東京新聞【コンパス】
★ 非寛容の先に
「『うた』を強制する国」<※>という一文を、この欄で六年前に書いた。学校で「君が代」斉唱が強制され、声量の調査さえ行われている現実を「自由で民主的な国のすることではない」と指摘する趣旨だった。そうした状況は今も変わらない。
大阪府では三日、起立を義務付ける全国初の条例が成立した。条例案には自民党府議らも反対し、教育行政のトップである府教育長は「義務づけは必要ない」と府議会本会議で明言した。だが、教育の専門家ではない府知事の意を受けた府議らが、多数派の力で押し切ったのだ。
一方、最高裁は五月末、校長の教員に対する起立命令を合憲とする初の判決を言い渡した。須藤正彦裁判長は「命令に踏み切る前に、寛容の精神の下に可能なかぎりの工夫と慎重な配慮が望まれる」と補足したが、言い訳がましい。判決は強制の圧力をさらに勢いづかせるだろう。
こんなことを書くと必ず「おまえは国を愛さないのか」と言われるが、それは違う。《歌が強制される時代》と題した過日の「大波小波」<※※>で(ホトトギス)氏が伝えた通り、起立を拒否した原告の元高校教諭は「日本を愛している」と述べたし、私も同じだ。だからこそ、こうした強制や非寛容の先に待つものを警戒するのだ。(品)
『東京新聞』(2011/6/13 夕刊【コンパス】)
<※> 2005/9/18
◆「『うた』を強制する国」
私の学んだ中学校は、毎年秋に学級対抗の合唱大会があった。
ある年、「君が指揮すると歌声がきれいになる」という級友の勧めで指揮台に立ち、クラスは優勝した。ほめ言葉だと思っていたが、級友から「一番歌の下手なやつが指揮者になってコーラスから抜ければ、歌がよくなるのは当然だ」と真相を明かされ、絶句した。
そんな下手っぴでも歌は好きだった。
仲間と歌った「木琴」は、空襲で死んだ妹をいたむ絶唱で、中学生の胸にしみこんだ。
戦時中、軍歌ばかり教えこまれた母が「戦争が終わっていろんな歌を自由に歌えるようになったとき、音楽ってこんなに素晴らしいものかと思った」と話す心境が、少しだけ分かる気がした。
戦後六十年たった今、その"自由"はどこにいったのか。学校では子どもたちに「君が代」が強制され、声量の調査さえ公然と行われている。恐ろしい。
歌はひとの心の奥に宿り、そこからあふれ出る。それを強要するのは、自由で民主的な国のすることではない。
政治家が「全体主義だ」と嫌悪感をむき出しにする国々の教育と、どこがどう違うのか。(信)
東京新聞(2005/9/17夕刊)「コンパス」から
<※※>【大波小波】(2011/6/3)
◆ 歌が強制される時代
公立学校の卒業式で「君が代」斉唱の際、教職員に起立を求めた校長の職務命令が違憲がどうかが争われた裁判で、最高裁が初判断を示した。合憲だと言う。懲戒処分取り消しや損害賠償請求など、多くの訴訟を抱える東京都教委は胸を撫で下ろしているだろう。
しかし都の教育委員だった米長邦雄がかつて、園遊会で「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言したのに対し、天皇陛下は「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」と応えていた。
棋士よりも陛下の方が、よほど歌の心というものに通じている。
古今和歌集の仮名序は「やまとうたは、人の心を種として、よろづのことの葉とぞなれりける」の一文から始まっている。
歌は決して外側から強制されるべきものでなく、心の中から自然に湧きあがるようにしてうたわれるものだ。そして「君が代」の元型の初出はこの古今集とされている。
敗訴した原告の元都立高教諭は「自分は都知事よりよほど日本を愛している」と述べている。愛し方にもいろいろある、ということだ。
「愛国教育」はそこを見誤っている。愛も歌も、無理強いされるところからは決して生まれないのだから。(ホドトギス)
『東京新聞』(2011/6/3【大波小波】)
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫
http://wind.ap.teacup.com/people/5355.html
