《新勤評を許さない12・19全国集会 報告・資料》
◆ 大阪・新勤評反対訴訟 中田鑑定意見書<2>
第2 専門職たる教員に求められる資質とは何か、その資質を向上させるためにはいかなる方法や手段が妥当か
(1)専門職たる教員の資質とは何か
教師の職務は主として教科指導、生活指導の領域に分けられる。そのいずれにおいても、内容に関する専門的知識、技能、教育の対象である子ども理解、といった点で精通していることが求められる。
また、学習権保障の主体として、学校教育の共同実施者である同僚教師はもとより、子どもや保護者を含むさまざまな教育関係者の教育要求を組織化できることが、集団的営みとしての教育を行う上で重要である。
(2)学校教育は教員の協働活動で遂行されているが、教育の資質の向上と教育の協働性は関係しているか
教育は集団的営みであり、さまざまな教育関係者の教育要求を組織化することで達成されるものである。したがって、そこで求められる実践的力量は、現場での協働の経験によって形成されることになる。
教員に求められる資質には、専門的知識・技能のように個人に還元されるものも含まれるが、課題を共有し、協働で解決することによって、よりよい職務の遂行が期待される。協働が不可欠である以上、同僚性や協働性を損ねるようなかたちで資質向上が行われるのは、むしろ本末転倒である。
(3)教員の資質の向上のために、目に見える成果を定めその達成度によって給料額を定める制度は効果をあげるものか否か
成果が待遇に反映される成果主義が従業員の士気向上に結びつく例がまったくないわけではない。しかし教育の世界に成果主義を持ち込むことにはきわめて慎重にならざるをえない。
第一に、教育の成果は短期間であがるものではない。本件システムでは一年を期間として達成度を測定しているが、このようなシステムにおいては、一年以内で達成可能なものに目標が偏ることになりがちで、長期的視点を失わせる。
短期的に成果があがりにくいものは優先順位をさげられる。つまり校長が設定する学校教育目標とは別に、システムそのものが個々の教員の設定目標を誘導する効果を持っている。
第二に、教育の成果は可視的なものばかりとは限らない。
子どもの発達成長は時間を経る中で浮かび上がってくるものである、教師が自らの教育活動の達成度をふりかえることは重要だが、客観化という名のもと可視化される指標にごだわると、数値化しにくいものは優先順位をさげられる。これもまた、成果主義のシステムそのものが個々の教員の設定目標を、ひいては教育活動の方向性な誘導する効果である。
第三に、原資が拡大しないところでは成果主義は士気の向上をもたらしにくい。
努力が利潤の増大となって原資の拡大につながるところでは、拡大した部分を成績に応じて配分する分には組織構成員の志気は下がらない。しかし原資が固定されているところに成果主義を導入すると、傾斜配分するためには必然的に相対評価を採用せざるをえなくなる。これでは全体の成果を向上させようという協働性は生みだされず、むしろ構成員間の分裂的競争を生む。
第四に、評価を待遇に連動させる査定とすると、原資が固定された状態では相対評価を導入せざるをえず、「調整」が必要となる。この「調整」は予算配分の都合で行われるものなので、待遇は評価結果を正しく反映したものにならない。これが評価過程の透明性を損ね、制度への信頼を低下させる。
第五に、査定としての効果と資質向上としての効果を同一評価制度内で行うことは困難である。
教師が職務を遂行するには専門的自律性を発揮できることが必要であり、それには身分・待遇の安定が必要である。校長が設定した学校教育目標の枠内で、達成度に応じて給料額を定めることは、教師の専門的自律性を制約し、教育活動を実質的に誘導・規制するものである。
(4)教育活動における教員の協働性が崩れた場合は、教員の資質向上や子どもの学習権保障にいかなる影響を及ぼすか。
協働性が崩れると、さまざまな関係者の教育要求を組織化することが困難になり、適切なかたちでの学習権保障が困難になる。また、教員の資質向上のあり方も個別化されるため、経験が共有されずに研修の効率性が低下するだけでなく、集団的に解決すべき問題への対応するための資質向上が後回しになるおそれがある。
専門家としての教師の資質向上は、教育実践の成果を相互に確認しあう中で自主的・自律的に行われるものである。現状としてかりに十分に行われていないとしても、それは目的の集団的設定・協議による到達点の確認といった機会や時間的ゆとりが確保されていないという点に問題があるのであって、短期間に学校長が設定した学校経営方針を前提とした目標設定の自己申告を強制することによって克服できるものではない。
