『早稲田大学・水島朝穂のホームページ』(今週の直言:2011年6月6日)
 ◆ 「君が代起立条例」と最高裁判決

 ほぼ同じ日に発行された2つの文書がある。
 1つは『日の丸と君が代――その由来と意義』(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1934年2月10日)。新聞社が「紀元節」にあたり、「日本精神の高揚」のため、日の丸と君が代について改めてその意義を説いたものである。「国旗は死をもって守らる」という項では、日の丸を守るため命を投げ出した兵士の「美談」が紹介され、国民に対しては「国旗掲揚奨励」がなされている。君が代も同様で、例えば「歌ひ方について」という節では、「さざれ石の」の「さざれ」で一息ついてはならず、「一気に歌はるべし」とある。「巌(いはほ)となりて」は決して「いはほど」や「いはほと」と歌ってはならないと注意も細かい。
 これと同時に発行されたのが、『思想戦』(陸軍省軍事調査部、同2月11日)である。国民の思想統制の基本が示され、生活のなかで「皇道文化聖戦」すなわち「皇化」をはかるべく「国民の用意」が説かれる。国旗と国歌も「皇化」の重要な手段だった。

 このような日の丸・君が代の「過去」に鑑み、これを国旗や国歌として受け入れることができないという人は決して少なくない。1999年に「国旗・国歌法」の制定過程でも対立があり、当時の政府は、「義務づけなどを行うことは考えていない」と答弁している(小渕恵三首相)。これは重要である。国旗・国歌法の条文は、「国旗は、日章旗とする」(1条)と「国歌は、君が代とする」(2条)という2箇条しかない。別記に日章旗の制式と君が代の歌詞・楽曲が定められているだけで、掲揚や斉唱などについて何も定めていないのである。
 だが、法律が制定されると、義務づけを伴う方向に運用する動きが強まっていく。石原慎太郎東京都知事は過激に教育現場に介入し、短期間に義務づけを定着させた。
 東京都教育委員・米長邦雄はその勢いで、2004年秋の園遊会で天皇に向かって、「日本中の学校において国旗を掲げ国歌を斉唱させることが、私の仕事でございます」と胸をはった。ところが、天皇は、「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と返した。米長の狼狽ぶりは、テレビのニュースで全国放映された。この「やはり」という言葉は、天皇自身、強制になることを危惧する認識を持っていたからではないか。

 今年8月13日は、国旗・国歌法施行12周年である。この間、斉唱時に起立しなかったことで処分された教職員は延べ1238人(1991~2009年)。うち東京都は444人である(『東京新聞』5月31日付)。都教委が2003年10月23日、起立斉唱を義務づける通達を出して以降、懲戒処分が相次いで出され、その取り消しや損害賠償を求める訴訟が提起された。
 下級審では、思想・良心の自由侵害を理由として、国歌斉唱の際のピアノ伴奏義務が存在しないことを確認し、伴奏しないことを理由としたいかなる処分もしてはならないとするとともに、慰謝料請求を認容する判決も出ている(東京地裁2006年9月21日判決〔予防訴訟〕。東京高裁2011年2月28日判決で原告逆転敗訴。上告中)。
 また、起立斉唱・ピアノ伴奏拒否に対する懲戒処分を、裁量権の逸脱・濫用で違法として取り消す高裁判決も出ている(東京高裁2011年3月10日)。
 だが、全体としては、職務命令で国歌斉唱や起立を求めることは特定の思想の強制や禁止にあたらず、思想・良心の自由を侵害しないとか、職務命令に裁量権の逸脱・濫用はないとして、処分を容認する傾向が強い。
 最高裁は、ピアノ伴奏拒否訴訟判決(2007年2月27日第3小法廷)で、原告の世界観・歴史観(君が代がアジア侵略で果たした役割など)が、入学式において伴奏拒否するという行為と「不可分に結び付くものということはできず」、伴奏を求める校長の職務命令が、「特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無を告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない」として、当該命令は思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反しないと判示した。
 この判決で注目されるのは、藤田宙靖裁判官の反対意見である。藤田裁判官は、君が代についての歴史観・世界観それ自体よりも、むしろ、「公的儀式の場で、公的機関が、参加者にその意に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って、このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」が問題であって、この信念・信条は憲法の保護を受けるという観点から、歴史観・世界観とは別に、斉唱への協力の強制が、この信念・信条に対する「直接的制約」になるとする。その上で、校長の職務命令によって達せられる公共の利益の具体的内容を丁寧に検討し、学校行政の目的が「子供の教育を受ける利益の達成」にあるとすると、それを達成する手段がピアノ伴奏の強制なのかについて重大な疑いを投げかけ、「教育公務員の職務の公共性」から簡単に思想・良心の自由の制約を導く多数意見を批判する。

 先週、最高裁第2小法廷(須藤正彦裁判長)は、都立高校の卒業式で「君が代」を斉唱するときに教諭を起立させる校長の職務命令が、憲法19条の「思想・良心の自由を侵害しない」という判断を示した。起立斉唱命令については最高裁として「初判断」として注目された。新聞各紙は「君が代起立命令は合憲」(『朝日新聞』『読売新聞』『毎日新聞』5月31日付)という一面見出しを打ち、社会面で「『静かな抵抗』実らず」(『朝日』)、「君が代論争に終止符」(『読売』)、「起立定着に『無力感』」(『東京』)という受けの記事を掲載した。
 判決は、
 (1)国歌の起立斉唱は広く行われており、教員への職務命令は特定の思想の告白を強要するものとは言えず、思想・良心の自由を保障する憲法に違反しない、
 (2)起立斉唱には国旗・国歌への敬意表明という要請があり、命令はこれに応じ難いと考える者が、自己の歴史観や世界観と異なる行動を求められる点で、思想・良心の自由を間接的に制約する面がある、
 (3)しかし、命令は式典における慣例上の儀礼的な所作を求めるものであり、卒業式等の秩序の確保や式典の円滑な進行を図るもので、法令や地方公務員の職務の公共性などに照らせば、その制約には必要性と合理性が認められる、
 というものだった。裁判官4人の全員一致の結論である。
 特に(2)について詳しく見ると、判決は、「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることになり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い」とした上で、本件職務命令が、上告人の思想及び良心の自由について間接的な制約となる面があると認定している。ただ、卒業式などは「教育上の特に重要な節目となる儀式的行事」であり、(3)のような結論が導かれるわけである。
 注目されるのは、3人の裁判官の長大な補足意見が付いたことである。最高裁のホームページからダウンロードしたPDFファイルで全32頁(12454字)。そのうち判決本体の法廷意見は7頁半(5448字)だが、3人の補足意見が23頁(18527字)にもなる。実に判決の77%が補足意見で占められている。憲法判断を行う大法廷で反対意見や補足意見が多く付くことはあるが、小法廷で8割近くが補足意見というのも珍しい。

【(2)に続く】

    『早稲田大学・水島朝穂のホームページ』(今週の直言:2011年6月6日)
          http://www.asaho.com/jpn/bkno/2011/0606.html

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