《11・25東京「君が代」1次訴訟の最高裁要請行動から》
最高裁判所第一小法廷裁判官 殿
◎ 少数者の信仰や信念を守ることこそ教師の仕事
1 生徒の人権を守ることは教師の仕事です。
二つの経験をまずお話しします。一つは通達以前のことです。生徒会選挙の体育館での立会演説会の時、教室見回りをした際、教室に生徒が一人いました。私は大声で体育館に行くように注意しました。その時生徒は「私は宗教的理由から人を選ぶことはしません。だから参加しません。」との応え。私は驚きましたが、なるほどそういうこともあると思い知らされました。
二つ目は、通達後の卒業式の件です。式の前日に、卒業生と両親が校長先生を訪れて、明日の卒業式には参加しないことにしたのでお伝えに来たとのことでした。理由は「宗教的理由で君が代斉唱時に生徒は起立できない。しかし、生徒が不起立だと担任の先生が処分されるかもしれない。それは避けたい」とのことでした。
一般人にとってはなにも抵抗ないことでも、宗教的理由やいろいろな信念によってできない生徒がいます。このような生徒を教育の場で無視することはできません。
教師は生徒に模範を示すのが職務だという考えに多くの人が同意するかもしれません。しかし、上記のような生徒を無視して模範を示せばよいのでしょうか。
異質なものを排除する傾向が強い現在の社会で、少数者の信仰や信念を守ることこそ教師の仕事だと思います。立てない・歌えない生徒がいる学校で、職務だからと言って教師の信念や信仰を曲げて模範を示し、生徒に立って歌うことを強いることが本当に教育なのでしょうか。
「好き嫌いをしないで食べることが良いことだから、教師は模範を示すべきだ」ということで、そばアレルギーの生徒がいるところで、そばを食べる模範を示せば教師の仕事は済むのでしょうか。ましてや「そばアレルギー」の教員に食べることを強制するのでしょうか。
戦前の軍隊教育でも精神教育を充実させるために将校らに模範教育が要求されました。1913年の軍隊教育令では「殊二教育者率先躬行以テ活模範ヲ示スハ最モ必要トスル所ナリ」としています。この精神教育が多様な考えを排除し、特定の考え、行為を強制し、アジア侵略に兵隊を突き進ませたのではないでしょうか。
2 教育は命令ではなく、教師・生徒・保護者の合意で進めていくものです。
10・23通達以降、都立高校の入学式、卒業式は全く画一化されました。儀式という名の下に。生徒の成長のための学校の式が、国家シンボルの刷り込みの場に転化してしまいました。
戦前から日本における国家忠誠の仕方は日の丸に深々と頭を下げ、「天皇の御代」が永遠に続くことを願う君が代を歌うことでした。
あらゆる学校の儀式は教育活動の一環であり、生徒を中心に据えて、式の性格に合わせて内容が検討されることが必要です。
卒業式は3年、あるいは4年間の生徒の成長を保護者、教師が一緒になって称え、次のステップに進むことを後押しするものです。
卒業生の言葉は一人でなく、クラスごとにしたい、卒業生の作品を舞台の中央に据えたい。校長先生から一人一人卒業証書をもらいたい。わが子の卒業の喜びの顔を見ていたいから対面式にしてほしい。卒業生の顔が見えるように教員席を作りたい。などなど、いろいろの希望が出され、これまでは式を作ってきました。
しかし、10・23通達以降はすべて通達通りに画一化されました。教育的議論は学校からは消え、命令と服従の荒涼とした学校が東京には広がってきています。
最高裁判所は、教育がどうあるべきかを真剣に検討し、判決を出されることをお願い致します。以上です。
最高裁判所第一小法廷裁判官 殿
◎ 少数者の信仰や信念を守ることこそ教師の仕事
上告人 HS
1 生徒の人権を守ることは教師の仕事です。
二つの経験をまずお話しします。一つは通達以前のことです。生徒会選挙の体育館での立会演説会の時、教室見回りをした際、教室に生徒が一人いました。私は大声で体育館に行くように注意しました。その時生徒は「私は宗教的理由から人を選ぶことはしません。だから参加しません。」との応え。私は驚きましたが、なるほどそういうこともあると思い知らされました。
二つ目は、通達後の卒業式の件です。式の前日に、卒業生と両親が校長先生を訪れて、明日の卒業式には参加しないことにしたのでお伝えに来たとのことでした。理由は「宗教的理由で君が代斉唱時に生徒は起立できない。しかし、生徒が不起立だと担任の先生が処分されるかもしれない。それは避けたい」とのことでした。
一般人にとってはなにも抵抗ないことでも、宗教的理由やいろいろな信念によってできない生徒がいます。このような生徒を教育の場で無視することはできません。
教師は生徒に模範を示すのが職務だという考えに多くの人が同意するかもしれません。しかし、上記のような生徒を無視して模範を示せばよいのでしょうか。
異質なものを排除する傾向が強い現在の社会で、少数者の信仰や信念を守ることこそ教師の仕事だと思います。立てない・歌えない生徒がいる学校で、職務だからと言って教師の信念や信仰を曲げて模範を示し、生徒に立って歌うことを強いることが本当に教育なのでしょうか。
「好き嫌いをしないで食べることが良いことだから、教師は模範を示すべきだ」ということで、そばアレルギーの生徒がいるところで、そばを食べる模範を示せば教師の仕事は済むのでしょうか。ましてや「そばアレルギー」の教員に食べることを強制するのでしょうか。
戦前の軍隊教育でも精神教育を充実させるために将校らに模範教育が要求されました。1913年の軍隊教育令では「殊二教育者率先躬行以テ活模範ヲ示スハ最モ必要トスル所ナリ」としています。この精神教育が多様な考えを排除し、特定の考え、行為を強制し、アジア侵略に兵隊を突き進ませたのではないでしょうか。
2 教育は命令ではなく、教師・生徒・保護者の合意で進めていくものです。
10・23通達以降、都立高校の入学式、卒業式は全く画一化されました。儀式という名の下に。生徒の成長のための学校の式が、国家シンボルの刷り込みの場に転化してしまいました。
戦前から日本における国家忠誠の仕方は日の丸に深々と頭を下げ、「天皇の御代」が永遠に続くことを願う君が代を歌うことでした。
あらゆる学校の儀式は教育活動の一環であり、生徒を中心に据えて、式の性格に合わせて内容が検討されることが必要です。
卒業式は3年、あるいは4年間の生徒の成長を保護者、教師が一緒になって称え、次のステップに進むことを後押しするものです。
卒業生の言葉は一人でなく、クラスごとにしたい、卒業生の作品を舞台の中央に据えたい。校長先生から一人一人卒業証書をもらいたい。わが子の卒業の喜びの顔を見ていたいから対面式にしてほしい。卒業生の顔が見えるように教員席を作りたい。などなど、いろいろの希望が出され、これまでは式を作ってきました。
しかし、10・23通達以降はすべて通達通りに画一化されました。教育的議論は学校からは消え、命令と服従の荒涼とした学校が東京には広がってきています。
最高裁判所は、教育がどうあるべきかを真剣に検討し、判決を出されることをお願い致します。以上です。
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫
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