海南友子『フクシマからの報告』

 ▼ 三春の異変 響く警告音 死の恐怖

 福島県三春町の佐久間家の庭には、一本の桜の木がある。長女が生まれた五十余年前に、成長を祈って植えたものだ。
 娘が独立した後も、妻の和子さん(73)は毎年その桜の花を塩漬けにし、桜湯にしたり、桜を散らしたちらしずしを作ったりして楽しんできた。「春が来たなあ、と実感するんですよ。庭の桜が満開になるとね」。桜の話をするときに和子さんの顔はほころんで優しくなる。
 三春町。美しいその名前は、桜、桃、梅の三つの花が一度に咲くことによるといわれる。人々を最も魅了するのは樹齢千年の滝桜。この町で人々は桜と共に生きてきた。春は一年で最も幸せな
季節。そう、去年までは。

 異変は突然、やってきた。夫の寛さん(80)は、福島第一原発の周辺自治体に避難勧告がでた三月十二日、放射能の線量計をとりだした。
 二十五年前のチェルノブイリ事故の後に、好奇心から買った機械だったが、最近はあまり使っていなかった。
 「三春町は原発から約五十キロ離れている。しかし、もしかしたら、放射能が出ているんじゃないか?」。
 夫婦で話し合い、毎時十分間の放射線量を記録することにした。


 線量計は一定の基準を超えると警告音が鳴る設定だ。
 十三日、警告音が鳴ったのは二回。すでに1号機は水素爆発していたが、基準ぎりぎりの数値で、それほど心配される数字ではなかった。

 翌十四日。夫婦は、朝六時から夜十一時まで細かく記録をしてみた。
 朝六時四十八分に、この日最初の警告音。
 午後十時五十四分までに、警告音は二十二回鳴った。

 そして、十五日。
 午後一時二十九分から、警告音は毎分、鳴りっぱなしになった。
 十分後、通常の佐久間家の居間の値の四倍に。
 さらに、十分後には十五倍に跳ね上がった。
 数字は、そのまま一分ごとに猛烈な勢いで跳ね上がり、午後二時十六分。通常の五十七倍の放射線量になった。
 「このまま、ここで放射能にやられて死ぬのか」
 寛さんは、とどまるべきか、逃げるべきかを考えあぐねていた。その間も、通常の五十倍を超す放射線量が三十分以上続き、夫婦は死を覚悟した。

 この日、福島第一原発では、2号機の圧力抑制室が損傷。さらに、4号機でも水素爆発が起きていた。

 同五十二分。線量計はほんの少しだけ数値を下げた。通常の佐久間家の居間の放射線量の四十二倍。
 夫妻は、張りつめた緊張の糸が途切れて、その場に座り込んでしまった。しばらくは放心状態だった。
 そして午後四時。数値は通常の十五倍まで下がった。「とりあえず、いますぐ死ぬ状態は免れられそうだ…」。夫の寛さんは鳴り続ける警告音の中で、小さな安堵のため息をついた。

 私が取材で訪れた四月二日。海に高濃度の放射性物質が大量に流れていることが判明した。寛さんは黙り込んでしまった。
 無力だった。もともと教師だった寛さんは、子どもたちに原発が与える影響をずっと懸念しながら生きてきた。組合の会合などでも訴えた。しかし、警告は大きな力に結実するζとなく、今回の事故を迎えた。
 長女の小学校の卒業アルバムには、建設中の福島第一原発の前で撮られた集合写真がある。社会科見学か。
 笑顔で並ぶ子どもたちの後ろに巨大な建物。まさかこの施設が四十年後に福島を未曽有の事態に陥れるとは。色あせた白黒写真が、歳月を物語っている。


 「フクシマからの報告」は、福島第一原発の事故で被災した人々の撮影を続けかなる映画監督・海南友子さんのリポートです。随時掲載します。

『東京新聞』(2011/5/1【ニュースの追跡】)

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