第3.大阪の「評価・育成システム」において、同システムは「教員の資質向上」目的にしているが、その目的にふさわしい効果をあげうる制度となっているか
(1)CEARTの勧告や国際的比較などから、校長が学校教育目標を設定する制度はどのように評価されるか
1966年のILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」にもとづき設置された共同専門家委員会(CEART)は、ILO及びユネスコ執行委員会によって1996年の「教員の地位に関する勧告」、1997年のユネスコ「高等教育教員に関する勧告」の適用を監視・促進する権限を与えられている。
CEARTは2008年4月に調査団を日本に派遣し、本件システムを含む教員評価制度を調査し、同年十一月にILO理事会に中間報告書を提出した。
この報告書では、
①専門職として明らかに不適切な行為で、懲戒が学習者及び教育制度全体の利益に適うものである場合を除き、懲罰的な性格の強い規律措置を講じようとするのではなく、専門的な支援と再研修に重点がおかれているか」が問題の核心である(第6項)、
②「教員の給与その他の勤務条件に影響する業績評価制度の効果は、明らかに交渉の対象に含まれる」(第30項)、
③教員評価制度の検証と修正は「同僚性と専門職的協働という周知の日本的特質に依拠しておこなわれるべきである」、と指摘されている。
また、本件システムと類似した教員評価制度をもつアメリカやイギリスでは、校長の方針が教師に共有される機会は設けられるものの、校長が設定する学校教育目標の枠内で個々の教師の目標を設定しなければならない、といった制約はない。
校長と各教職員が目標設定面談を行うという形式は共通しているが、個々の教師が自己申告する目標を校長が共有し、必要に応じて助言するといった性格のものである。目標の達成度は年度末に校長面談で確認されるが、それはあくまでも次年度に向けた課題の確認のためのものである。細かく相対評価され、査定に利用されるものではない、という点で、制度の性格を異にしている。
国際的視点からみれば、教師による目標の自己申告が校長の裁量の枠内に制約されるというシステムはきわめて特殊なものだといわざるをえない。
(2)本システムは「目標管理型システム」であるが、その制度の具体的内容は公正さや適正さを具備しているか否か
評価に基づく待遇決定は、教師の経済的地位に直接影響するだけに、単なる資質向上としての評価と比べ、透明性・客観性といった公正さの確保が求められる。
ここで必要となるのは、評価結果の本人開示(透明性の確保)と不服申し立て手続の整備である。
前者については、第一次評価だけが開示されるのでは意味がない。「調整」も含めて評定のプロセスである以上、本人開示されない限り、不透明だといわざるをえない。
また不服申し立てについては、適正手続(デュープロセス)の保障として、実質的に利用可能な制度として整備されていること、中立性が保持されていることが要請される。
最終評定者である教育委員会内に不服申し立て審査機関が設けられ、審査委員が教育委員会関係者で構成されるとすれば、それは中立性を欠く人的構成だといわざるをえない。
(3)「目標管理型」が適正であり、かつ、効果をあげる制度であるためには、教員の場合、いかなる要素、条件等が必要か。
「目標管理型」のすべてが評価システムとして不適切であると直ちに断定することはできないが、(2)で述べた要件を欠く制度は、制度設計としても運用としても適正さを欠くといわざるをえない。とりわけ公正性については実体的側面と手続的側面の双方において公平かつ透明であることが求められる。
実体的側面とは、①教師の資質向上という制度目的が達成されるものであるか、②教師が職務を遂行するうえで必要な専門的自律性の発揮を損ねるものではないか、といった点であり、
手続的側面とは、①制度設計において当事者の参加がなされていたか、②評価項目・基準の設定と運用は妥当なものであるか、③評価結果という個人情報が本人開示されているかどうか、といった点である。
制度が効果的に運用されるためには、制度の趣旨が当事者に理解・共有され、合目的性・公正性という点で妥当なものであると当事者によって承認されることが必要である。いかに精密に設計された制度であっても、当事者の納得をえられないようでは効果的に機能しない。
