『尾形修一の教員免許更新制反対日記』から
◆ 大阪の情勢を憂慮する③
大阪の「君が代条例」についての話、続き。
これで最後になります。
教育史をずっと振り返る余裕はありませんが、戦前の教育はいったん占領下に否定されますが、独立回復後に「道徳教育」とか「君が代」とかの復活運動が保守派から起こってきます。
これに対し、教員組合や「革新」陣営は「戦前の国家主義的教育への復古反対」を主張します。
この段階では、当然どちらの陣営も「教育はどうあるべきか」を議論していたわけです。
(まあ、どっちも思想対立の代理戦争とも言えますが。)
ところが、これが学習指導要領で決められると、議論がずれてきます。
1959年に告示された学習指導要領で「(国旗掲揚、国歌斉唱が)望ましい」とされ、さらに1989年以後は「指導する」とされています。
(指導要領の実施は告示から3年くらい後になります。)
今度は教育行政の側から、「(学習指導要領という)ルールに従わなくて良いのか」という論点が出されるわけです。
学習指導要領は、それ自体は文部科学大臣の告示に過ぎませんが、最高裁の判決(旭川学テ訴訟や福岡伝習館訴訟)で法的性格があるとされています。
しかし、それを認めたとしても、この問題にはなかなか決着がつきません。
管理職なんかは、よく「学校はルールが基本」「教師がルールを守らなくてどうする」とか言ったわけですが、反対派からすれば、「国家の最高のルールは憲法」「国旗国歌の強制は憲法違反」と主張しているわけで、この「ルール」論だけでは決着しないわけです。
そこで教育委員会(と各地の右派議員)が中心となり、「通達」などで強制の度合いを強めてきたのが21世紀に入ってからの流れでしょう。
ところで、ここに全く新しい観点を持ち込んだのが、大阪府の橋下知事です。
これまでは、一応「教育論議という大枠」の中で議論されてきたわけですが、それを「(通達等を出しているのに)徹底されないのはマネジメントの問題」ととらえたわけです。もちろんそう言って言えないことはないでしょうが、「教育の現場」のとらえ方として問題があるのではないでしょうか。
反対している側は教育論で議論しているのに、反対者がいること自体がマネジメントに問題がある、と言われたら議論になりません。初めから議論拒否です。
国歌斉唱時に不起立教員がいると、その学校はマネジメント上の問題がある。
そういうとらえ方をすると、当然その観点は生徒と教員個々にも広がっていきます。
校長が授業参観をしたときに私語や携帯電話をする生徒がいたら、それは授業担当者の「マネジメント能力の欠如」となります。
校則で決めた頭髪の規定を守らない生徒がいたら、その学校は「生活指導のマネジメント能力の欠如」になります。
もちろん、そうした観点でとらえて改善策をさぐるのも有効な場合があります。
しかし、大阪府では君が代で起立という学習指導要領でも求めていない(ましてや国旗国歌法制定時の小渕政権の答弁にも反する)ことを条例化してしまう。
そうなると、学校の指導をめぐって、保護者・生徒と学校がもめた場合、必ず「それは条例で決まってないじゃないですか?」と言われるでしょう。
頭髪について先生から指導されたら「生徒の金髪を禁ずる条例はあるんですか?」と言われます。
そうなるに決まってます。
そうやって教育の問題を「外部化」していくと、教師の指導力も衰えていって、しまいには「授業中の携帯電話の使用は条例で禁止して欲しい」などと言い出すかもしれません。
「公立学校の授業における携帯電話等の電子機器の使用を禁止する条例」まで行き着くかもしれません。
今までは「校則」で済んでいたものを全部条例にしなければいけなくなるかもしれません。
しかも「免職」規定まで作ってしまったら、生徒は全く従わなくなると思います。
問題行動を起こした生徒に対し特別な指導が必要になることが中学や高校では年に何回かあるものです。
そういう時に、いじめや暴力行為を起こした生徒は「先生は3回でクビでしょ。
私、1回目だもんね」と言うのではないですか?(自分だったら言いますよ。)
この問題は単なる国旗国歌の問題にとどまらない、教育の本質をどう考えるかの問題だと思うから、他の府県の問題ですが、こうして書いています。
条例はいらない。
後はどういう教育が望ましいかを議論すればいい。
教育委員会の内部で議論するべきマターです。
君が代賛成とか反対の問題じゃありません。
それを議論する前に、教育はマネジメントなのかということをきちんと考えて欲しいと思います。
『尾形修一の教員免許更新制反対日記』(2011年05月29日)
http://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/6cc630462ca3caf1b20f123cd6eb42ec
