦しみを受けることは無かったのでした。
原子力発電を決定し、開始し、継続した者たちは、福島第一原発で放射能被害を与え続けていながら、その者たちは被害・苦しみを受けていない・・・そして、信じられないことに、まだ、原発を稼働させようとしているのです、それも海外に輸出までして・・・
海の放射能汚染は、どうなるでしょうか? 佐藤さんたち漁業者の願いはかなうのでしょうか?
大江健三郎さんのスピーチの最後は「ある日、全国の小学校・中学校・高校で、先生が生徒たちを集め『みなさん、私たちの国は昨日、原発の全廃を決定しました』と告げ、生徒たちの歓声が上がる、という日を想像します。皆さん、そういう日を実現させましょう」でした。本当に、何とか、日本でも原発全廃を決定したいですね! ドイツのように!
最後に、ドイツから反原発運動の方が1万羽の千羽鶴を持って来られ、スピーチされました。翻訳されるまで、聞き取れた単語は「ソリダリティ! ソリダリティ! 」だけでしたけど(笑)・・・それにしても、千羽鶴は万国に普遍的な祈りのシンボルになったんですね!原爆の子、サダコの物語のおかげでしょうか・・・