◎ 成嶋隆教授の回答(2)
【Hさんのご質問】(2/3)
(2)佐々木氏は、「義務免除を広げすぎると社会秩序がなりたたない」という言い方をします。社会秩序が大前提で、人権はその範囲で承認されるものでしょうか。人権は不可侵なのに、国家権力と逆転するのではないでしょうか。
【コメント】
ご質問の(2)は、憲法19条の解釈論上の論点の1つに関連するものです。
その論点とは"自己の思想・良心に反することを理由に法への服従を拒むことができるか"というものです。
そして、「義務免除を広げすぎると社会秩序がなりたたない」という言説はこの論点についてのもので、もともと「〔思想・良心に反することを理由とする法への不服従が一般的に認められると解した場合〕およそ一切の法が、本条〔=憲法19条〕を根拠に否定されることとなり、政治社会は成り立たなくなる」という佐藤幸治らの説がその出自となっています。
それほど目新しい見解ではありません。
また、現在の19条解釈は、19条を根拠とする法への不服従が「一般的に」認められるといったナンセンスな議論をすでに乗り越えて展開されております。
◎ 成嶋隆教授の回答(3)
【Hさんのご質問】(3/3)
(3)佐々木論文には、「国家=学校」という等式、「教師は機関」という言葉が出てきます。教育法規上、教育公務員は「機関」なんですか? 旭川学テ判決で、国民の教育権が否定されて、国家の教育権が肯定されたのでしょうか。教育は「権利」から「義務」へ逆戻りしたのでしょうか。
【コメント】
ご質問の(3)ですが、こうした議論は、学テ最高裁判決が「国家教育権論」と「国民の教育権論」の双方を「極端かつ一方的」として排斥し、いわゆる「権限画定のアプローチ」(教育関係当事者のそれぞれに憲法上の根拠に照らして権利・権限を配分する)を打ち出して以降、とくに「国民の教育権論」を批判する文脈で登場しているものです。私は以前、この「教師=権力」論、「学校=敵」論について、次のように批判いたしました。
――「教師を子ども・親にとっての『敵』とみなし、その『権力性』を強調する議論については、まず実態論と規範論とを峻別すべきである。
たしかに実態としては……『管理教育』のもとで学校・教師が子ども・親に敵対している場面が現にある。たとえば、多発するいじめによる自殺事件での学校や教師の対応は、ひたすら事実を隠蔽し、責任を回避するという体のものである。『日の丸・君が代』問題でも、教師が教育委員会や校長からの強制圧力に屈し、子どもたちを『君が代』斉唱や『日の丸』敬礼へとかりたてるという事例がある。
……教師は『政府による国民教化の道具(agent)』と化しているともいえるのである(……)。だが注意すべきは、まず実態認識の問題として、なぜ教師が子ども・親にとって敵対的な存在となったのかという点である。筆者は、いわゆる『管理教育』の第一次的な原因を、……戦後の教員統制策にみいだしている。権力的な管理・統制を受け、市民的自由はもちろん、本来の専門職としての職能的自由さえも奪われ、疲弊しきった教師たちが、『不満のはけ口』を子どもというスケープ・ゴートに求めるのは、見やすい道理である。このように、教師に対する『管理』が、子どもに対する『管理』をもたらしたとみるべきである。ここには、『管理教育の二重構造』がある。
次に、このような実態認識にたったうえで、規範論としても『教師=権力』論をとるべきか否かという問題がある。
教師を権力の末端に位置するエージェントとみなし、これに対抗する子ども・親の権利をもっぱら語るべきか、それとも教師の人権主体性を承認し、その専門性の十分な発揮のなかに子どもの学習権保障の可能性をみいだすべきかという論点である。
筆者は、後者の立場こそ憲法・教基法の示した教師像にそうものと理解している。また実践的な選択としても、教師をいわば権力側に追いやる発想では、現在、学校教育がかかえる諸問題を真に解決し、また異常ともいえる目下の『教育改革』攻勢に対抗しえないと思われる。……」 (成嶋「教師は意見を表明してはならないのか」世界2001年11月号)
現在進行中の「日の丸・君が代」問題における主要な対立軸が、「国家=学校」対「子ども」ではなく、「国家(教育行政当局)」対「教師集団・子ども」であることは明らかであると思います。この点については、市川教授の次の指摘が大いに参考となります。
