戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の占領下で共産党員らが職場を追放された「レッドパージ」で、解雇は憲法違反で国は名誉回復や補償を怠ったとして、神戸市の81~94歳の男性3人が国に計6千万円の国家賠償を求めた訴訟の判決が26日、神戸地裁であった。矢尾和子裁判長は「レッドパージはGHQの指示による超憲法的な措置で、解雇や免職は有効。補償は政治的判断で解決されるべき事柄」として訴えを棄却した。原告は控訴を検討している。
レッドパージを巡る全国唯一の国賠訴訟。原告は同市西区の大橋豊さん(81)、北区の川崎義啓さん(94)、兵庫区の安原清次郎さん(90)。それぞれ当時の逓信省神戸中央電報局、旭硝子、川崎製鉄に勤務し、1950年、共産党員であることを理由に免職・解雇された。
原告側は「GHQはレッドパージを『示唆』したが『指示』まではしていない。日本政府が主導した」と訴えたが、矢尾裁判長はこれまでの最高裁判断を踏襲し「示唆と受け取れる文書もあるが、実際はGHQの指示で日本国民や政府には従う義務があった」と退けた。
また原告側は、52年のサンフランシスコ講和条約発効で主権を回復した後も政府は被害者の救済措置を怠り、このため長年にわたって精神的、財産的損害を受けたと主張。これに対し、矢尾裁判長は「補償は国会の裁量範囲」との判断を示した。
判決後、会見に臨んだ原告弁護団は「国の主張どおりで、原告の期待を裏切る不当判決」と批判した。
■レッドパージ 第2次世界大戦後、日本を占領していた連合国軍総司令部(GHQ)の指令で共産党員らが公職追放された動きと関連し、1949~50年ごろ、官公庁や民間企業でも政治的立場や思想信条を理由に、同党員や支持者とみなされた人が一方的に職場を免職・解雇された。労働省(当時)などによると、官公庁で1000人以上、民間企業では1万人以上とされる。日弁連は2008年、レッドパージを重大な人権侵害と認め、国に被害者の名誉回復と補償を勧告した。
神戸新聞(2011/05/26 19:07)
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004106303.shtml
【このままでは死ねない レッドパージ国賠判決】
■(上)「存在はタブー」苦悩61年
裁判資料を前に、レッドパージ被害者の名誉回復を訴える大橋豊さん=神戸市中央区橘通3(撮影・田中靖浩)
「このまま黙って死ぬわけにはいかない」。今年2月、神戸地裁大法廷に立った大橋豊さん(81)=神戸市西区=が声を震わせ、訴えた。
連合国軍総司令部(GHQ)の勧告によって、共産党員とその支持者が職場を追われたレッドパージ。その嵐が吹き荒れたのは1950(昭和25)年のことだ。それから61年を経て今月26日、全国唯一のレッドパージ国賠訴訟の判決が言い渡される。原告の大橋さん、川崎義啓(よしひろ)さん(94)、安原清次郎さん(90)の3人は国に名誉回復と損害賠償を求める。
◇
大橋さんは30年に但馬の旧生野町(現朝来市)で生まれた。13歳のときに炭鉱作業員の父が亡くなり、15歳で台湾にいた兄が戦死した。一家の大黒柱を次々失い、母と2人の妹、弟を養うため旧逓信省の神戸中央電報局で働き始めた。
タイプライターで1分間に200文字を打ち続ける。勤務時間は日勤で8時間、夜勤なら仮眠を挟んで16時間に及んだ。寮の食事は三食とも大豆を絞って固めた団子を二つだけ。「劣悪な環境を変えたい」と、49年7月に労働組合の執行委員になり、共産党に入った。
50年8月29日、局長室に呼ばれ、薄っぺらい複写の免職辞令を渡される。局長は「君は家族が多く申し訳ないのだが…」と言った。翌日、新聞は大橋さんら4人の解雇を報じた。
一種の「烙印(らくいん)」を押されたようなものだった。大橋さんの就職はままならず、下の妹はバス会社の内定を取り消され、15歳で神戸の商店に住み込み、働いた。母は出家してしまった。
この年6月、朝鮮戦争が始まった。前年には毛沢東が中華人民共和国成立を宣言。東西対立が激化する中、GHQはレッドパージの勧告に踏み切る。9月には日本政府が公務員のレッドパージの方針を閣議決定した。
兵庫県内で865人が職を失ったとする調査がある。全国では1万数千人以上とされる。被害者も黙ってはいなかった。解雇無効を求める訴えが広がる。これに対し、最高裁は52年と60年の2度にわたって「GHQの指示は超憲法的であり、解雇は有効」との判断を示した。
問題は決着したとみなされた。「労働組合も共産党も何もしてくれなかった。われわれの存在はタブーとされた」と大橋さん。月日は流れ、多くの被害者が世を去った。
2000年10月のことだ。東京でレッドパージ50周年の集会が開かれ、上京した大橋さんは全国から集まった被害者と語り合う。当時のこと、その後のこと。このままでいいのか。
「生きているうちに国と企業の謝罪の言葉を聞く」。決意とともに、大橋さんは神戸に戻った。
(金旻革、広畑千春)(2011/05/22) http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/shakai/201105red/01.shtml
■(中)仕事なく、石を売る日々
61年前、川崎製鉄から安原清次郎さんの元に届いた解雇通告書=神戸市兵庫区荒田町3(撮影・佐々木彰尚)
