原子力発電を考える石巻市民の会HPより

​ ​​ 2011年7月 1日
 全てを311以前にもどしてほしい

 ~ふるさと飯舘村への思い~

私の生まれ育った場所は,現在福島第一原発の事故により計画的避難区域に指定されている福島県の飯舘村。
福島第一原発からは同心円状では,村の南東部分が少し30Km圏内に入り,村のほとんどはその外側に位置している。
30Km圏内の屋内待避地域には指定されていなかったため,村の多くの住人が震災以降,高い放射線量について国からも東電からも何も知らされず,普段通りの生活を送っていた。
震災後,両親とやっと連絡が取れるようになった3月16日の朝,母は原発の事故で避難してきている大熊町の人たちのために炊き出しに出かけるところだと言っていた。
飯舘村で15日の夕方に毎時44.7マイクロシーベルトというとんでもない放射線量が測定された翌日である。
あの,放射線量がとても高かった時期,村の人たちは何も知らされることなく,避難してきた人のために働いていた人もいたのだ。
もちろん,村の中には放射能に対する危機感を持って自主避難した人たちもたくさんいた。
でも,行く当てもなく,国からの指示も出ていないため村に残っていた人も多かったのだ。
震災以来,何人かの放射能に関する専門家が村に来て講演していたという。
ある専門家は「このくらいの放射線量ならば住んでいても大丈夫。問題ない」と言い,またある専門家は,放射線量を測定する器械を片手に飯舘村の放射線量の高さを関西方面と比較したという。
村に住む人たちは,「住んでいても大丈夫」と言う言葉を信じたい。
でも,そこにいてどんどん被曝(ひばく)していく現実は恐ろしい。
自分自身の未来のためには村から離れなくてはならない。
でも,牛を飼っている,仕事もある,何がどう補償されるかもわからない不安の中どこへ行ってどうやって生活していけというのか。
この2ヶ月そんなことを延々と考え続けていた。
そして,今も先の見えない不安の中で暮らしている。


私の実家は飯舘村の中でも田舎。
山々が連なり,美しい田畑が広がる豊かな大自然に囲まれて育った。
実家には,現在,両親,弟夫婦とその娘が住んでいる。
弟家族は,飯舘村の自然の中でのびのびと子育てし,生計を立てていきたいと数年前に転職し両親と同居をはじめ,それを期に家も新築した。原発の事故が起きてからずっと,その家族はバラバラの生活を強いられている。
弟の妻と子供は原発の爆発直後は親戚を頼り,宇都宮,東京へと福島から遠ざかり,現在は福島市へ。
弟は村に残って仕事に通い,休みには妻と娘の元へ。
両親は村に残り,家を守り牛の世話を。過疎化が続く村のこれからを担う若い人たちは特に,先の見えない未来に大きな不安を抱え,村を離れたくない思いと放射能による体への影響を心配する葛藤に苛まれ,その結果家族が離ればなれに暮らす決断をしている。
私の友人・知人にもそうして生活するしかない人がたくさんいる。
子どもを守りたい若夫婦は村を離れたい。
村に長年住み続けている年配者は村を離れたくはない。
家族の思いが年代によってバラバラでケンカが絶えなかった話も聞いた。
将来を案じ自殺した方もいる。
穏やかに,のどかに生活してきた村の人たちがニュースの中で,村に謝罪にきた東電の関係者に声を荒げ訴えていた。
何も悪いことをしていないのに,どうしてこんなめに合わなければならないのだろうか?

5月の連休に1日だけ,私は飯舘村の実家に行くことができた。
避難になったら,あとはいつ行くことができるかわからず,どうしてもこの目でもう一度飯舘村を見ておきたかったからだ。飯舘村の景色は,毎年見る連休の景色と何も変わっていなかった。
散りかけの桜が、芽吹き始めた山々の緑を装い,美しい景色が広がっていた。
蛙の鳴き声がする。
青葉の匂いもする。
しかし,天気が良ければ田んぼや畑でたくさん見かける働き者の人々の姿が全くない。
目に見えない放射線に汚されてしまった村。
一躍世界的に有名になってしまった飯舘村。
放射能ではなく,本当はこんなにきれいな景色を世界中の人たちに知ってほしい・・・。
そんな思いで,カメラをかまえていた。
タラの芽も大きく成長しているが,だれも採らない。
毎年味わうニンニクの芽も青々としているが,食べることはできない。
原木栽培の椎茸も肉厚で大きく成長しているが収穫できない。


