心がくたびれたある平教員

 「勤務評定」も定着した。
 Cをつけよと指導された「平目」校長は何が何でも誰かにCをつけようとする。C評価の説明を求めると、教育に対しての熱意を感じ取れないとの副校長報告があったため、という説明を受けた教員もいる。自分の判断に自信がないから副校長にも悪事の片棒をかつがせるのは何と卑劣なことか。
 さらに講師にさえCをつける校長もいると聞く。細切れの時間にあわせて来ていただき、どのようなクラスも不平を言わず受け持ってもらっている講師には感謝こそすれ、正気ならば決してCはつけられない。C評価を2年連続でつけられると講師はすべての契約を解除され失職するのである。
 たまたま誰がやっても騒々しいクラスで苦闘している姿を管理職が「観察」してCをつけておきながら、その後の授業公開にて日常から静かなクラスでの講師の授業をみて、自分の「助言指導」が効果を発揮したと、かの校長は主張したそうである。
 その助言指導というのも、生徒をおとなしくさせるために出席簿などでだんっと教卓をたたいたらいかがという、お粗末なものである。自己の貧困な教育実践を平然と「助言指導」といってのける管理職の詐欺的発言は当然指弾されるべきである。このことは講師の方がその学校をあきれて辞めたため、その職場ではほとんど知られていないと聞く。


 「新人の休職」も痛ましい。
 新採や若手教員が次々と倒れていっても、管理職は個人の問題として決して組織や制度の問題であることを認めようとはしない。週1回の新採研修に意味があるのだろうか。研修講師や指導主事自身、彼らの教員時代に、生徒や授業が苦手で担任を逃げまくったり、勤務時間を無視して10時ごろに出勤したり、考査期間終了後に無届けで海外旅行を平然と行う人物がいたのだが、そんな彼らが新人教員に向かって適正な服務の遵守とか言えるのだろうか。さらに指導主事職自体からも休職者が複数出ている事実をどう説明するのか。また指導主事や管理職、主幹教員、主任教員選考の受験者が満足に揃わない現状を教育行政はどのように釈明するのであろうか。この状態をもって教育の正常化と言い続けるのか。

 最後にある人物のことについて述べてみたい。彼は昔あった研修日にはマリンスポーツやスキーなどで遊び倒し、生徒の遠足にはバーベキューセットを持ち込んで生徒そっちのけで飲み食いをし、さまざまやりたい放題の教員生活を送っていた。それが「教頭」試験に合格し、あちこちの学校で周年行事や改築、閉校・開校業務等の長い長い下積みを経てようやく現在、校長(元英語科)になっている。
 この人物になぜ管理職試験を受けたのか、彼が「教頭」任用後に聞いてみる機会があった。彼が言うには「これから都の指導が厳しくなるから、指導される側よりも指導する側にまわった方が得」というものである。自分が都からいいように使い回されていることを認識せず、指導する側にまわったつもりでいることには腹立たしさを超えて、憐憫の情すら感じる。本当にお疲れ様でした。
 今都立高校では、退職した教員がうらやましい、宝くじでも当てて早く仕事を辞めたいと考える教員が増えてきたように感じる。都立高校の教員は今まさに自分が生き残ることで精一杯の戦国時代のような状況にある。このような状況が「教育公務員としての正しい在り方」というならば、それはもう喜劇であろう。都立高校が今後どうなるのか、想像もつかないが、PCに関する諸通達の次に、どんなにひどいヒステリックな締め付けが行政から行われるか、ちょっとわくわくしている自分にも怖さを感じる今日この頃である。

おわり

『藤田先生を応援する会通信』第45号(2011/1/14)から

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