教員の場合特に重要なのは集団的な目標設定、すなわち個々の設定目標の準拠枠となるはずの学校教育目標を教職員集団で設定・共有することである。
自らが関与して設定した学校教育目標であれば、自己の目標とも関連づけやすく、意味を見出すことができる。それによって度の妥当性に対する信頼も生じる。逆にこうした過程が欠如している場合、トップダウンの制度となり、当事者の納得を調達することが困難になる。
第4.本件大阪の「評価・育成システム」において、自己申告票を提出させて、個別面談、個別評価を経て給与反映をする方策は、教員の資質向上や学校活性化をもたらすものか、それとも、教育活動全般に弊害を及ぼすものか
本件大阪の「評価・育成システム」にはいくつかの重要な欠陥がみられる。
アメリカやイギリスのように、自己申告票の提出・側別面談・個別評価を資質向上につなげる形で運用しているところもある。本件システムは資質向上を目的と掲げながらも、資質向上策としてセットで用意されるべき研修制度が欠如するばかりか、資質向上の課題を浮かび上がらせることができず、所与の目的を達成できないものとなっている。
むしろ制度に対する不信と、士気の低下をもたらす制度となっており、教育活動への悪影響が懸念される。
また、教師の専門的自律性と教育の自由を制約し、教師の職務遂行を困難にさせるものであるという点で重大な問題を抱えているといわざるをえない。
結 論
本件「教職員の評価・育成システム」は、学校長により設定された学校教育目標により教師の教育活動を制約する可能性をはらむ点で、教育に対する多大な弊害をもたらすものである。
こうしたシステムを設置・運用することは、教育に対する不当な支配を行う違法なものだといわざるをえない。
しだがって、自己申告票の前提となっている本件システムが違法なものである以上、自己申告票の提出義務は存在しないと解すべきである。
(完)
『大阪・新勤評反対訴訟』http://www7b.biglobe.ne.jp/kinpyo-saiban/saiban/index.html
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫
◆ 大阪・新勤評反対訴訟 中田鑑定意見書<2>
第2 専門職たる教員に求められる資質とは何か、その資質を向上させるためにはいかなる方法や手段が妥当か
(1)専門職たる教員の資質とは何か
教師の職務は主として教科指導、生活指導の領域に分けられる。そのいずれにおいても、内容に関する専門的知識、技能、教育の対象である子ども理解、といった点で精通していることが求められる。
また、学習権保障の主体として、学校教育の共同実施者である同僚教師はもとより、子どもや保護者を含むさまざまな教育関係者の教育要求を組織化できることが、集団的営みとしての教育を行う上で重要である。
(2)学校教育は教員の協働活動で遂行されているが、教育の資質の向上と教育の協働性は関係しているか
教育は集団的営みであり、さまざまな教育関係者の教育要求を組織化することで達成されるものである。したがって、そこで求められる実践的力量は、現場での協働の経験によって形成されることになる。
教員に求められる資質には、専門的知識・技能のように個人に還元されるものも含まれるが、課題を共有し、協働で解決することによって、よりよい職務の遂行が期待される。協働が不可欠である以上、同僚性や協働性を損ねるようなかたちで資質向上が行われるのは、むしろ本末転倒である。
(3)教員の資質の向上のために、目に見える成果を定めその達成度によって給料額を定める制度は効果をあげるものか否か
成果が待遇に反映される成果主義が従業員の士気向上に結びつく例がまったくないわけではない。しかし教育の世界に成果主義を持ち込むことにはきわめて慎重にならざるをえない。
第一に、教育の成果は短期間であがるものではない。本件システムでは一年を期間として達成度を測定しているが、このようなシステムにおいては、一年以内で達成可能なものに目標が偏ることになりがちで、長期的視点を失わせる。
短期的に成果があがりにくいものは優先順位をさげられる。つまり校長が設定する学校教育目標とは別に、システムそのものが個々の教員の設定目標を誘導する効果を持っている。
第二に、教育の成果は可視的なものばかりとは限らない。
