「報告集会」 《撮影:平田 泉》
1 2003年10月23日に本件通達が発出されて以降,通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けをめぐって,本件だけでなく数多くの訴訟が争われています。これまで多くの下級審判決が,問題の本質を見誤ったまま最高裁ビアノ判決に追従する判決を下し続けてきました。
裁判所には,本件事件について,問題の本質を的確に把握した上での判決を望みたいと思います。
2 本件通達をめぐる紛争は,都教委が「国旗に向かって起立し,国歌を斉唱すること」が唯一「正しい」行為・態度であると決めつけ,200校を超える全ての都立学校の全ての教職員に対して「起立斉唱」を義務付けたことが問題の発端です。
義務付けられている行為を客観的に見れば,「国旗」あるいは「国歌」という国のシンポルに対し,「起立し正対すること」,「起立斉唱すること」という特定の態度をとること,あるいは特定の行為をすることが強制されていることがわかります。すなわち,公権力によって「国家シンポルに対する敬意を強制すること」が許されるかが,本件通達をめぐる紛争の本質であるのです。
3 国旗や国歌は、政治性や思想性が捨象されたただの「ハタ」や「ウタ」ではありません。国家を象徴する「ハタ」であり,「ウタ」なのです。
そして,国旗に向かって起立することは,ただの「ハタ」に対して起立しているのではなく,その背後に「国旗」が象徴する「国家」の存在を認識しているからこそ「起立」しているのです。特に,象徴物に対して起立し正対することは,その象徴する存在に対し,敬意を表する姿勢を取ることでもありましょう。
「国旗に向かって起立し,正対すること」は,客観的に見れば,国旗が象徴する「国」に対して敬意を表する姿勢を取ることなのです。
また、国を象徴する「ウタ」を斉唱することも,「国歌」が象徴する「国家」の存在を認識しているがゆえになされる行為であるでしょう。国歌の起立斉唱は,客観的に見れば,その象徴する「国」を賛美するものであり,少なくとも,その象徴する「国」を肯定的に受容する態度を示す行為であるのです。
4 これまでの下級審判決のほぼすぺてが,卒業式や入学式における国歌斉唱について,儀礼的行為である,あるいは「参列者に期待されるぺき行為である」と判示してきました。
しかし、「『国旗』に向かって起立し,正対すること」あるいは「『国歌』を起立斉唱すること」は,「国」に対して「敬意」を表する行為であるのです。
この点で,国歌の起立斉唱は,一定の政治性,思想性を帯びた行為であると言わざるを得ないのです。
また,国の象徴としての「ハタ」あるいは「ウタ」とどう向き合うか,それは,一人の個人として国家権力とどう向き合うかにかかわるものでもあります。したがって,国歌の起立斉唱は、個人が「国」とどう向き合うかにつながる政治性・思想性をはらんだ行為でもあるのです。
すなわち,卒業式や入学式等の式典における国歌の起立斉唱であっても,それは,政治性,思想性が捨象された無色透明な儀礼的行為などではなく,ましてや,参列者が通常取るべきことが期待される行為などではありえないのです。
これだけでも,これまでの多くの下級審判決が,「国家シンボルに対する敬意の強制」が許されるか,という本件の問題の本質を見誤ったまま判決を下してきたことがお分かりいただけるだろうと思います。
5 原告らは.卒業式や入学式等の式典で国旗が褐揚されること,あるいは国歌斉唱が行われることを否定しているのではありません。
「国歌に向かって起立し,正対すること」「国歌を起立斉唱すること」という「国家シンボルに対する敬意」が強制されていることに反対しているのです。
「国家シンボルに対する敬意」を表明する行為が行われる場合でも,なんら「強制」の契機なく,その行為の意味を理解した人たちが自発的に,自由な判断に基づいて行われるものであるかぎり、「思想」の自由の侵害が生じることはないでしょう。
しかし,そのような行為が「強制」される場合,それは「国」によって,自らに対する敬意の表明が「強制」されることにほかなりません。
立憲主義においては,「国民」が,「国」それ自体に対して,あるいはそのシンボルである「国旗」や「国歌」に対して,それぞれ異なる多様な考えをもっていることが想定されていたはずです。
いっさいの異論や批判や例外を認めることなく,「国家シンボルである『国旗』に向かって起立し,正対して,国家の永遠の繁栄を祈念する『国歌』を起立斉唱する」行為を一律に強制することが立憲主嚢とは相いれないものであることは明らかでしょう。
6 また,憲法19条は公権力に対し,「特定の『思想』の強制」を禁じています。「思想」の強制と言っても,個人に特定の「思想」を注入することはできません。「思想」の強制は,公権力によって,特定の「思想」に沿った行為が強制されることを通じて,あるいは特定の「思想」にそぐわない行為を禁止することによって,なされてきたことは歴史が証明していると言ってよいでしょう。
憲法19条の「思想」の強制の禁止は,特定の「思想」に沿った行為の強制の禁止を意味しているのです。
そして,本件では,国家を象徴する「ハタ」あるいは「ウタ」とどう向き合うか,個人と国家のかかわり合い方という自律的,自主的な判断にゆだねられるべき事柄について,「国を肯定的にとらえる『思想』」,あるいは、「『国家権力』に積極的な価値を認めるべきだとする『思想』」という一定の「思想」に基づいた,一定の価値判断に沿った行為である「国歌の起立斉唱」が強制されているのです。
これは公権力が一定の「思想」に沿った行為を強制するものであって,憲法19条に違反していると言わざるを得ないのです。
7 本件の審理においては,昨年10月4日,土屋英雄筑波大学大学院教授の証人尋問が行われました。
土屋教授は証人尋問において,アメリカ合衆国においては,連邦裁判所が国家シンボルを「尊重」しつつも,これに対する儀礼的行為を「強制」することは一貫して憲法違反と判断してきたこと,国家シンポルの強制の禁止は教育公務員に対しても同じであること,強制に従わない理由の妥当性等の審査に立ち入るまでもなく,国家シンポルの個人への強制という事柄の性質に注目して違憲判断を貫いてきたこと,などが明らかにされました。
さらに,国家シンポルの「尊重」は許容されるとしても「強制」は許されないという判断は,アメリカ合衆国のみならずヨーロッパ諸国も含めた国際基準であることが明らかにされました。
本件の問題の本質は「国家シンポルに対する敬意の強制」が許されるかです。
近代立憲主義に立脚し,さらに思想良心の自由を保障する憲法19条を有する日本において,「国家シンボルに対する敬意の強制」を許してしまってよいのか,国家が,国民に対し,自らに対する敬意の表明を強制する全体主義国家になり下がってしまってよいのか,裁判官諸氏の賢明な判断を期待して,私の陳述を柊わります。
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
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