=終わりと始まり(2011/2/1)=
☆ 歌わない自由 少数者の居場所を残せ
池澤夏樹
歌は情に属する。
人は自分の思いを歌うのだ。その時々、心に湧く感情を詞に乗せメロディーに乗せて、これぞ我が真情という思いを込めて、送り出す。
才能のある者は自ら歌を作るだろうが、凡人は記憶の中のたくさんのストックから選び出して歌う。カラオケの厖大なリストはそのためにある。
半世紀以上前に北海道に生まれたぼくにとって、「津軽海峡・冬景色」は情を込めやすい歌だ(「函館の女」はそうでもない)。二か月前にこの欄でちょっと触れた「手紙~拝啓十五の君へ」はまったく別の理由からぽくの情に訴える。
その一方、歌は個人をある一定の感情へ導くためにも使われる。
たくさんの人に同時に失恋の悲哀を味わわせるのではない。団体や組織への所属意識を鼓舞するのだ。具体的に言えば校歌・社歌の類。かつての軍歌にも似だような機能があった。
他の歌と識別するのは簡単、斉唱されるかされないかですぐわかる。百人とか千人が並んで「津軽海峡・冬景色」を歌う場面は想像できない。カラオケはデュエットまでだ。
斉唱の「斉」は「一斉」の「斉」。その典型が国歌である。日本国民であることをおのれの胸の内に確かめながら、願わくばそれを喜びとして、歌う歌。国の側からいえは国民を束ねるための歌。
入学式や卒業式で教師が「日の丸に向かっての起立や、君が代の斉唱とピアノ伴秦をしなければ処分する」という東京都教育委員会の通達について、これは違憲ではないという判決を東京高裁が出した(1月28目)。
「起立や斉唱の強制は憲法19条が保障する思想。良心の自由」を侵害しない、というのだ。では歌いたくない者はどうすれはいいのか?
より正確に書えは、歌わない自由もあるということを教師はどうやって生徒に教えれはいいのか?国歌を歌わない者は非国民である、というドグマを東京高裁は本当に支持するのか?
『キャバレー』というミュージカル映画があった。主演ライザ・ミネリ。ナチスが台頭する一九三〇年代初頭のベルリンが舞台。自由なキャバレーの芸人たちを主人公に、社会の雰囲気の変化を描いた傑作。「人生はキャバレー!」と歌うシーンがすはらしかった(今でもDVDはすぐに手に入る)。
その中の一場面。晴れた日曜日の午後、郊外の青空ビヤホールに人々が集って昼食を楽しんでいる。
一人の少年が立って歌い始める。ヒトラー・ユーゲントの制服を着た金髪碧眼の美少年。はじめ歌はゆっくりとドイツ・リート風のメロディーと国土を讃える歌詞で始まり、「明日は私のもの」というフレーズが何度も繰り返され、次第にピッチが速くなって、やがて勇壮なマーチのようになる。
食事をしていた人たちが一人また一人と立って歌に加わる。最後には全員がナチス讃歌を斉唱する。最後に少年は片腕を挙げてナチスの敬礼をする。
一人だけ歌わない者がいる。初夏なのに黒い上着をまとった老人。何か好ましくないものが通り過ぎるのを待つ、というような表惰でそっぽを向いている。彼はユダヤ人なのだろう。何か好ましくないものは通り過ぎることはなく、何年か後に彼とその同胞をアウシュビッツへ送った。
それでも、やがて命と共に失われるにしても、この時、この老人は歌わない自由を持っていた。
国民が一致団結している方が国は強い、と為政者は考える。彼らの理想は軍隊のような完壁な上意下達の組織だ。基本にあるのは国家のための国民という考え(大型トラックか戦車を運転しているような気分なのだろうが、その力の源はエンジンであって、為政者自身の筋力ではない)。
それが民主主義は多数決という欺瞞と重ねて使われる。小学生の頃からこの欺瞞を何度聞かされたことか。
昭和四十三年、「水俣病患者の百十一名と水俣市民四万五千とどちらが大事か」という言葉が水俣で広がった。実際には患者に対峙するのは水俣市民四万五千ではなく日本国民九干二百万人だった、とぼくは書いた(河出書房新社版「世界文学全集」の石牟礼道子『苦海浄土』の巻の解脱)。
日本中のみながチッソの製品の恩恵を受けていた。だから我慢して下さい、と患者に向かってあなたは言えただろうか?
