《再雇用拒否撤回第2次訴訟第5回口頭弁論(2010/12/13)原告意見陳述》<1>
 ◎「強制」からは“生きる力”は育ちません

原告 村田敏雄

 1 経歴・教育実践・・・“自主性と民主主義の大切さ”を重視して教育してきました

 私は、1977年4月より都立明正高等学校全日制に赴任し、2009年3月に定年退職するまでの32年間、理科の教員として5つの学校を経験しました。私が入学式において不起立による職務命令違反として処分の対象となったのは4校目の松原高校定時制に勤務していた2004年4月7日の入学式です。
 私は昨年3月末、不起立から4年11か月と3週間が経過したところで定年退職しました。東京都は処分から5年経過したものは非常勤教員に採用しています。私は5年に6日足りなくて非常勤教員不採用となりました。

 私は退職するまで7回ホームルーム(HR)担任を経験しました。HR担任をするときには、生徒たちの“自主性と民主主義の大切さ”を重視して運営してきました。
 クラスで問題が生じたときなどは、リーダーたちを中心にどうすれば解決できるかを考えさせ、クラスに解決案を提案させ、私は常に相談役となり、また解決のヒントを与えたりしてHR運営をしてきました。


 生徒たちは自由な発想で考え、判断し、同時に民主主義の大切さを身につけていきました。私の考えと生徒の考えが一致しないときは、徹底的に話し合いました。教師の考えを押し付けることは教育ではありません。生徒が理解し、納得するまで時間をかけて説得し、指導してきました。
 いわゆる「10.23通達」以前の明正高校における卒業式の時、生徒たちは、壇上で思い切り喜びを表現したいと言ってきたことがあります。
 しかし、厳粛に壇上に登ってほしいという私の考えと衝突しました。ここで私の考えを押し付けたら、私のこれまでの指導は意味がなくなってしまいます。生徒たちと納得するまで話し合いました。
 生徒たちは私の考えを理解し、静かにそして胸を張って登壇しました。心が通じ合って十分な話し合いがあれば、式場に「日の丸」がなくても厳粛な式の進行は可能なのです。
 卒業式は教師にとって最後の授業でもあります。教師自身が、押し付けられることに従順にならず、自主的判断をする能力を備えてこそ、生徒に自信を持って教育ができたのだと思います。生徒が私の教育実践を受け止めて成長してくれたことに喜びを感じました。

 2校目の代々木高校の卒業式は対面式でおこなったことがあります。私たち卒業学年の教員や生徒たちの意向を、職員会議で全教職員が真剣に協議し、尊重してくれて実現しました。
 同じフロアーで卒業生と在校生が向かい合う形式で、緊張の中にも和やかさがあり、私の心に残る最も印象深い卒業式です。そこには「日の丸」や「君が代」の一律な押し付けはなく、あるのは生徒の教育になることならなんでも自由に話し合える職員会議と、自分たちで創りあげた達成感に満ちた卒業式でした。
 整然と粛々と、ときには卒業生から和やかに笑い声も聞こえてくる楽しい卒業式でした。当時の校長も「フロアー形式は初めてだけど、生徒と目線が同じでとても親しみやすく、式辞も語しやすかった。なかなか良いね」と言ってくださいました。
 来賓の方からも保護者の方からも、「けしからん」などという声は全く聞こえてきません。むしろその逆で、「感動的でした」「息子(娘)の顔が見える卒業式で本当によかった」と言ってくださったのです。

 最終勤務校となった大森高校全日制で、HR担任を務めたときのことです。
 1年生の3学期に、他のクラスの生徒が、ある教科で指導がこじれ、教員と対立し、結果謹慎指導となりました。生徒と保護者はその結論に納得できず、約1か月以上もさらにこじれる事態が続いていました。
 2年生になるクラス替えのとき、校長は私にこの生徒の担任になって欲しいと頼んできました。私はこの生徒と春休み中、毎日のように何時間も話し合いました。保護者とも話し合い、納得してもらいました。
 この生徒は私のクラスに入り、笑顔で高校生活をおくるようになり、生徒会役員まで務めて卒業していきました。頭ごなしの強制は教育でも指導でもありません。

