《東京「君が代」裁判三次訴訟第7回口頭弁論(2012/2/3)陳述要旨》1/4

 
◎ 第1 違憲審査基準について
代理人弁護士 松田和哲

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「報告集会」 《撮影:平田 泉》

 これまで、原告らは、都教委による懲戒処分が、原告らの思想・良心の自由及び信教の自由を侵害するものとして違憲であると主張してきました。今回の懲戒処分となった行為は、各自の思想・信条や信仰が、不作為という外部的行為の形を取ったものです。
 ここでは、どのような*基準により、外部的行為の制約が合憲か否かを判断するか、検討します。

 1 まず、個々の人権を制約できる根拠は、他人の人権だけです。
 日本国憲法の下では、個人に優先する「全体」の利益ないし価値というものは存在しません。すなわち、個々の人権に対抗する価値を認められるものは、他人の人権だけです。人権相互間に生じる矛盾・衝突の調整を図るためにのみ、個々の人権を制約できるのです。


 この考え方を前提にして、人権の制約が合憲かどうかを判断する基準としては、比較衡量論、すなわち、個々の事件の具体的状況を踏まえて、対立するいろいろな利益を衡量しながら、人権相互問の矛盾・衝突を調整しようとする方法があります。
 しかし、この手法は、必ずしも比較の基準が明確ではなく、人権対国家権力という争いになった場合に、比較の天秤が国家の側に傾きがちであるという問題点があります。すなわち、人権の制約は必要最小限度でなければならないという考え方に、必ずしも結びつかないのです。
 結局、人権制約の根拠が他人の人権だけであるという考え方からは、制約される権利・自由の性質や、規制の目的・態様などから、個別具体的に考えるべき、ということになります。

 2 今回、制約される原告らの人権は、いずれも精神的自由権です。
 精神的自由権は、経済的自由権に比べて、優越的な地位を有しています。なぜなら、精神的自由権が侵害されると、民主的な政治過程そのものが傷つけられることになりますし、また、裁判所は、経済的自由権の制約よりも精神的自由権の制約の方が、その憲法に適するか否かをより厳密に判断することが可能であるからです。
 このことから、精神的自由権に対する制約は、経済的自由権に対する制約よりも、より厳格な基準で審査されなければなりません。

 3 この「二重の基準」の考え方は、猿払事件、泉佐野市市民会館事件の最高裁判決によっても、明らかにされています。

 4 本件において、原告らの不作為の背景にある、強制に対する「否定的評価」は、これまで述べてきたとおり、思想及び良心の自由あるいは信教の自由により保障されています。
 このような、個人の人格の核心を保障する精神的自由に対する制約は、厳格な基準によって判断されなければなりません。その具体的な基準は、以下の3つの点に着目して行われるべきです。

 第1に、制限の目的が、精神的自由を制約するだけの正当性を有するか否か。すなわち、他人の生命・健康への侵害の防止他人の人間として尊厳を傷つける行為の防止他人の人権と衝突する場合の相互調整、という3つの目的のいずれかであることが示されなければなりません。
 第2に、精神的自由の規制立法における具体的な制限の程度・手段が、目的達成のために必要最小限度のものでなければなりません。
 第3に、制限の目的と、制限の手段との関連性があることが必要です。すなわち、当該規制手段が、目的を達成するための唯一の手段であり、他に手段がないことが必要です。

 5(a))まず、目的審査の基準について検討すると、被告は、本件強制の目的を、「入学式・卒業式等を学習指導要領に基づき適正に実施する」ことで「子どもの学習権を保障する」ことにある、としています。
 しかし、本当に子どもの学習権を保障するのであれば、「こどもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育」を受けることのないよう配慮することこそが必要です。教師が「国旗・国歌」についての一方的、一面的な教育によって生徒らに国旗国歌を尊重する態度を取るよう指導することは、かえって子どもの学習権を侵害するものになります。
 よって、被告の主張する目的を前提としても、当該目的に正当性は認められません。
 もっとも、そもそも都教委による本件通達発出の真の狙いが、「被告の意に反する歴史観・教育観を有する教職員の焙り出し及び排除」等にあることは、原告らが既に指摘したとおりです。このような制約目的であるとすれば、前に述べた3つの目的のどれにもあたりません。
 また、仮に本件通達発出の目的を、同種事案に関する最高裁判決が述べているような、「教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ること」自体にあるとしても、前に述べた3つの目的の*どれにもあたりません。
 以上より、本件通達発出の目的は、原告らの思想・良心の自由や信教の自由に対する制約目的として正当なものと言うことはできません。

 (b))次に、手段審査の基準について検討します。
 本件通達の手段は、全ての原告らに卒業式等への出席を義務付け、しかも出席した原告ら全員に必ず国歌斉唱時の起立及びピアノ伴奏を義務付けた上で、義務違反者に対しては一律に懲戒処分を課すというものです。
 また、原告らに対する懲戒処分を回避するための代替手段は、例えば、音楽専科の教諭であればCD等を利用する等の手段が容易に考えられますし、生徒の動揺を抑えるには、事前に内心の自由に関する説明をしておくことが考えられます。
 よって、本件通達による制約手段は、目的達成のために必要最小限度だとは到底言えません

 (c))最後に、目的と手段との関連性の基準についてを、規制の必要性と、不可欠性の点から検討します。
 ①ここで、規制手段が必要であると認められるためには、規制手段が目的達成のために有益であることが必要で、規制手段が目的達成のために無関係であったり、有害であったりしてはなりません。
 本件通達によって、教職員が、起立・斉唱という特定の行動を強制されているのを見た生徒たちは、「いかなる内容のものであっても、教育委員会や校長の命令に服従しなければ懲罰を受ける。」という事実を学ぶことになります。しかし、これは、「国旗・国歌に対する個々人の多様な考え方や価値観を、互いに尊重し合うことの必要性やその方法を、学習すること」という目的とは、全く関係しません。それどころか、生徒らが、「国旗・国歌に対する考え方や価値観は、本件通達に親和するものが正しく、そうでないものは誤っている。」というように誤解する危険すらあり、このような誤解は、目的達成のために、却って有害です。
 よって、本件通達による規制は、目的達成のための必要性が認められません
 ②次に、規制手段が不可欠であると認められるためには、目的を達成するための唯一の手段といえることが必要です。
 被告の主張する「生徒らの国旗国歌を尊重する態度を育てること」という目的は、各教科の学習や、生徒同士の交流、生徒と教職員らとの交流といった、日々行い得ることで達成できることです。
 よって、本件通達による規制は、目的達成のために不可欠でもないのです。

 (d))以上より、本件の原告らに対する起立の強制は、原告らの思想・良心の自由及び信教の自由に対する違憲・違法な制約になることは明らかです。
 
 
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