毎日新聞転載記事
東日本大震災:校長「怠慢」と初の謝罪…大川小で説明会
2012年1月22日 21時20分 更新:1月23日 1時11分
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石巻市立大川小学校の津波被災までの経緯を説明するため、遺族と向かい合う市教委関係者ら(奥)=宮城県石巻市の市立飯野川第一小学校で2012年1月22日午後2時41分、丸山博撮影
東日本大震災の津波で児童74人、教職員10人が死亡・行方不明となっている宮城県石巻市立大川小学校の保護者に対し、石巻市教育委員会は22日、約7カ月半ぶりに説明会を開いた。同小の柏葉照幸校長は「職務上の怠慢があったと言われても仕方がない。本当に申し訳ない」と謝罪した。大川小の被災を巡って市教委が明確な謝罪をしたのは初めて。教諭の中で唯一生き残った男性(休職中)が昨年6月、保護者と柏葉校長あてに書いた手紙の全文も初めて公表され、避難時のやりとりの一部が明らかになった。【竹田直人、石川忠雄】
説明会は4月、6月に続き3回目で、大川小の間借り先である石巻市内の飯野川第一小学校で開かれた。
柏葉校長は大川小が作成していた「危機管理マニュアル」を説明。津波被害が予想される地震などの災害時の避難先について「高台や空き地」などと記載していたが、具体的な場所や地名を示していなかったことを明らかにした。「教員らもどこへ逃げるべきか分からず、判断の遅れが出たのかもしれない」などと述べた。
市教委は児童らからの聞き取り調査を基に新たにまとめた報告書も公表。当時の避難について「避難場所を定めていなかったことにより、高台避難が迅速に判断できなかった」と記載した。
また大川小では▽年1回の地震を想定した避難訓練も、児童が校庭に避難した時点で終了していた▽緊急時に迎えに来た保護者らに児童を引き渡す訓練も計画されていたが、実施されたことはなかった--ことも明らかにされた。境直彦教育長は「教育委員会として学校が定めた防災計画や避難訓練の取り組みの効果的な実施を指導するなど、津波に対する危機意識を高めておくべきだった。天災と人災の両方の面があったと思う」と述べた。
会は午後2時から始まり、約3時間半に及んだ。同小4年と5年だった2人の子を失った高橋春夫さん(52)は「言い訳だけで、無責任。子供たちの命を守るという教育現場の危機感のなさにがっかりした」と怒りの声を強くした。3年と4年の男児を亡くした父親(52)は「これでは学校の怠慢のために子どもたちが殺されたようなもの。まさしく人災だ」と憤った。
◇石巻市立大川小学校の被災経緯◇
石巻市教育委員会の調査などによると、東日本大震災が起きた昨年3月11日、大川小の児童や教員が避難を始めたのは、大地震発生から約45分後の午後3時半ごろ。小学校から一番近い高台だった裏山は「地震による倒木の恐れがある」との意見が出たため、約200メートル西の新北上大橋たもとの交差点を目指したが、裏山沿いの道を歩いていた時に津波にのまれた。
東日本大震災:生存教諭の手紙を公表…大川小の説明会
東日本大震災の津波で児童74人、教職員10人が死亡・行方不明となっている宮城県石巻市立大川小学校の保護者に対し、石巻市教育委員会は22日、約7カ月半ぶりに説明会を開いた。同小の柏葉照幸校長は「職務上の怠慢があったと言われても仕方がない。本当に申し訳ない」と謝罪した。大川小の被災を巡って市教委が明確な謝罪をしたのは初めて。教諭の中で唯一生き残った男性(休職中)が昨年6月、保護者と柏葉校長あてに書いた手紙の全文も初めて公表され、避難時のやりとりの一部が明らかになった。【竹田直人、石川忠雄】
◇「山に行きましょうと強く言っていれば」…教諭の手紙(要旨)
教諭の中で唯一生き残った男性が保護者と柏葉校長あてに書いた手紙(いずれも昨年6月3日付)は、説明会の前半に朗読された。石巻市教委は昨年6月の第2回説明会で、この手紙について「個人名が明記されている」などの理由で詳細部分は明らかにしていなかった。
この男性教諭は大川小の裏山に避難して津波を逃れたが、その後体調を崩して休職中。震災時は校外にいた柏葉校長あての手紙で「(現場にいて犠牲になった教頭に)最後に山に行きましょうと強く言っていればと思うと、悔やまれて胸が張り裂けそうです」などとつづっている。
各手紙の要旨は次の通り。
◇保護者の皆様
あの日、校庭に避難してから津波が来るまで、どんな話し合いがあったか、正直私にはよく分からないのです。その中で断片的に思い出せることをお話しします。
子供たちが校庭に避難した後、私は校舎内に戻り、全ての場所を確認しました。全部回るにはかなり時間がかかりました。
校庭に戻り「どうしますか。山へ逃げますか」と(教頭らに)聞くと、この揺れの中ではだめだというような答えが返ってきました。余震が続いていて木が倒れてくるというような理由だったと思います。
そのやりとりをしている時、近所の方々が避難所になっている体育館へ入ろうとされていたので、危険だから入らないようにお話ししました。
近くの施設に避難しようとの話があり、危険だからだめだとのやりとりも聞こえてきました。
私は2次避難に備え、はだしで逃げてきた子や薄着のため寒さで震えた子がたくさんいたので、教室にあったジャンパーや靴などを校庭に運んでいました。トイレを我慢できなくなった子を連れて行ったりもしていました。
サイレンが鳴り、津波が来るという声が聞こえてきました。教頭に「津波が来ますよ。どうしますか。危なくても逃げますか」と聞きました。でも答えは返ってきませんでした。一番高い校舎の2階に安全に入れるか見てくるということで、私が見てきました。戻ってくると、子供たちは移動を始めていました。近くにいた方に聞くと、「堤防の上が安全だからそこへ行くことになった」ということでした。経緯は分かりません。
何を言っても、子供の命を守ることができなかった罪が許されるはずはありません。今はただ、亡くなられた子供たちや先生方のご冥福をお祈りする毎日です。本当に申し訳ございません。
◇柏葉校長先生へ
当時の状況を送信させていただきました。本当に申し訳ございません。当時の状況を思い出して恐ろしく、思い出そうとすると全身の血の気が引いて倒れそうになります。今、文章を打っていても手が震えます。
あくまで想像ですが、あの極限状態の中で、本当に教頭先生も迷われたのだと思います。ずっと強い揺れが続いており、木が倒れている(錯覚だったのかもしれませんが、皆そのように見えていたと思います。私も子供と山の中にいたとき、何度も揺れるたびに周囲の木が折れて倒れる音を聞いています。そのたびに場所を変えたのですから)状況の中、道もない山に登らせるのをためらわれたのだと思います。せめて1本でも道があれば、教頭先生も迷わず指示を出されたと思います。それだけに、最後に山に行きましょうと強く言っていればと思うと、悔やまれて胸が張り裂けそうです。
毎日新聞 2012年1月22日 23時51分(最終更新 1月23日 1時45分)