子どもの発達成長は時間を経る中で浮かび上がってくるものである、教師が自らの教育活動の達成度をふりかえることは重要だが、客観化という名のもと可視化される指標にごだわると、数値化しにくいものは優先順位をさげられる。これもまた、成果主義のシステムそのものが個々の教員の設定目標を、ひいては教育活動の方向性な誘導する効果である。
第三に、原資が拡大しないところでは成果主義は士気の向上をもたらしにくい。
努力が利潤の増大となって原資の拡大につながるところでは、拡大した部分を成績に応じて配分する分には組織構成員の志気は下がらない。しかし原資が固定されているところに成果主義を導入すると、傾斜配分するためには必然的に相対評価を採用せざるをえなくなる。これでは全体の成果を向上させようという協働性は生みだされず、むしろ構成員間の分裂的競争を生む。
第四に、評価を待遇に連動させる査定とすると、原資が固定された状態では相対評価を導入せざるをえず、「調整」が必要となる。この「調整」は予算配分の都合で行われるものなので、待遇は評価結果を正しく反映したものにならない。これが評価過程の透明性を損ね、制度への信頼を低下させる。
第五に、査定としての効果と資質向上としての効果を同一評価制度内で行うことは困難である。
教師が職務を遂行するには専門的自律性を発揮できることが必要であり、それには身分・待遇の安定が必要である。校長が設定した学校教育目標の枠内で、達成度に応じて給料額を定めることは、教師の専門的自律性を制約し、教育活動を実質的に誘導・規制するものである。
(4)教育活動における教員の協働性が崩れた場合は、教員の資質向上や子どもの学習権保障にいかなる影響を及ぼすか。
協働性が崩れると、さまざまな関係者の教育要求を組織化することが困難になり、適切なかたちでの学習権保障が困難になる。また、教員の資質向上のあり方も個別化されるため、経験が共有されずに研修の効率性が低下するだけでなく、集団的に解決すべき問題への対応するための資質向上が後回しになるおそれがある。
専門家としての教師の資質向上は、教育実践の成果を相互に確認しあう中で自主的・自律的に行われるものである。現状としてかりに十分に行われていないとしても、それは目的の集団的設定・協議による到達点の確認といった機会や時間的ゆとりが確保されていないという点に問題があるのであって、短期間に学校長が設定した学校経営方針を前提とした目標設定の自己申告を強制することによって克服できるものではない。
第3.大阪の「評価・育成システム」において、同システムは「教員の資質向上」目的にしているが、その目的にふさわしい効果をあげうる制度となっているか
(1)CEARTの勧告や国際的比較などから、校長が学校教育目標を設定する制度はどのように評価されるか
1966年のILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」にもとづき設置された共同専門家委員会(CEART)は、ILO及びユネスコ執行委員会によって1996年の「教員の地位に関する勧告」、1997年のユネスコ「高等教育教員に関する勧告」の適用を監視・促進する権限を与えられている。
CEARTは2008年4月に調査団を日本に派遣し、本件システムを含む教員評価制度を調査し、同年十一月にILO理事会に中間報告書を提出した。
この報告書では、
①専門職として明らかに不適切な行為で、懲戒が学習者及び教育制度全体の利益に適うものである場合を除き、懲罰的な性格の強い規律措置を講じようとするのではなく、専門的な支援と再研修に重点がおかれているか」が問題の核心である(第6項)、
②「教員の給与その他の勤務条件に影響する業績評価制度の効果は、明らかに交渉の対象に含まれる」(第30項)、
③教員評価制度の検証と修正は「同僚性と専門職的協働という周知の日本的特質に依拠しておこなわれるべきである」、と指摘されている。
また、本件システムと類似した教員評価制度をもつアメリカやイギリスでは、校長の方針が教師に共有される機会は設けられるものの、校長が設定する学校教育目標の枠内で個々の教師の目標を設定しなければならない、といった制約はない。
校長と各教職員が目標設定面談を行うという形式は共通しているが、個々の教師が自己申告する目標を校長が共有し、必要に応じて助言するといった性格のものである。目標の達成度は年度末に校長面談で確認されるが、それはあくまでも次年度に向けた課題の確認のためのものである。細かく相対評価され、査定に利用されるものではない、という点で、制度の性格を異にしている。
