『Peace Philosophy Centre』
 ▼ 藤岡惇「米国はなぜ2発の原爆を投下したのか」(Ⅴ)
 Atsushi Fujioka: Why the US Dropped Two Abomic Bombs

 ■ 原爆投下後に、なぜ米国は天皇制温存の約束を発したのか

 2種類の原爆を爆発させ、多種多彩な庶民を対象とした人体実験22)をなし終えた直後に、日本の降伏を「遅らせる」から「早める」方向へと、米国の対日戦略が劇的に転換します。「天皇制の維持」保証をアメとして、ソ連参戦=「日本赤化」の恐怖をムチとして使い、日本を降伏に追い込んでいく「アメとムチの組み合わせ」作戦が浮上するわけです。
 米国による原爆投下の動きを察知していたソ連は、ポツダム会談時に約束していた対日開戦予定日(8月15日)をさらに6日繰り上げ、8月9日午前0時(日本時間)を期して日本にたいして宣戦布告を行い、中国東北部への侵攻を開始しました。長崎への原爆投下の11時間前のことでした。
 原爆の人体実験をなし終え、その威力をソ連支配層に誇示した後の米国の支配層にとってみると、ソ連軍が中国東北部から朝鮮半島を占領する前に、日本を降伏させることが緊急課題となりました。放置しておいては、日本を降伏に追い込んだ最大の功労者はソ連であるという評価をうみだし、戦後の東アジアの統治にあたって、ソ連の発言力を高めることになります。そのため「天皇制の存続保証」というアメのカードを切ったわけです。


 日本の天皇制政府にしてみても、原爆による攻撃をうけた衝撃よりも、ソ連侵攻の衝撃のほうが、はるかに強烈であったようです。ソ連軍に本土を占領される事態となれば、天皇制は打倒され、日本は「赤化」してしまうという恐怖感が身を貫いたのだろうと思います。降伏が避けられないとなったばあい、ソ連軍ではなく、米国軍に降伏する方がましだというのが天皇制政府の考え方でした。23)
 ソ連参戦という事態をうけて、日本政府は8月10日、「天皇の国家統治の大権を変更するとの要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾するという方針を通告します。それにたいして米国政府は、ジェームズ・バーンズ国務長官の指示のもと「日本国政府の最終的形態は、『ポツダム宣言』に従い、日本国民の自由に表明された意志によって決定される」という回答を8月11日付けで送ります。24)この回答は、ポツダム宣言の条文解説という形をとりながら、「もし日本国民の多数が望むならば、連合国は天皇制の存続を容認する」と「深読み」できるように巧妙につくられていました。

 ■ バーンズ回答の限界を補う裏ルート

 ただしポツダム宣言の文言に拘束されていますから、バーンズ国務長官の回答には、「天皇制の存続を確実に保障する言質までは与えられない」という限界がありました。この限界を乗り越えるためにバーンズらが編み出したのは、「本音」をマスコミにリークし、報道させるという便法だったようです。2発の原爆を投下した直後の8月11日付けの『ニューヨーク・タイムズ』は、一面トップに「日本が降伏を申し出た。米国は天皇を存続させるだろう」と報じ、翌8月12日付けの同紙は、もっと確定的に「連合国は占領軍司令長官の意向によって、ヒロヒトを存続させる」ことを決定したと報道しました。12日付けの段階では、事実上ポツダム宣言12項末尾のスティムソン原案の線に立ち戻り、「天皇制は確実に残すから、安心して降伏せよ」と呼びかけるに至ったわけです。小田実さんは、こう述べています。「翌12日付けの『ニューヨーク・タイムズ』には、もっと驚くべきことに、前日のmay(であろう)がなくなって、ヒロヒトを残すことを決めたと書いてある。・・・これは(中立国の)スイスを通じて、天皇の耳、日本政府の耳に入っていたはずです」と。25)
 対日プロパガンダ放送を担当した海軍情報局のエリス・ザカリアスや、中立国スイスの日本大使館にたいする情報工作を担当したアレン・ダレスもまた、独自のルートを使って「天皇制の存続」を保障する秘密メッセージを日本の支配層に送っていました。26)
 8月14日午前に畑 俊六ら3人の元帥を引見した際、「皇室の安泰は敵側からの確約があり、それについては心配ない」と昭和天皇が述べたとされていますが、その背景には上のような事実があったのです。27)

