『Peace Philosophy Centre』
▼ 藤岡惇「米国はなぜ2発の原爆を投下したのか」(Ⅳ)
Atsushi Fujioka: Why the US Dropped Two Abomic Bombs
■ 2発の原爆――なぜトルーマンは庶民密集地を標的としたのか
広島では、日本軍の中枢――西部方面軍司令部のあった広島城内ではなく、1キロ余り南西の住宅密集地区の相生橋を標的としていました。通勤時間帯の8時15分に、しかも空襲警報が解除され、市民が日常生活をはじめた時に、原爆がさく裂しました(実際には、すこしばかり目標をそれ、相生橋の南東300メートルの島外科病院の上空600メートルで原爆がさく裂したのですが)。
従来の兵器とは異なる原爆のような兵器を初めて使用するばあい、使用後は、威力や破壊力のデータを集め、投下方法や爆撃機の脱出策も含めて、作戦全体の再検討を行い、その教訓をふまえたうえで、第2発目以降の投下のありかたを決めるのが普通です。しかし原爆投下のばあい、そのような手続きがとられず、広島に投下して3日後の9日には、別タイプの原爆第2号が長崎に投下されるのです。ソ連の対日開戦予定日を目前にひかえ、2発の原爆投下をやり終えようとして、米国の支配層がいかにあせっていたのかが、よく分かる事実です。15)
長崎のばあいも、投下目標は三菱兵器工場などの軍事拠点ではなく、軍事的目標のない商業地区の常盤橋が目標地に選ばれていました。ただし厚い雲にさえぎられて目標地点を視認できなかったので、じっさいには3キロ北の浦上地区に投下されたわけです。
被爆当時10歳であった歌手の美輪明宏さんはこう述べています。「11時少し過ぎでした。私は夏休みの絵の宿題を描いていました。描き上げて、机に立てかけ、出来映えを見ようと椅子から降りて、立ったとたんにピカッ!。空は真っ青だったので、『え? こんなにいい天気に雷?』と。そう思うか思わないかくらいで、次はどかーん! と地震みたいな衝撃が来た。目の前のガラスが一瞬で『ぴっ!』と飛んだんです。何が起きたかのかわからない。で、その後に、ものすごい爆音が聞こえたんです。B29が逃げていく音。敵もさるものでね。不意打ちするためにエンジン止めて来てたんですよ。だから原爆の前には警戒警報も空襲警報も鳴らなかったんです。」16)
なぜ軍事拠点を標的にせず、庶民居住地区を標的にして、無警告で、しかも防空壕に退避させないようにしたうえで、原爆を投下したのか。答えは明らかです。こんごの原子戦争に備えて、原子戦争の威力と効果についての情報を集めておくことが不可欠であったからです。とりわけ性質の異なる2発の原爆――砲身型と爆縮型、あるいはウラニウム型とプルトニウム型の破壊力や軍事的有用性の違いを知る必要があった。そのため年齢・性別の点で多彩・多様な実験材料をできるだけ多数、投下地点周辺に集めておくことが必要だったからだと思われます。
■ 空襲警報が解除されていたのはなぜか
空襲警戒警報が解除され、住民が日常生活に戻ろうとして防空壕から出てきた直後に、原爆が投下され、被害者を増やしたという点で、広島・長崎は共通しています。どうしてこのような結果となったのでしょうか。
長崎の場合、不意打ちするためにエンジンを止めて原爆投下機が飛来し、投下した後に爆風を避けるためにエンジンを全開して飛び去ったという感想を、被爆者の美輪明宏さんは語っています。最初に飛来した偵察機が飛び去ったので、空襲警報を解除したが、その後に、本命の原爆搭載機が忍び寄ってきていたのでしょう。
広島のばあい、つぎのような証言があります。
「広島に原爆を投下したエノラ・ゲイは・・・瀬戸内海に出て、広島上空に達した後いったん広島を通過、しばらくして反転して、原爆を投下した、というのだ。広島上空に接近した際にいったん空襲警報が発せられ、みんな防空壕に入ったのだが、何も投下せずに通過したので空襲警報が解除され、みんな外に出て来た。ところがエノラ・ゲイは旋回して舞い戻り、ピカドンと原爆を落としたというのだ。…エノラ・ゲイの航路については、なお諸説がある。だが被爆の瞬間には多数の人が外に出ていて、ごくわずかの人たちが防空壕に隠れていたというのは動かし難い事実のようだ。」17)
