最高裁は「表現そのものを処罰すること」の憲法適合性を判断せよ!
■□■ 第8回最高裁要請行動1月28日(金)10:15最高裁東門集合 ■□■
◎ 板橋高校卒業式事件・顛末記<29>
「マガモ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
二審は老獪なる裁判長・須田まさるのもとで始まった。 まさると書いたのは、漢字が出てこないのだ。
単漢字、人名地名で検索しても出てこない。賢という字の又の部分が、虫なのである。
最初、いけにえとかえびとか言ってみていた。
親が漢学者なのであろうか。
人の名は難しい。 姓名判断で最高と言われた山口二矢が、あのような結果となった。
最後の勤務校、青井には、姓名判断の大家と呼ばれる方の息子がいた。
私の名と生年月日を託した。 曰く、「この人物は有名になる!」
私は一笑に付した。
もう60過ぎて嘱託の身、有名も糸瓜もあったもんじゃない。
それがとんだことで、2ちゃんねらーには携帯の番号を繰り返し晒されるほどに有名となってしまった。
馬鹿にしてまことに失礼の極みであった。
ところで裁判官は死刑判決を出す。 どういう気分なのであろう。
私には無理だ。 彼らは一種の怪物である。
訴訟指揮についてだが、弁護側に便宜を与えて訴訟の支障なき進行を意図する裁判官がいる。
結論は、逆なのであるが。 いわば一種の騙しのテクニックとでも言おうか。
膨大な案件の殺到する中で些かの同情は禁じ得ないが、スピード処理の方便であろう。
裁判は、裁判官にとっては検察との共同作業である。
そういう中で今回の堀越事件の「無罪判決」はまことに画期的であった。
何が画期的かというと、国際的な動向に触れたことである。
日本という国は、黒船が来航しないと中からはなかなか変わらない。
そこで我々弁護団も、ヨーロッパの人権事情、表現の自由に卓抜な見識をもつベルギーの教授の助力を頼むこととした。
今日が2010年4月5日、4月30に最高裁に教授の意見書を出す。
それまでに結論が出てしまう可能性もおおいにありであるが。
この教授に個人的に質問したことがある。
「パリの真夏にシャンゼリゼ通りで、幼児を手に乗せ差し出して、金を求めている女がいたが、これは直ちに保護しないのか」と。
「子どもをどう扱うかは、母の権利である」
「熱い夏の陽光に晒されて、幼児虐待でないのか」
「警察がそれらに動くことは、人の自由行為を阻害する懸念がある」
言葉が通訳を通さなくてはならないというのは、意思の疎通には実に不適であった。
ロマ人は、人間として見られていないのではないか。
ヨーロッパの人種問題は、その差別問題は複雑かつ根が深い。
昔、ロンドンでは幼児を3人連れた若い女性に地下鉄の通路で声を掛けられた。
「てんし! てんし!」と言っている。 最初ピンとこなかった。
その纏っている服のくずれた感じに、「ああー、金か!」と気づいた。
小学生の時、下高井戸に住んでいてよく新宿に行った。
京王線が最後新宿に近づくとき、甲州街道をくねくねと走る。
新宿のホームは地上と同じ高さであり、電車を降りるとそのまますぐに西口の街中に出れる。
東口に行くには、狭いトンネルを通る。
そのトンネルに何年のことかは記憶ないが、びっしり人が住んでいた。
真ん中の通路だけが2メートルぐらい空いていたように思う。
T高校の英語の教員は、上野の地下道で暮らしていたと言っていた。
笹塚の映画館では「千姫」と一緒に「特攻隊の映画」をやっていて、敵艦に当たると場内から歓声が上がった。
国語担当の安藤さんは、映画「トラトラトラ」をテレビで見ていて、日本の飛行機が落ちるたびに「よし!」と言った。
あの時の笹塚の映画館で言ったら彼は殴られていただろう。
笹塚の隣の明大前には本願寺があって、よく蝉取りに行った。
もう20年ほど前か、佃のK氏と墓参りに行った。
佃の漁師が明大前の本願寺の最も中心の地所を占有している。
そこにK氏の親の墓があったのだ。
本願寺の端の方に、東条英機の墓が建立されていた。
雑司ケ谷の東条家の墓は知る人多いが、ここは知られていないようだ。
庶民的な小さな墓である。