 このような「高等戦術」を編み出した中心人物は、人種差別主義の牙城たる米国南部サウスカロライナ州を地盤とするジェームズ・F・バーンズ国務長官でした。28)なおバーンズは、戦後は郷里に戻り、サウスカロライナ州知事に再選され、モルガン系のデュポン社と組んで、水爆燃料を製造する巨大なサバンナリバー・プラントを同州に誘致するうえで大きな役割を担うのですが、それは後の話となります。29)
 いずれにせよ、日本を降伏させ、大量殺戮を早期に終わらせるうえで原爆投下は重要な役割りを果たさなかったのです。これまで原爆投下を正当化してきた論拠は薄弱だというほかありません。
 付け加えますと、日本を降伏に追い込んだ残る2つの要因――ソ連の参戦と米国による天皇制の維持保証のうち、どちらの要因のほうが重要な役割を果たしたのかという「功名争い」をする向きがありますが、このような問題のたて方自体が間違っていると考えます。ソ連による軍事的攻撃の「ムチ」の恐怖が強ければ強いほどに、米国の提供する「アメ」の魅力が増してくるわけです。米国の権力者の視点からすると両者は「アメとムチ」の関係として一体であり、競争関係ではなく相互補完の関係にあったと考えるべきでしょう。

 ■ 有色人種への偏見があったのか

 1944年9月18日、ロンドンに立ち寄った米国のロースベルト大統領は、英国のチャーチル首相と会談し、開発中の原爆の投下先について協議し、次のような合意(ハイドパーク合意)に達していました。「爆弾が最終的に使用可能となった際には、慎重な考慮のうえで、日本人にたいしておそらく使用されるであろう。降伏するまで何回も投下を繰り返すから覚悟せよと日本人には警告しておくべきだ」と。
 ヒットラーの率いるドイツが降伏するのは1945年5月8日ですから、1944年9月といえば、ドイツ軍も日本軍も米国にたいして抗戦中の時期です。なぜこの段階でドイツ人への原爆使用をいち早く断念し、原爆の投下先を日本人に絞ったのでしょうか。すでにドイツ軍の敗色が濃厚であり、原爆完成時にはドイツは降伏している可能性が高いと判断されたからだというのが通説的見解ですが、この見解は正しいのでしょうか。大戦中に米国政府はドイツ系移民には何の隔離措置もとらなかったのですが、日系人にだけは、人里はなれた収容所に強制移動させられ、隔離収容された事実があります。このことが示すように、有色人種である日系移民は、「イエロー・モンキー」(黄色猿)と見なされ、「野獣に対処するには、相手を野獣として扱うほかない」(トルーマン)30)という措置がとられたのではないか、このような有色人差別の考えが横たわっていたのではないかという疑問が出てきます。31)
 「当初から原爆投下の対象は日本であった」と原爆製造計画の責任者のグローブズ将軍が述べているなど、ハイドパーク協定以前に日本への原爆投下は事実上確定していた可能性があると木村さんは主張されていますが、32)確かな結論を出すにはなお証拠不足です。日本への原爆の無警告投下を推進したジェームズ・バーンズが、黒人差別制度の牙城であった深南部のサウスカロライナ州政界の大立者であっただけに、この行動には人種差別的な志向性が働いていた可能性がありますが、これらの解明は、今後の課題としたいと思います。

 ■ ローズベルトが生きていたら悲劇は避けられたか

 ご承知のとおり、ローズベルト大統領は1945年4月12日に突然死亡し、副大統領であったハリー・トルーマンが大統領職を襲います。北東部出身のインテリでリベラルなローズベルトにたいして、トルーマンは辺境南部のミズーリ州の田舎町の出身で、教養レベルが低い「小物」であり、保守的で人種主義的な傾向の強い人物でした。もしローズベルトが生き続けていたならば、広島・長崎のあのような悲劇は避けられたのでしょうか。この問いに自信をもって答えるのは、誰にとっても難しいのですが、ピーターはこのように答えています。リベラルなローズベルトにしても、おそらく原爆の使用を阻止することは難しかっただろうが、原爆使用のありかたが変わった可能性はある。なぜなら「ローズベルトはまず警告、そして威嚇使用をしたうえでの原爆投下を考えていて、その場合も厳密に軍事施設を対象とするつもりであり、民間人に対して落とすことについては反対」したであろうと。33)ローズベルトが職に留まっていたら、原爆使用の人体実験的性格は薄まった可能性があると私も考えますが、最終的評価はこんごの研究課題としたいと思います。