――「最高裁学テ判決が保障した教師の教育の自由は、教師個々人に認められることは当然であるが、教育内容の国家的介入は教師個人に対する個別的な命令などは例外的で、法令や通達の形式をとって行政組織的に行われることが一般的である。
それゆえ、法令の根拠をもって、行政組織的に行われる教育内容介入に対しては、学校組織として教師集団で行われる教育活動にあっては、教師個人の教育の自由が束ねられた教師集団の教育の自由(学校自治)が条理上認められる。
本件で問題となっているのは、教育委員会の主導の下に、教育委員会―校長―教師―子どもというヒエラルヒーを通して組織的に進められた国旗・国歌強制であり、教師集団の教育の自由の侵害がまず問われるべき場面である。」 (市川「教師の日の丸・君が代拒否の教育の自由からの立論」法律時報80巻9号73-74頁)
◎ 成嶋隆教授の回答(4)
【Iさんのご質問】
国旗国歌法、学習指導要領の国旗国歌条項の拘束性について、9月30日に埼玉の再雇用二次弁護団が以下のような主張を行った。
"国旗国歌法は、「尊重義務」を盛り込むかどうかの議論を経て、尊重義務を盛り込まず、又、政府が繰り返し「義務づけるものでない」「国民生活に変化はない」「教職員の職務に変更はない」「生徒に強制しない」と答弁した経過を総合すれば、単に「義務づけていない」だけではなく、尊重義務を否定し、国民・生徒・教職員に義務づけ強制することを否定して成立した法律である。
学習指導要領の国旗国歌条項のあとに国旗国歌法が成立しており、学習指導要領の国旗国歌条項も「義務づけ否定」の国旗国歌法の精神の拘束をうける"という、これまでより踏み込んだ主張だった。
この観点は、共有し、積極的にふくらませて主張していくとよいのではないか。
【コメント】
「日の丸・君が代」訴訟の判決のなかで、国旗国歌法が出てくるのは、例えば次のような文脈においてです。
――「……原告らは、いずれも都立高等学校の教職員等であって、法令等や上司の職務上の命令に従わなければならない立場にあり、校長から学校行事である卒業式等に関して、それぞれ本件職務命令を受けたものである。そして、国旗・国歌法は、日の丸を国旗とし、君が代を国歌とする旨明確に定め、また、学校教育法43条に基づき定められた高等学校学習指導要領は『……』と定めているところ、卒業式等に参列した教職員等が、国歌斉唱時に国旗に向かって起立して、国歌を斉唱するということは、これらの規定の趣旨にかなうものである。……」(東京地裁2008年2月7日判決)
ここに示されているように、定義規定しか持たず、また制定の際に「義務づけはない」との説明がなされた国旗国歌法が、学習指導要領の国旗国歌条項とともに、起立・斉唱の義務づけの〈根拠規定〉として援用、というよりも悪用・濫用されています。
このように恣意的な援用に対しては、逐一反論していくことが重要だと思います。同法には、尊重義務規定はありませんが、他方、「国民に掲揚・斉唱を強制してはならない」といった規定もありません。
しかし、制定過程における政府答弁は、同法の〈立法者意思〉を知る手がかりとなるものです。紹介された弁護団主張のような議論をもっと押し出してもいいでしょう。
『予防訴訟をすすめる会』
http://www7b.biglobe.ne.jp/~yobousoshou/index.htm
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫
【Hさんのご質問】(2/3)
(2)佐々木氏は、「義務免除を広げすぎると社会秩序がなりたたない」という言い方をします。社会秩序が大前提で、人権はその範囲で承認されるものでしょうか。人権は不可侵なのに、国家権力と逆転するのではないでしょうか。
【コメント】
ご質問の(2)は、憲法19条の解釈論上の論点の1つに関連するものです。
その論点とは"自己の思想・良心に反することを理由に法への服従を拒むことができるか"というものです。
