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写真:12月10日『「世界人権デー」記念集会』国連大学前/アムネスティー日本主催


 「私には敵はいない 最後の陳述」
    ノーベル平和賞授賞式で代読された劉暁波氏の文章

【毎日新聞2010年12月11日朝刊】

 私の人生において(天安門事件の起きた)1989年6月は大きなな転機だった。

 私の人生で、89年6月は大きな転機だった。これまで自分に課したことは、人間としても作家としても正直さや責任感、また尊厳を持った人生を送ることだった。

 (天安門事件から)20年以上が過ぎたが、犠牲者の霊は生き続けている。私の自由を奪った政権に言いたい。私は20年前のハンストの信念を堅持する。私には敵も憎しみもない。監視や逮捕など受け入れることはできないが、取り締まる側の職責は尊重する。

 憎しみによって人間の知性や良心を腐敗させることはできない。敵視の思想は社会の寛容と人間性を封じ、自由と民主主義への道筋を妨げる。改革開放は階級闘争という毛沢東時代の指針を捨てることだったと思う。改革開放のプロセスは敵視の思想を無力なものにし、憎悪の哲学を排除することでもあった。そして、その敵視の思想を弱めることは、政治の分野においては、反体制派に対する迫害の減少など。これまでにないほど(政府の)寛容さにつながっている。04年の全国人民代表大会では「国は人権を尊重し保証する」と憲法が修正された。これは国の基本的な原則になっていることを意味する。


 この進展は私自身の経験からも感じることができる。警察官や検察官、裁判官は侮蔑的でもなかった。その意味で私は楽観的だし、自由な中国の到来が楽しみだ。

 この20年間で得た幸運とは妻劉霞からの愛だ。彼女のおかげで私は自分がした選択を悔いることなく明日を待つことができる。

 私は、私の国が、異なる価値観や信念、政治的志向が平和的に共存し、多数派の意見も少数派の意見も等しく保障され、すべての市民が何の恐れも抱くことなく政治的な考えを主張できる、そういう言論の自由が認められる中国となる日を待ち望んでいる。
 表現の自由は人権の基礎であり、人間性の根源であり、真実の母である。言論の自由を押し殺すことは人権を踏みにじることであり、人間らしさの息の根を止めることであり、真実を隠す行為だ。

 私の行為には何の犯罪性もない。だが私の行為のために訴追されているとしても、私は不満を言うつもりはない。