2002年夏、レッドパージの被害者大橋豊さん(81)は、同じ神戸に住む川崎義啓(よしひろ)さん(94)とともにスイスのジュネーブに飛んだ。国連の人権委員会に被害を訴えるためだった。さらに、日本弁護士連合会(日弁連)に人権救済を申し立てた。
申し立てには、やはり神戸在住の安原清次郎さん(90)が加わった。08年、日弁連はレッドパージを憲法違反と認め、国に被害者の名誉回復と補償を求める勧告を出した。
「天の岩戸が開いた」。手応えを得た大橋さんたち3人は次の行動に踏み出す。09年3月、国に賠償を求める訴訟を神戸地裁に起こした。
◇ 安原さんはレッドパージで川崎製鉄を解雇された。その後は職に就くことができず、民間企業で働いた期間は10年に満たない。月8万5千円の年金を受け取るが、家賃と食費、介護サービス代などでほぼ底をつく。
神戸市兵庫区に生まれ早くに父親を亡くした。尋常小学校を終えると、母と3人の弟妹を養うため働きに出た。戦後、合法化された日本共産党に入党し、川崎製鉄で組合活動に従事した。
1950年10月25日、夜勤明けの自宅に速達で解雇通知が届く。以後、二度と工場に入れなくなった。職業安定所を訪れると「レッドパージでは雇ってくれない」と門前払いされた。やむなく丹波の山や四国の河原で石を拾って磨き、神戸の元町商店街で売った。
好きな女性がいたが「収入の無い人とは暮らせない」と去っていった。91歳で亡くなった母によく「不細工な生き方や」と言われた。そのたびにこう返した。「何も悪いことはしとらん」
川崎さんは旭硝子の労組で副委員長を務めていた。50年10月19日、女性職員から解雇を伝えられる。理由を聞こうと工場長の家を訪ねると、住居侵入容疑で逮捕された。
太平洋戦争で中国の南京攻略に参加し、民間人を襲う軍に疑問を持った。戦後、共産党は反戦を貫いたと聞いて入党。今も「自分の生き方は間違っていない」と信じる。
働き口を探しても「アカは雇えない」と断られる日々。日雇いの仕事もなく、共産党の活動に専心してきた。
今年1月、看護師として家計を支えた妻が92歳で亡くなった。レッドパージ当時、5歳だった息子もすでに世を去った。「妻には本当につらい思いばかりさせてきた。判決の日まで生きていてほしかった」
旭硝子を解雇されたとき、妻は3日間、泣き続けた。その姿を忘れることはない。
(広畑千春)(2011/05/23) http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/shakai/201105red/02.shtml
■(下)「名誉と尊厳、取り戻す」
打ち合わせを重ねる(左から)川崎義啓さん、安原清次郎さんら原告とレッドパージの被害者=神戸市中央区橘通3(撮影・山口登)
レッドパージの被害者の中には、自殺や一家心中に追い込まれたケースもあった。
国賠訴訟の原告、大橋豊さん(81)とともに神戸中央電報局を解雇された職員の中に、当時18歳の青年がいた。高校卒業後、働きながら京都大学法学部の夜間に通っていた。共産党員でも組合役員でもなかったが、活動家とみなされる。解雇直後、自ら命を絶った。
サンフランシスコ平和条約が発効した1952年、独立を回復した日本政府は「公職追放令廃止法」を制定。これによって戦争犯罪人や戦争協力者として追放されていた政治家や官僚、財界人らが一線に復帰した。
しかし、レッドパージの被害者は救済されなかった。大橋さんらは「破壊活動への関与など一切ないのに、『アカ』のレッテルを貼られ、普通の市民生活を送ることも許されなかった。その状態を61年間放置した国の責任は重い」と訴える。
今回の訴訟で、原告弁護団は「連合国軍総司令部(GHQ)の指示は超憲法的であり、解雇は有効」と判断した60年の最高裁決定に対して、「GHQは『指示』したのではなく『示唆』したにすぎない」とする明神勲・北海道大学名誉教授(69)の意見書を提出した。
根拠となっているのが昨年6月、明神教授が国会図書館で発見した文書だ。GHQの幹部が新聞社の幹部や官僚らと懇談した内容を記したもので、そこに「(レッドパージは)われわれの命令、指示ではない」との発言が記録されていた。明神教授は「日本政府がGHQの権威を利用したのは明らか」と訴えた。
レッドパージの被害者の約7割は死亡、もしくは所在不明とされる。その中で今回の訴訟を支援する動きが広がる。神戸地裁には全国から「憲法に基づいた判決を」と求める要請書が送られている。裁判所はその数を明らかにしていないが、弁護団は「1500~2000通」とする。原告団には少額のカンパが毎日のように届く。
28歳で神戸市役所を解雇された岡井理一さん(89)は、直後から労働組合の団体交渉を通して市に解雇不当を訴えた。職場復帰を望んだがかなわず、母親と弟妹を養うため和解に応じた。
このため訴訟に加わることはできなかったが、会計やデータ収集係としてサポートする。26日の判決を前に「人には思想信条の自由がある。それを踏みにじった国は許せない。一言でいい。謝ってほしい」と願う。
大橋さんたちは「この裁判はレッドパージを再評価するきっかけになる」と信じる。「金じゃない。名誉と尊厳を取り戻したいだけだ」
そして、繰り返した。「私たちには、もう時間が残っていないんです」
(広畑千春、前川茂之、金旻革)
(2011/05/24) http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/shakai/201105red/03.shtml