多数の利のためにと称して少数者はいないことにする。長く水俣病と共に生きてきた医師原田正純さんが、「私たちが水俣病を決して終わらせてはいけないといっているのは、『終わった』と、いままでの歴史のなかで三べんも四へんもいわれた。原因はわかった、もう終わり。つまり、幕を閉めたい人たちがいるというわけです」と書いておられる(『水俣学講義』の「水俣病の歴史」の章)。
教師は生徒の全人格とつきあう。歌わない自由もまたその人格に含まれる、とぼくは考える。それな押しつぶす教師を都教委は作り出してはならない。(作家)
『朝日新聞』(2011/2/1 夕刊)
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫
☆ 歌わない自由 少数者の居場所を残せ
池澤夏樹
歌は情に属する。
人は自分の思いを歌うのだ。その時々、心に湧く感情を詞に乗せメロディーに乗せて、これぞ我が真情という思いを込めて、送り出す。
才能のある者は自ら歌を作るだろうが、凡人は記憶の中のたくさんのストックから選び出して歌う。カラオケの厖大なリストはそのためにある。
半世紀以上前に北海道に生まれたぼくにとって、「津軽海峡・冬景色」は情を込めやすい歌だ(「函館の女」はそうでもない)。二か月前にこの欄でちょっと触れた「手紙~拝啓十五の君へ」はまったく別の理由からぽくの情に訴える。
その一方、歌は個人をある一定の感情へ導くためにも使われる。
たくさんの人に同時に失恋の悲哀を味わわせるのではない。団体や組織への所属意識を鼓舞するのだ。具体的に言えば校歌・社歌の類。かつての軍歌にも似だような機能があった。
他の歌と識別するのは簡単、斉唱されるかされないかですぐわかる。百人とか千人が並んで「津軽海峡・冬景色」を歌う場面は想像できない。カラオケはデュエットまでだ。
斉唱の「斉」は「一斉」の「斉」。その典型が国歌である。日本国民であることをおのれの胸の内に確かめながら、願わくばそれを喜びとして、歌う歌。国の側からいえは国民を束ねるための歌。
入学式や卒業式で教師が「日の丸に向かっての起立や、君が代の斉唱とピアノ伴秦をしなければ処分する」という東京都教育委員会の通達について、これは違憲ではないという判決を東京高裁が出した(1月28目)。
「起立や斉唱の強制は憲法19条が保障する思想。良心の自由」を侵害しない、というのだ。では歌いたくない者はどうすれはいいのか?
より正確に書えは、歌わない自由もあるということを教師はどうやって生徒に教えれはいいのか?国歌を歌わない者は非国民である、というドグマを東京高裁は本当に支持するのか?
『キャバレー』というミュージカル映画があった。主演ライザ・ミネリ。ナチスが台頭する一九三〇年代初頭のベルリンが舞台。自由なキャバレーの芸人たちを主人公に、社会の雰囲気の変化を描いた傑作。「人生はキャバレー!」と歌うシーンがすはらしかった(今でもDVDはすぐに手に入る)。
その中の一場面。晴れた日曜日の午後、郊外の青空ビヤホールに人々が集って昼食を楽しんでいる。
一人の少年が立って歌い始める。ヒトラー・ユーゲントの制服を着た金髪碧眼の美少年。はじめ歌はゆっくりとドイツ・リート風のメロディーと国土を讃える歌詞で始まり、「明日は私のもの」というフレーズが何度も繰り返され、次第にピッチが速くなって、やがて勇壮なマーチのようになる。
食事をしていた人たちが一人また一人と立って歌に加わる。最後には全員がナチス讃歌を斉唱する。最後に少年は片腕を挙げてナチスの敬礼をする。
一人だけ歌わない者がいる。初夏なのに黒い上着をまとった老人。何か好ましくないものが通り過ぎるのを待つ、というような表惰でそっぽを向いている。彼はユダヤ人なのだろう。何か好ましくないものは通り過ぎることはなく、何年か後に彼とその同胞をアウシュビッツへ送った。
それでも、やがて命と共に失われるにしても、この時、この老人は歌わない自由を持っていた。
国民が一致団結している方が国は強い、と為政者は考える。彼らの理想は軍隊のような完壁な上意下達の組織だ。基本にあるのは国家のための国民という考え(大型トラックか戦車を運転しているような気分なのだろうが、その力の源はエンジンであって、為政者自身の筋力ではない)。
それが民主主義は多数決という欺瞞と重ねて使われる。小学生の頃からこの欺瞞を何度聞かされたことか。
昭和四十三年、「水俣病患者の百十一名と水俣市民四万五千とどちらが大事か」という言葉が水俣で広がった。実際には患者に対峙するのは水俣市民四万五千ではなく日本国民九干二百万人だった、とぼくは書いた(河出書房新社版「世界文学全集」の石牟礼道子『苦海浄土』の巻の解脱)。
日本中のみながチッソの製品の恩恵を受けていた。だから我慢して下さい、と患者に向かってあなたは言えただろうか?
多数の利のためにと称して少数者はいないことにする。長く水俣病と共に生きてきた医師原田正純さんが、「私たちが水俣病を決して終わらせてはいけないといっているのは、『終わった』と、いままでの歴史のなかで三べんも四へんもいわれた。原因はわかった、もう終わり。つまり、幕を閉めたい人たちがいるというわけです」と書いておられる(『水俣学講義』の「水俣病の歴史」の章)。
教師は生徒の全人格とつきあう。歌わない自由もまたその人格に含まれる、とぼくは考える。それな押しつぶす教師を都教委は作り出してはならない。(作家)
『朝日新聞』(2011/2/1 夕刊)
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