最初に偵察機が広島上空に飛来したが、飛び去ったために空襲警報を解除したところ、その後にエノラ・ゲイ機がやってきたというのが通説ですが、真偽のほどを究明してほしいものです。
■ 原爆の威力――被爆者は6回も殺された
原爆の威力は、広島のばあいは1万5千トン、長崎のばあいは2万2千トンのダイナマイトを一挙に爆発させたのと同等のものでした。原爆のさく裂の際に放出された大量のガンマ線と中性子線などの初期放射線によって爆心地に近い住民の身体の分子構造に深刻な異変が生じました。自ら被爆者である物理学者の沢田昭二さんは、こう書いています。
「ガンマ線の大部分は爆弾周辺の大気によって吸収され、超高温・超高圧の火球をつくった。・・・爆発の100分の1秒後には、・・・高圧の大気が火球から離れて衝撃波=空振として、(毎秒340メートルの音速で、ドンという猛烈な音をもたらしながら)広がっていった。火球の表面温度が太陽の表面温度と同程度の数千度になると、可視光線と熱線を放出し始め、地上の人々を焼き殺し、火傷を負わせ、建物に火をつけ火災を引き起こした。・・・衝撃波は、大気との圧力差で爆風を発生させ、(秒速250メートル以上に達した)爆風が人びとを吹き飛ばし、殺傷し、建造物を破壊した。・・・衝撃波によって分解された建造物は爆風で倒壊して人びとを閉じ込め、閉じ込められた人々は火災によって焼け殺された」と(括弧内は、沢田昭二さんの教示により補足した)。
それだけではありません。放射性降下物や誘導放射化物質の残留放射線による外部被曝にさらされただけでなく、これらの放射性物質を呼吸と飲食を通じて体内摂取することにより、被爆者(その後の入市被曝者も含む)の身体は、長期にわたり内部被曝にさらされることになりました。18)
被爆地の民は、初期放射線の照射・熱線・衝撃波(空振)・爆風・火災・残留放射線による被曝と、つごう6回も殺されたわけです。なんという残虐な殺され方だったのでしょうか。
生者のほうも、「幸運」ではありませんでした。「原爆で殺された者をさえ、うらやまざるをえない」ような状態で放置され、希望を奪われた被爆者の間では自殺者が続出します。19)
このような惨禍をもたらした原爆投下の目的とは何だったのか。
①ソ連を威圧することで戦後の世界秩序づくりを米国の有利な形で進めること、
②ウラニウム型かプルトニウム型か、あるいは砲身型か爆縮型か、いずれが軍事的に有用であるかを知るためには、年齢・性別などの点で多様性に富む住民を対象とした人体実験が不可欠であったことーーこの二つが重要だったといわれます。20)
占領後に米軍は、「原爆被害者調査委員会」(ABCC)を設立し、原爆の軍事的有用性について徹底的な調査を行います。ABCC(現在は放射線影響研究所)は被爆者の健康調査をするだけで、治療をしない機関として悪評にさらされますが、機関の使命からしてそれは当然のことでした。原爆使用直後に敵の戦闘能力がどれほど破壊されるかが、軍事的有用性を評価するポイントとなるからです。放射線の影響にかんしていえば、初期放射線による外部被曝の破壊力に関心が集中し、残留放射線被曝による身体への長期的影響などは関心の外だったわけです。21)
それはともかく、広島型原爆と長崎型原爆の有用性と製造容易性を調査した結果、長崎に投下されたタイプ(プルトニウムを材料とした爆縮型原爆)のほうが優れていることが判明します。戦後冷戦期に製造される核兵器(原爆)のほとんどは、プルトニウムを材料とした爆縮型となりますが、2発の原爆投下は、そのきっかけを作ったといえるでしょう。
(続)
『Peace Philosophy Centre』(Tuesday, July 26, 2011)
http://peacephilosophy.blogspot.com/2011/07/atsushi-fujioka-why-us-dropped-two.html