★ 非寛容の先に
「『うた』を強制する国」<※>という一文を、この欄で六年前に書いた。学校で「君が代」斉唱が強制され、声量の調査さえ行われている現実を「自由で民主的な国のすることではない」と指摘する趣旨だった。そうした状況は今も変わらない。
大阪府では三日、起立を義務付ける全国初の条例が成立した。条例案には自民党府議らも反対し、教育行政のトップである府教育長は「義務づけは必要ない」と府議会本会議で明言した。だが、教育の専門家ではない府知事の意を受けた府議らが、多数派の力で押し切ったのだ。
一方、最高裁は五月末、校長の教員に対する起立命令を合憲とする初の判決を言い渡した。須藤正彦裁判長は「命令に踏み切る前に、寛容の精神の下に可能なかぎりの工夫と慎重な配慮が望まれる」と補足したが、言い訳がましい。判決は強制の圧力をさらに勢いづかせるだろう。
こんなことを書くと必ず「おまえは国を愛さないのか」と言われるが、それは違う。《歌が強制される時代》と題した過日の「大波小波」<※※>で(ホトトギス)氏が伝えた通り、起立を拒否した原告の元高校教諭は「日本を愛している」と述べたし、私も同じだ。だからこそ、こうした強制や非寛容の先に待つものを警戒するのだ。(品)
『東京新聞』(2011/6/13 夕刊【コンパス】)
<※> 2005/9/18
◆「『うた』を強制する国」
私の学んだ中学校は、毎年秋に学級対抗の合唱大会があった。
ある年、「君が指揮すると歌声がきれいになる」という級友の勧めで指揮台に立ち、クラスは優勝した。ほめ言葉だと思っていたが、級友から「一番歌の下手なやつが指揮者になってコーラスから抜ければ、歌がよくなるのは当然だ」と真相を明かされ、絶句した。
そんな下手っぴでも歌は好きだった。
仲間と歌った「木琴」は、空襲で死んだ妹をいたむ絶唱で、中学生の胸にしみこんだ。
戦時中、軍歌ばかり教えこまれた母が「戦争が終わっていろんな歌を自由に歌えるようになったとき、音楽ってこんなに素晴らしいものかと思った」と話す心境が、少しだけ分かる気がした。
戦後六十年たった今、その"自由"はどこにいったのか。学校では子どもたちに「君が代」が強制され、声量の調査さえ公然と行われている。恐ろしい。
歌はひとの心の奥に宿り、そこからあふれ出る。それを強要するのは、自由で民主的な国のすることではない。
政治家が「全体主義だ」と嫌悪感をむき出しにする国々の教育と、どこがどう違うのか。(信)
東京新聞(2005/9/17夕刊)「コンパス」から
<※※>【大波小波】(2011/6/3)
◆ 歌が強制される時代
公立学校の卒業式で「君が代」斉唱の際、教職員に起立を求めた校長の職務命令が違憲がどうかが争われた裁判で、最高裁が初判断を示した。合憲だと言う。懲戒処分取り消しや損害賠償請求など、多くの訴訟を抱える東京都教委は胸を撫で下ろしているだろう。
しかし都の教育委員だった米長邦雄がかつて、園遊会で「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言したのに対し、天皇陛下は「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」と応えていた。
棋士よりも陛下の方が、よほど歌の心というものに通じている。
古今和歌集の仮名序は「やまとうたは、人の心を種として、よろづのことの葉とぞなれりける」の一文から始まっている。
歌は決して外側から強制されるべきものでなく、心の中から自然に湧きあがるようにしてうたわれるものだ。そして「君が代」の元型の初出はこの古今集とされている。
敗訴した原告の元都立高教諭は「自分は都知事よりよほど日本を愛している」と述べている。愛し方にもいろいろある、ということだ。
「愛国教育」はそこを見誤っている。愛も歌も、無理強いされるところからは決して生まれないのだから。(ホドトギス)
『東京新聞』(2011/6/3【大波小波】)
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫
http://wind.ap.teacup.com/people/5355.html