毎年連休には楽しみにしていた山菜採りはできず,外に出て深呼吸することもできず,どんなに気候が良くても窓を閉め切って家に閉じこもる現在の村での生活。
家族は,少しでも外にでるときには,長袖を着て,帽子をかぶり,マスクをしている。
普段と何も変わらない景色。目に見えない放射線・・・。
自宅の茶の間で外を眺めていると、「どうしてここにいてはいけないんだろうね・・・。何もできなくてもいいから,家を離れたくない。」と電話で何度も言っていた両親の気持ちがよくわかる。
朝は5時には起きて,牛の世話,農家の仕事をし,勤めに出て,帰ってきたらまた牛の世話,農家の仕事と休む暇もなく,土日もなく朝から晩まで40年以上働き続けてきた両親は,今,家に閉じこもって田畑が荒れていくのをただ眺めていることしかできない。
二人とも生まれ育った村をこんな形で出て行かなくてはならなくなってしまった。
一緒に暮らし始めた弟たちは家を新築しても,昔ながらの自然の恩恵を受けてきた生活を好み,相変わらず,薪を使ったお風呂に入り,冬場は薪ストーブと炭ごたつで暖をとっている。
実家では,手間暇かけた,昔ながらの暮らしを家族で貫いていた。
もちろん電気がなくては生活できないが,極力電気を使用しない生活を心がけている我が家が原発の放射能に汚染され,今までの生活を奪われることにたまらない憤りを感じる。

うちでは肉用牛も家畜としてずっと育てていた。小さい頃から牛の世話を手伝うのは当たり前のことで,水やり,えさやり,放牧の手伝いなどしながら育った。
牛を飼っているため家族旅行をしたことなどなかった。
両親は,高校から家を離れて生活する私のところに来ても一度も泊まっていったことがない。
それも,牛を飼っているから。
飯舘村が高い放射線量が出ても村民がなかなか避難しないことにあれこれ言う人もいたが,生き物を飼っているということは,容易に家を空けられないということなのだ。
原発で避難している双葉町で牛が町の中をうろうろし,牛舎でやせ細るニュースが何度も流れていた。
家畜のあんなかわいそうな姿を目にした畜産農家が簡単に避難などできるわけがない。
私は小さい頃から牛のお産も何度も目にした。
母牛は涙を流しながらお産した。
そして子牛と小屋を離され,お互いに呼び合って幾晩も泣く夜があった。
たくさんかわいがって育てた牛が学校から帰ってくると競りに出されいなくなり,悲しくて泣いたこともあった。
私の結婚式の朝,美容室で着付けをしてもらいながら母は「今朝子牛が産まれた!とてもいい日だ!」と言って喜んでいたのが忘れられない。
大人になって,実家に帰省しても牛がいるのは当たり前だった。
娘が姪達と喜んで牛に餌をやっていた。
牛を全く怖がることなく「もーもーさん。もーもーさん。」と近づいていき,牛の角にぶつかって泣いたこともあった。
家畜農家にとって牛は毎日毎日世話をして大事に育てる家族のようなものなのだ。
その牛たちも村の計画避難のために今月中には一頭残らず家からいなくなる。

家族七人で田植えをし,稲刈りをした家の前に広がる田んぼ。
今は亡きじいちゃんが山から切り出した木で炭焼きしてた炭焼き小屋。
竹の竿で鯉を釣った裏の池。
今は亡きばあちゃんがくの字に曲がった腰でどんなに暑い日にも草むしりして手入れしてた畑。
秘密基地を作って弟妹で遊んだキノコがたくさん採れる氏神様がいる裏山。
遠くに太平洋が見え,春には満開の桜で彩られる峠。
月明かりしかない降ってきそうな満点の星空。
父の弟妹,私の弟妹親戚達が一同に集まって賑やかに楽しく過ごしたお盆やお正月。
全てを,今まで当たり前に帰省すれば味わうことのできた全てを,思い出の地を元に戻して返してほしい。
どうか,全てを3月11日以前に戻してほしい。
誰に訴えればいいのだろうか。
この悔しさを。
この悲しみを。
実家という思い出の地である私の思いに比べたら,現在生活している家族の,村人の苦しみや怒りはいかばかりか。
村に住む人が「出口の見えない真っ暗なトンネルの中を無理矢理先に進まされている」と表現していた。
まさに,村の人たちはそうした状況におかれ,今まで築きあげてきたものを全て奪われた。
過去も未来も現在の生活も。
そして,高い放射能の中に過ごしていたことにより,いつ自分自身に,子孫に出るかわからない健康被害におびえている。
『放射能』という目に見えぬ悪魔のせいで。
今は一日も早く原発が収束することを祈っている。
飯舘村や福島原発周辺に住んでいる人たちのような苦しみはもうたくさんだ。


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東日本大震災と原発