▼ 藤岡惇「米国はなぜ2発の原爆を投下したのか」(Ⅳ)
Atsushi Fujioka: Why the US Dropped Two Abomic Bombs
■ 2発の原爆――なぜトルーマンは庶民密集地を標的としたのか
広島では、日本軍の中枢――西部方面軍司令部のあった広島城内ではなく、1キロ余り南西の住宅密集地区の相生橋を標的としていました。通勤時間帯の8時15分に、しかも空襲警報が解除され、市民が日常生活をはじめた時に、原爆がさく裂しました(実際には、すこしばかり目標をそれ、相生橋の南東300メートルの島外科病院の上空600メートルで原爆がさく裂したのですが)。
従来の兵器とは異なる原爆のような兵器を初めて使用するばあい、使用後は、威力や破壊力のデータを集め、投下方法や爆撃機の脱出策も含めて、作戦全体の再検討を行い、その教訓をふまえたうえで、第2発目以降の投下のありかたを決めるのが普通です。しかし原爆投下のばあい、そのような手続きがとられず、広島に投下して3日後の9日には、別タイプの原爆第2号が長崎に投下されるのです。ソ連の対日開戦予定日を目前にひかえ、2発の原爆投下をやり終えようとして、米国の支配層がいかにあせっていたのかが、よく分かる事実です。15)
長崎のばあいも、投下目標は三菱兵器工場などの軍事拠点ではなく、軍事的目標のない商業地区の常盤橋が目標地に選ばれていました。ただし厚い雲にさえぎられて目標地点を視認できなかったので、じっさいには3キロ北の浦上地区に投下されたわけです。
被爆当時10歳であった歌手の美輪明宏さんはこう述べています。「11時少し過ぎでした。私は夏休みの絵の宿題を描いていました。描き上げて、机に立てかけ、出来映えを見ようと椅子から降りて、立ったとたんにピカッ!。空は真っ青だったので、『え? こんなにいい天気に雷?』と。そう思うか思わないかくらいで、次はどかーん! と地震みたいな衝撃が来た。目の前のガラスが一瞬で『ぴっ!』と飛んだんです。何が起きたかのかわからない。で、その後に、ものすごい爆音が聞こえたんです。B29が逃げていく音。敵もさるものでね。不意打ちするためにエンジン止めて来てたんですよ。だから原爆の前には警戒警報も空襲警報も鳴らなかったんです。」16)
なぜ軍事拠点を標的にせず、庶民居住地区を標的にして、無警告で、しかも防空壕に退避させないようにしたうえで、原爆を投下したのか。答えは明らかです。こんごの原子戦争に備えて、原子戦争の威力と効果についての情報を集めておくことが不可欠であったからです。とりわけ性質の異なる2発の原爆――砲身型と爆縮型、あるいはウラニウム型とプルトニウム型の破壊力や軍事的有用性の違いを知る必要があった。そのため年齢・性別の点で多彩・多様な実験材料をできるだけ多数、投下地点周辺に集めておくことが必要だったからだと思われます。
■ 空襲警報が解除されていたのはなぜか
空襲警戒警報が解除され、住民が日常生活に戻ろうとして防空壕から出てきた直後に、原爆が投下され、被害者を増やしたという点で、広島・長崎は共通しています。どうしてこのような結果となったのでしょうか。
長崎の場合、不意打ちするためにエンジンを止めて原爆投下機が飛来し、投下した後に爆風を避けるためにエンジンを全開して飛び去ったという感想を、被爆者の美輪明宏さんは語っています。最初に飛来した偵察機が飛び去ったので、空襲警報を解除したが、その後に、本命の原爆搭載機が忍び寄ってきていたのでしょう。
広島のばあい、つぎのような証言があります。
「広島に原爆を投下したエノラ・ゲイは・・・瀬戸内海に出て、広島上空に達した後いったん広島を通過、しばらくして反転して、原爆を投下した、というのだ。広島上空に接近した際にいったん空襲警報が発せられ、みんな防空壕に入ったのだが、何も投下せずに通過したので空襲警報が解除され、みんな外に出て来た。ところがエノラ・ゲイは旋回して舞い戻り、ピカドンと原爆を落としたというのだ。…エノラ・ゲイの航路については、なお諸説がある。だが被爆の瞬間には多数の人が外に出ていて、ごくわずかの人たちが防空壕に隠れていたというのは動かし難い事実のようだ。」17)