清水建設の耐震墓である。
墓と言えば、うちの親父は、「俺は、墓を持つ資格がない」とふと洩らしたことがある。
戦争の話はほとんどしたことないが、それでも1年に1、2回ぐらいは語った。
中国戦線を駆けずりまわり、満州に行き、最後はルソンであった。
戦後、狭い部屋の箪笥の上の引き戸に「金鵄勲章」と「参謀肩飾」があったのを覚えている。
傷病兵を、「日本に帰りたい」というので海辺に連れて行き艦砲射撃の餌食とさせた。
この陸軍第4空軍は、司令官が逃亡、ひとり残留指揮者となったのがうちの親父であった。
3000の兵を引き連れ、名も「天誅隊」と改名し、山中に篭り、ゲリラ戦というか逃亡戦を試みた。
蛇、鳥を捕獲した。ネズミも食った。
小説、『1984年』の主人公は、顔面を齧りに来るねずみの拷問に屈して自白させられた。
北朝鮮の政治犯収容所ではねずみは最高の食料であるという。
人に取られないために保安員に見つからないためにか、ねずみを取ったらその瞬間生のまま齧り付くという話まである。
シベリアでは、ねずみはいたのであろうか。
敗戦後も2カ月逃亡戦を試み、最後は完全武装で行進し投降した。
日本陸軍最後の戦闘部隊であったのか。
愚かなことをしたものだ。9割の兵が犠牲となった。
「沢山、殺してしまった、 だから墓もつ資格はない」ということだ。
ある時、その親父がテレビを見ていた。
テレビでは、天皇の戦争責任が否定的に取り上げられていた。
突如、親父が怒鳴った。 「天皇に責任がないなんて、馬鹿なこと言うな!」と。
天皇陛下の御為に戦場を駆けずりまわったのだ。
戦後の価値観の逆転は心に限りない喪失感を生んだことであろう。
戦後、魚屋となって、海外漁業という会社に勤めていた時、海外の拠点を視察によく飛行機に乗っていた。
ある日、「乗るたびに、このまま落ちればいいと思っている」と洩らした。
山に出かけた時、親父が「平和っていいなあ」と言ったのに対して、同乗していた私の息子は「なに言ってんだ」と異様に反発した。 親父に聞こえるようには言わなかったが。
それで、私も高校生のころ親父に向かって、「戦犯が何を言うか!」と言ってしまったことを思い出した。
伯父さんに話したらえらく怒られた記憶がある。
若い時に信じ込みそのために命を懸けた価値観が転倒したら、大変なことだ。
いま思うと、親父の戦後は戦友の呼ぶ声とともにあったのかも知れない。
「戦犯」というと思いだすことがある。
賀屋興宣の個人演説会に行った時、賀屋に対して「おい、戦犯がなにを言うかあ!」と大きい声で野次ったことがあった。
会場から引っ張り出された。 引っ張った男は、小杉隆と名乗った。
その男、のち文部大臣となって、今は尾花打ち枯らしている。
この「大臣」という言葉、なんとかならんものかなあと使うたびに思う。
「天皇」という言葉もそうだが。
昔、新宿西口を歩いていたら、「天皇」「皇后」という2匹の犬を連れている男に出会った。
富永順一であった。 彼の本は面白かった。
親父が91歳で亡くなってしばらくしたら、自宅に電話がかかってきた。
元の戦友と言う。 池袋の三越のライオンの前で会うこととなった。
その方は93歳という。百貨店の食堂で会食した。
異様に大きな音を発する機関銃を中国戦線で開発したとの話がメーンであった。
親父とは戦闘後、一晩語り明かしたとかの思い出を語った。
戦後、自衛隊に入ったという。 そう言えば、親父にも勧誘があった。
ある時、親父が「自衛隊に入ろうと思う、どう思う?」と小学生5年の私に聞くから、反対した。
「やめな」と言ったのは明確に記憶にあるが、なぜそう言ったかはわからない。
その一言を言わなかったら、親父も息子たる私の人生もだいぶ違ったものとなったのは確かだ。
その方に聞いた。「自衛隊で昔の位でいうとどこまで行ったんですか?」
「少将です」と彼は答えた。
少将はお子様ランチを注文した。
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
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