 生徒、保護者、そして校長や同僚の教員にも信頼されてきたからこそ、私は自分なりに満足できる結果を残せてきたものと思っています。
 私が不起立によって処分された時、また非常勤教員を採用拒否された時も、当時の管理職の先生は、「なぜこんなに生徒思いの先生を処分するんだ」、「なんでこんないい先生を都立高校から追い出すんだ」と涙を浮かべ不満を口にしていました。

 2 教師としての信念・・・「強制」からは“生きる力”は育ちません

 2003年度の入学式までは、それぞれの学校の教師・生徒の創意・工夫によって個性豊かに行われる入学式や卒業式でした。
 生徒とともに歩み、生徒にも学び、教師として本当に充実した楽しい日々を送ってきました。卒業式では、整然と、かつ誇らしげにやや緊張した顔で臨んでいる生徒の姿を教員席から見ていて、滴足感も得られました。卒業式を迎えるたびに、「ああ、教師をしてきて本当によかった」と心から思えるのでした。生徒一人ひとりのできごとを思い出す時間でもありました。
 入学式でも同じです。生徒たちとどんなドラマが待っているのだろうと、ワクワクしながら新たに始まる担任生活を思い描いています。

 入学式や卒業式は、新入生や卒業生のための教育活動なのでしょうか?それとも、都教委の指図、命令で実行する行政活動なのでしょうか?
 まぎれもなく、式は教育の一環であり、主役は生徒なのです。教育活動として行われるのであれば、最も大事なのは、“生徒のためになるのかどうか”です。それ以外の理由は教育ではありません。
 学び成長したことに自信をもち、人生の新たな段階に誇りを持って踏み出す機会にしたい、そのためにどういう式にするかーーー。こういう思いで、生徒・教員・保護者はさまざまな努力をしています。
 それが大事な教育活動であり、創意性や自主的精神をはぐくむことにつながります。それが、「10.23通達」によって、卒業式、入学式は教育の場ではなくなりました。

 教師という職業は、自ら理想を持ち、生徒に未来を見つめる目を養い、生きていく力を身につけさせることを最大の使命とした仕事だと思っています。
 それゆえ、生徒には自主性を身に付け、民主主義を大切にする人間に育ってほしいと願う気持ちは、どんな職業よりも強いと確信しています。
 生きていくカは判断できる力から生み出されます。判断できる力は考えるカから生み出されます。
 教師が「強制」に、つまり命令に従順になったとき、次には自分の頭で考えない若者が生み出されていきます。命令や指示を待つ人間として育っていきます。
 考える力がないと、自分の頭で物事を判断できるカは育ちません。判断できる力がないと、生きるカは身に付きません。すなわち、強制や命令では生きるカを育てることはできないのです。
 生きるカを育成できないとき、そこには教育は存在しません。「強制」のもとでは教育は破壊されていきます。

 私は、教師という職業に忠実になればなるほど、強制や命令に従うことができませんでした。
 生徒に「どうしたらいいのか、まず自分で考えなさい」「自分たちで討議して解決の方法を考えてごらん」「クラスにとって良いことは何なのか、皆で判断し、話し合って決定しなさい」と、自主性と民主主義を身につけさせることが生きる力となる、このことを信念として教育してきた私には、「強制」と教育は矛盾するものとしか考えられません。
 生徒という人間を相手にしている職業だからこそ、心を育てる仕事だからこそ、心を大切にするのです。それゆえ、心を踏みにじる「起立・斉唱の強制」に、私は応じることができませんでした。

 私は、退職後は非常勤教員として、これまで培ってきた知識や技能を役立てたいと思っていました。
 40秒間静かに座っていただけで、都教委は私の32年間の勤務総合評価で「教員不適格」「勤務成績不良」と判断しました。
 常に生徒の成長を願い、信念をもって教育活動をする教師ほど「悪い教師」なのでしょうか。
 私は、都立高校から迫放され、大好きな生徒たちから引き離され、楽しみにしていた定年後の教育の仕事を奪われました。

 裁判官におかれましては、「10.23通達」がいかに学校と教員から自由を奪い、教育を破壊しているかをご理解いただき、職務命令に従わなかったことを理由とする非常勤教員採用拒否は違憲・違法であることを明らかにして下さるよう、公正な判断をお願いいたします。

≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
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