最初に偵察機が広島上空に飛来したが、飛び去ったために空襲警報を解除したところ、その後にエノラ・ゲイ機がやってきたというのが通説ですが、真偽のほどを究明してほしいものです。
■ 原爆の威力――被爆者は6回も殺された
原爆の威力は、広島のばあいは1万5千トン、長崎のばあいは2万2千トンのダイナマイトを一挙に爆発させたのと同等のものでした。原爆のさく裂の際に放出された大量のガンマ線と中性子線などの初期放射線によって爆心地に近い住民の身体の分子構造に深刻な異変が生じました。自ら被爆者である物理学者の沢田昭二さんは、こう書いています。
「ガンマ線の大部分は爆弾周辺の大気によって吸収され、超高温・超高圧の火球をつくった。・・・爆発の100分の1秒後には、・・・高圧の大気が火球から離れて衝撃波=空振として、(毎秒340メートルの音速で、ドンという猛烈な音をもたらしながら)広がっていった。火球の表面温度が太陽の表面温度と同程度の数千度になると、可視光線と熱線を放出し始め、地上の人々を焼き殺し、火傷を負わせ、建物に火をつけ火災を引き起こした。・・・衝撃波は、大気との圧力差で爆風を発生させ、(秒速250メートル以上に達した)爆風が人びとを吹き飛ばし、殺傷し、建造物を破壊した。・・・衝撃波によって分解された建造物は爆風で倒壊して人びとを閉じ込め、閉じ込められた人々は火災によって焼け殺された」と(括弧内は、沢田昭二さんの教示により補足した)。
それだけではありません。放射性降下物や誘導放射化物質の残留放射線による外部被曝にさらされただけでなく、これらの放射性物質を呼吸と飲食を通じて体内摂取することにより、被爆者(その後の入市被曝者も含む)の身体は、長期にわたり内部被曝にさらされることになりました。18)
被爆地の民は、初期放射線の照射・熱線・衝撃波(空振)・爆風・火災・残留放射線による被曝と、つごう6回も殺されたわけです。なんという残虐な殺され方だったのでしょうか。
生者のほうも、「幸運」ではありませんでした。「原爆で殺された者をさえ、うらやまざるをえない」ような状態で放置され、希望を奪われた被爆者の間では自殺者が続出します。19)
このような惨禍をもたらした原爆投下の目的とは何だったのか。
①ソ連を威圧することで戦後の世界秩序づくりを米国の有利な形で進めること、
②ウラニウム型かプルトニウム型か、あるいは砲身型か爆縮型か、いずれが軍事的に有用であるかを知るためには、年齢・性別などの点で多様性に富む住民を対象とした人体実験が不可欠であったことーーこの二つが重要だったといわれます。20)
占領後に米軍は、「原爆被害者調査委員会」(ABCC)を設立し、原爆の軍事的有用性について徹底的な調査を行います。ABCC(現在は放射線影響研究所)は被爆者の健康調査をするだけで、治療をしない機関として悪評にさらされますが、機関の使命からしてそれは当然のことでした。原爆使用直後に敵の戦闘能力がどれほど破壊されるかが、軍事的有用性を評価するポイントとなるからです。放射線の影響にかんしていえば、初期放射線による外部被曝の破壊力に関心が集中し、残留放射線被曝による身体への長期的影響などは関心の外だったわけです。21)
それはともかく、広島型原爆と長崎型原爆の有用性と製造容易性を調査した結果、長崎に投下されたタイプ(プルトニウムを材料とした爆縮型原爆)のほうが優れていることが判明します。戦後冷戦期に製造される核兵器(原爆)のほとんどは、プルトニウムを材料とした爆縮型となりますが、2発の原爆投下は、そのきっかけを作ったといえるでしょう。
(続)
『Peace Philosophy Centre』(Tuesday, July 26, 2011)
http://peacephilosophy.blogspot.com/2011/07/atsushi-fujioka-why-us-dropped-two.html