◆ 大阪の情勢を憂慮する③
大阪の「君が代条例」についての話、続き。
これで最後になります。
教育史をずっと振り返る余裕はありませんが、戦前の教育はいったん占領下に否定されますが、独立回復後に「道徳教育」とか「君が代」とかの復活運動が保守派から起こってきます。
これに対し、教員組合や「革新」陣営は「戦前の国家主義的教育への復古反対」を主張します。
この段階では、当然どちらの陣営も「教育はどうあるべきか」を議論していたわけです。
(まあ、どっちも思想対立の代理戦争とも言えますが。)
ところが、これが学習指導要領で決められると、議論がずれてきます。
1959年に告示された学習指導要領で「(国旗掲揚、国歌斉唱が)望ましい」とされ、さらに1989年以後は「指導する」とされています。
(指導要領の実施は告示から3年くらい後になります。)
今度は教育行政の側から、「(学習指導要領という)ルールに従わなくて良いのか」という論点が出されるわけです。
学習指導要領は、それ自体は文部科学大臣の告示に過ぎませんが、最高裁の判決(旭川学テ訴訟や福岡伝習館訴訟)で法的性格があるとされています。
しかし、それを認めたとしても、この問題にはなかなか決着がつきません。
管理職なんかは、よく「学校はルールが基本」「教師がルールを守らなくてどうする」とか言ったわけですが、反対派からすれば、「国家の最高のルールは憲法」「国旗国歌の強制は憲法違反」と主張しているわけで、この「ルール」論だけでは決着しないわけです。
そこで教育委員会(と各地の右派議員)が中心となり、「通達」などで強制の度合いを強めてきたのが21世紀に入ってからの流れでしょう。
ところで、ここに全く新しい観点を持ち込んだのが、大阪府の橋下知事です。
これまでは、一応「教育論議という大枠」の中で議論されてきたわけですが、それを「(通達等を出しているのに)徹底されないのはマネジメントの問題」ととらえたわけです。もちろんそう言って言えないことはないでしょうが、「教育の現場」のとらえ方として問題があるのではないでしょうか。
反対している側は教育論で議論しているのに、反対者がいること自体がマネジメントに問題がある、と言われたら議論になりません。初めから議論拒否です。
国歌斉唱時に不起立教員がいると、その学校はマネジメント上の問題がある。
そういうとらえ方をすると、当然その観点は生徒と教員個々にも広がっていきます。
校長が授業参観をしたときに私語や携帯電話をする生徒がいたら、それは授業担当者の「マネジメント能力の欠如」となります。
校則で決めた頭髪の規定を守らない生徒がいたら、その学校は「生活指導のマネジメント能力の欠如」になります。
もちろん、そうした観点でとらえて改善策をさぐるのも有効な場合があります。
しかし、大阪府では君が代で起立という学習指導要領でも求めていない(ましてや国旗国歌法制定時の小渕政権の答弁にも反する)ことを条例化してしまう。
そうなると、学校の指導をめぐって、保護者・生徒と学校がもめた場合、必ず「それは条例で決まってないじゃないですか?」と言われるでしょう。
頭髪について先生から指導されたら「生徒の金髪を禁ずる条例はあるんですか?」と言われます。
そうなるに決まってます。
そうやって教育の問題を「外部化」していくと、教師の指導力も衰えていって、しまいには「授業中の携帯電話の使用は条例で禁止して欲しい」などと言い出すかもしれません。
「公立学校の授業における携帯電話等の電子機器の使用を禁止する条例」まで行き着くかもしれません。
今までは「校則」で済んでいたものを全部条例にしなければいけなくなるかもしれません。
しかも「免職」規定まで作ってしまったら、生徒は全く従わなくなると思います。
問題行動を起こした生徒に対し特別な指導が必要になることが中学や高校では年に何回かあるものです。
そういう時に、いじめや暴力行為を起こした生徒は「先生は3回でクビでしょ。
私、1回目だもんね」と言うのではないですか?(自分だったら言いますよ。)
この問題は単なる国旗国歌の問題にとどまらない、教育の本質をどう考えるかの問題だと思うから、他の府県の問題ですが、こうして書いています。
条例はいらない。
後はどういう教育が望ましいかを議論すればいい。
教育委員会の内部で議論するべきマターです。
君が代賛成とか反対の問題じゃありません。
それを議論する前に、教育はマネジメントなのかということをきちんと考えて欲しいと思います。
『尾形修一の教員免許更新制反対日記』(2011年05月29日)
http://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/6cc630462ca3caf1b20f123cd6eb42ec