原子力推進の政界の動きを後ろから支えたのは財界、マスメディア、そしてアメリカでした。

 最初の原子力予算、同関連立法にかかわった日本自由党の前田正男衆議院議員(のち自民党、科学技術庁長官)が証言を残しています。
「われわれの運動を終始、応援してくれたのが経団連だった。。会合の場所や会合費(昼食費)を世話してもらった。原子力関係では電気事業連合会が支援してくれ、言論界にも全面的にバックアップしてもらった」(『自由民主党史』1987年)電気事業連合会とは電力会社の業界団体です。

中曽根康弘氏、前田氏らは予算に先立って訪米し、アメリカ政府、アメリカ原子力産業会議などから日本における原子力開発を推奨されていました。

 原子力開発予算を推進する中核を占めたのは改憲派議員でした。稲葉修氏(最初の原子力予算の趣旨説明を行った)は、のち自民党憲法調査会長として70~80年代の9条改憲論の束ね役でした。中曽根氏は現在も新憲法制定推進議員同盟会長として改憲の旗を振っています。

自民党政権の原発政策は、核武装を排除しない「自主防衛」論=改憲論と結びつく危うさをはらんでいました。

 原子力開発予算を実現させた保守各党は翌55年、保守合同により自民党を結党。

その「政綱」に改憲とともに「原子力振興」を掲げました。

 この時期の自民党・鳩山一郎内閣は、原子力委員会設置法、原子炉規制法、原子燃料公社法など一連の原子力推進の立法化を進めました。

一方政府内に憲法調査会が設置され、改憲への動きを本格化したのでした。

 原発推進と改憲―この二つは、その後50年余にわたって自民党政権の基本政策とされてきました。

 一年半前の政権交代選挙で民主党は「原子力利用について着実に取り組む」とする一方「独立性の高い原子力安全規制委員会の創設」(『民主党政策集』INDEX2009』)など「安全を最優先にした原子力行政」を掲げました。

 ところが、鳩山政権に代わる菅直人政権で策定されたエネルギー基本計画では、原発の積極増設策へ転換を明確にしました。

 原発政策で自民党路線へ旋回した末に民主党政権が直面したのは東電福島第1原発の重大事故でした。(おわり)

しんぶん赤旗5月4日付