国際的視点からみれば、教師による目標の自己申告が校長の裁量の枠内に制約されるというシステムはきわめて特殊なものだといわざるをえない。
(2)本システムは「目標管理型システム」であるが、その制度の具体的内容は公正さや適正さを具備しているか否か
評価に基づく待遇決定は、教師の経済的地位に直接影響するだけに、単なる資質向上としての評価と比べ、透明性・客観性といった公正さの確保が求められる。
ここで必要となるのは、評価結果の本人開示(透明性の確保)と不服申し立て手続の整備である。
前者については、第一次評価だけが開示されるのでは意味がない。「調整」も含めて評定のプロセスである以上、本人開示されない限り、不透明だといわざるをえない。
また不服申し立てについては、適正手続(デュープロセス)の保障として、実質的に利用可能な制度として整備されていること、中立性が保持されていることが要請される。
最終評定者である教育委員会内に不服申し立て審査機関が設けられ、審査委員が教育委員会関係者で構成されるとすれば、それは中立性を欠く人的構成だといわざるをえない。
(3)「目標管理型」が適正であり、かつ、効果をあげる制度であるためには、教員の場合、いかなる要素、条件等が必要か。
「目標管理型」のすべてが評価システムとして不適切であると直ちに断定することはできないが、(2)で述べた要件を欠く制度は、制度設計としても運用としても適正さを欠くといわざるをえない。とりわけ公正性については実体的側面と手続的側面の双方において公平かつ透明であることが求められる。
実体的側面とは、①教師の資質向上という制度目的が達成されるものであるか、②教師が職務を遂行するうえで必要な専門的自律性の発揮を損ねるものではないか、といった点であり、
手続的側面とは、①制度設計において当事者の参加がなされていたか、②評価項目・基準の設定と運用は妥当なものであるか、③評価結果という個人情報が本人開示されているかどうか、といった点である。
制度が効果的に運用されるためには、制度の趣旨が当事者に理解・共有され、合目的性・公正性という点で妥当なものであると当事者によって承認されることが必要である。いかに精密に設計された制度であっても、当事者の納得をえられないようでは効果的に機能しない。
教員の場合特に重要なのは集団的な目標設定、すなわち個々の設定目標の準拠枠となるはずの学校教育目標を教職員集団で設定・共有することである。
自らが関与して設定した学校教育目標であれば、自己の目標とも関連づけやすく、意味を見出すことができる。それによって度の妥当性に対する信頼も生じる。逆にこうした過程が欠如している場合、トップダウンの制度となり、当事者の納得を調達することが困難になる。
第4.本件大阪の「評価・育成システム」において、自己申告票を提出させて、個別面談、個別評価を経て給与反映をする方策は、教員の資質向上や学校活性化をもたらすものか、それとも、教育活動全般に弊害を及ぼすものか
本件大阪の「評価・育成システム」にはいくつかの重要な欠陥がみられる。
アメリカやイギリスのように、自己申告票の提出・側別面談・個別評価を資質向上につなげる形で運用しているところもある。本件システムは資質向上を目的と掲げながらも、資質向上策としてセットで用意されるべき研修制度が欠如するばかりか、資質向上の課題を浮かび上がらせることができず、所与の目的を達成できないものとなっている。
むしろ制度に対する不信と、士気の低下をもたらす制度となっており、教育活動への悪影響が懸念される。
また、教師の専門的自律性と教育の自由を制約し、教師の職務遂行を困難にさせるものであるという点で重大な問題を抱えているといわざるをえない。
結 論
本件「教職員の評価・育成システム」は、学校長により設定された学校教育目標により教師の教育活動を制約する可能性をはらむ点で、教育に対する多大な弊害をもたらすものである。
こうしたシステムを設置・運用することは、教育に対する不当な支配を行う違法なものだといわざるをえない。
しだがって、自己申告票の前提となっている本件システムが違法なものである以上、自己申告票の提出義務は存在しないと解すべきである。
(完)
『大阪・新勤評反対訴訟』http://www7b.biglobe.ne.jp/kinpyo-saiban/saiban/index.html
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