「3・11」。春を待つ東北地方を、巨大地震と津波が襲った。その時、現場の毎日新聞記者は何を感じ、いま何を伝えようとしているのか。
毎日新聞28日付「大震災と報道」特集より。
◇東京から水戸、仙台、陸前高田へ 感じた恐怖、抱いた葛藤--東京社会部・井上俊樹記者(39)
被災地へ向かうよう言われたのは、地震発生から1時間余りたった午後4時ごろ。直ちに同僚記者と車に乗り込み、東京の本社を出発した。先行するチームが仙台市に向かったため、我々は北関東を目指したが、途中で被害がひどそうな水戸市に向かう。当初、本社でも被災状況はよく分かっていなかった。水戸に着いたのが午後11時。さらに仙台に向かえとの指示が来る。このころになってようやく、岩手県沿岸でも大きな被害が起きていることが判明しつつあった。
海岸線の道路を避け内陸の一般道を夜通し走り、仙台市内の支局に到着したのが翌午前6時ごろ。東京からまっすぐ北上した先行陣が大渋滞に巻き込まれたため、大回りした私たちが最も早く仙台入りできた。それでも本社からノンストップ14時間の強行軍だった。
今回の取材で最大の誤算が、地震発生から数日、携帯電話が全く通じなかったことだ。日ごろ私たちが出先で原稿を書く時、パソコンに携帯電話をつないで送稿する。携帯が使えなければ公衆電話や固定電話で原稿を読み上げたりするのだが、発生直後の被災地では公衆電話もダウンしていた。本社には衛星電話もあるのだが、数が少ない。「取材しても記事を送れない」という事態に直面した。
しかも、道路網の寸断で新聞輸送に時間がかかるため、締め切り時間は大幅に繰り上がっている。このため私たちは当初、沿岸の被災地での取材を午後4時には切り上げて、電話が通じる仙台支局などの取材拠点に大急ぎで戻らなくてはならなかった。
携帯電話が通じないことは、自分たちの安全を守る上でも問題だった。岩手県陸前高田市で取材していた14日午前、「三陸沿岸に津波が近づいている」という情報が流れた。テレビでさかんに「高台に避難するように」と警告していたという。これをまったく知らなかった。会社や家族が送った十数回の警告メールなどを、私の携帯電話が受信したのは数時間後だった。実際にはその津波はなかったが、後で聞いてぞっとした。
被災地はまるで、写真でしか見たことのない原爆投下直後の広島のようだった。どこまでも続くがれきの山。メモ帳とカメラを手に夢中で歩くと、コンクリートと鉄骨をむき出した3階建てのスーパーの近くに来ていた。買い物中に津波に襲われた人たちもいるのだろうか。自らの想像に気がめいる。ふと、ぎしぎしという不気味な音が頭上からする。崩壊寸前の壁が強風で揺れていた。この時になって初めて、自分がかなり危険な場所に立っていることに気づいた。「引き返そう」。急に恐怖を感じ、同僚に声をかけた。速足で現場を後にしながら、つい後ろを振り返ってしまった。
被災者の遺体を、いったいいくつ見ただろう。初めて経験する衝撃的な光景だった。記者の習性で思わずカメラを向けたが、その前で泣き崩れる遺族を見てシャッターを押す勇気はなかった。まして声をかけることはできない。取材記者としてこれでいいのか。恐らく今この瞬間も、多くの記者たちが同じ葛藤を抱えているはずだ。すべてを失った被災地や被災者とどう向き合っていけば良いのか。自問し、苦しみながら、これから何年にもわたって、被災地とかかわっていかねばならない。
毎日新聞28日付「大震災と報道」特集より。
◇東京から水戸、仙台、陸前高田へ 感じた恐怖、抱いた葛藤--東京社会部・井上俊樹記者(39)
被災地へ向かうよう言われたのは、地震発生から1時間余りたった午後4時ごろ。直ちに同僚記者と車に乗り込み、東京の本社を出発した。先行するチームが仙台市に向かったため、我々は北関東を目指したが、途中で被害がひどそうな水戸市に向かう。当初、本社でも被災状況はよく分かっていなかった。水戸に着いたのが午後11時。さらに仙台に向かえとの指示が来る。このころになってようやく、岩手県沿岸でも大きな被害が起きていることが判明しつつあった。
海岸線の道路を避け内陸の一般道を夜通し走り、仙台市内の支局に到着したのが翌午前6時ごろ。東京からまっすぐ北上した先行陣が大渋滞に巻き込まれたため、大回りした私たちが最も早く仙台入りできた。それでも本社からノンストップ14時間の強行軍だった。
今回の取材で最大の誤算が、地震発生から数日、携帯電話が全く通じなかったことだ。日ごろ私たちが出先で原稿を書く時、パソコンに携帯電話をつないで送稿する。携帯が使えなければ公衆電話や固定電話で原稿を読み上げたりするのだが、発生直後の被災地では公衆電話もダウンしていた。本社には衛星電話もあるのだが、数が少ない。「取材しても記事を送れない」という事態に直面した。
しかも、道路網の寸断で新聞輸送に時間がかかるため、締め切り時間は大幅に繰り上がっている。このため私たちは当初、沿岸の被災地での取材を午後4時には切り上げて、電話が通じる仙台支局などの取材拠点に大急ぎで戻らなくてはならなかった。
携帯電話が通じないことは、自分たちの安全を守る上でも問題だった。岩手県陸前高田市で取材していた14日午前、「三陸沿岸に津波が近づいている」という情報が流れた。テレビでさかんに「高台に避難するように」と警告していたという。これをまったく知らなかった。会社や家族が送った十数回の警告メールなどを、私の携帯電話が受信したのは数時間後だった。実際にはその津波はなかったが、後で聞いてぞっとした。
被災地はまるで、写真でしか見たことのない原爆投下直後の広島のようだった。どこまでも続くがれきの山。メモ帳とカメラを手に夢中で歩くと、コンクリートと鉄骨をむき出した3階建てのスーパーの近くに来ていた。買い物中に津波に襲われた人たちもいるのだろうか。自らの想像に気がめいる。ふと、ぎしぎしという不気味な音が頭上からする。崩壊寸前の壁が強風で揺れていた。この時になって初めて、自分がかなり危険な場所に立っていることに気づいた。「引き返そう」。急に恐怖を感じ、同僚に声をかけた。速足で現場を後にしながら、つい後ろを振り返ってしまった。
被災者の遺体を、いったいいくつ見ただろう。初めて経験する衝撃的な光景だった。記者の習性で思わずカメラを向けたが、その前で泣き崩れる遺族を見てシャッターを押す勇気はなかった。まして声をかけることはできない。取材記者としてこれでいいのか。恐らく今この瞬間も、多くの記者たちが同じ葛藤を抱えているはずだ。すべてを失った被災地や被災者とどう向き合っていけば良いのか。自問し、苦しみながら、これから何年にもわたって、被災地とかかわっていかねばならない。