そして、「義務免除を広げすぎると社会秩序がなりたたない」という言説はこの論点についてのもので、もともと「〔思想・良心に反することを理由とする法への不服従が一般的に認められると解した場合〕およそ一切の法が、本条〔=憲法19条〕を根拠に否定されることとなり、政治社会は成り立たなくなる」という佐藤幸治らの説がその出自となっています。
それほど目新しい見解ではありません。
また、現在の19条解釈は、19条を根拠とする法への不服従が「一般的に」認められるといったナンセンスな議論をすでに乗り越えて展開されております。
◎ 成嶋隆教授の回答(3)
【Hさんのご質問】(3/3)
(3)佐々木論文には、「国家=学校」という等式、「教師は機関」という言葉が出てきます。教育法規上、教育公務員は「機関」なんですか? 旭川学テ判決で、国民の教育権が否定されて、国家の教育権が肯定されたのでしょうか。教育は「権利」から「義務」へ逆戻りしたのでしょうか。
【コメント】
ご質問の(3)ですが、こうした議論は、学テ最高裁判決が「国家教育権論」と「国民の教育権論」の双方を「極端かつ一方的」として排斥し、いわゆる「権限画定のアプローチ」(教育関係当事者のそれぞれに憲法上の根拠に照らして権利・権限を配分する)を打ち出して以降、とくに「国民の教育権論」を批判する文脈で登場しているものです。私は以前、この「教師=権力」論、「学校=敵」論について、次のように批判いたしました。
――「教師を子ども・親にとっての『敵』とみなし、その『権力性』を強調する議論については、まず実態論と規範論とを峻別すべきである。
たしかに実態としては……『管理教育』のもとで学校・教師が子ども・親に敵対している場面が現にある。たとえば、多発するいじめによる自殺事件での学校や教師の対応は、ひたすら事実を隠蔽し、責任を回避するという体のものである。『日の丸・君が代』問題でも、教師が教育委員会や校長からの強制圧力に屈し、子どもたちを『君が代』斉唱や『日の丸』敬礼へとかりたてるという事例がある。
……教師は『政府による国民教化の道具(agent)』と化しているともいえるのである(……)。だが注意すべきは、まず実態認識の問題として、なぜ教師が子ども・親にとって敵対的な存在となったのかという点である。筆者は、いわゆる『管理教育』の第一次的な原因を、……戦後の教員統制策にみいだしている。権力的な管理・統制を受け、市民的自由はもちろん、本来の専門職としての職能的自由さえも奪われ、疲弊しきった教師たちが、『不満のはけ口』を子どもというスケープ・ゴートに求めるのは、見やすい道理である。このように、教師に対する『管理』が、子どもに対する『管理』をもたらしたとみるべきである。ここには、『管理教育の二重構造』がある。
次に、このような実態認識にたったうえで、規範論としても『教師=権力』論をとるべきか否かという問題がある。
教師を権力の末端に位置するエージェントとみなし、これに対抗する子ども・親の権利をもっぱら語るべきか、それとも教師の人権主体性を承認し、その専門性の十分な発揮のなかに子どもの学習権保障の可能性をみいだすべきかという論点である。
筆者は、後者の立場こそ憲法・教基法の示した教師像にそうものと理解している。また実践的な選択としても、教師をいわば権力側に追いやる発想では、現在、学校教育がかかえる諸問題を真に解決し、また異常ともいえる目下の『教育改革』攻勢に対抗しえないと思われる。……」 (成嶋「教師は意見を表明してはならないのか」世界2001年11月号)
現在進行中の「日の丸・君が代」問題における主要な対立軸が、「国家=学校」対「子ども」ではなく、「国家(教育行政当局)」対「教師集団・子ども」であることは明らかであると思います。この点については、市川教授の次の指摘が大いに参考となります。
――「最高裁学テ判決が保障した教師の教育の自由は、教師個々人に認められることは当然であるが、教育内容の国家的介入は教師個人に対する個別的な命令などは例外的で、法令や通達の形式をとって行政組織的に行われることが一般的である。
それゆえ、法令の根拠をもって、行政組織的に行われる教育内容介入に対しては、学校組織として教師集団で行われる教育活動にあっては、教師個人の教育の自由が束ねられた教師集団の教育の自由(学校自治)が条理上認められる。
本件で問題となっているのは、教育委員会の主導の下に、教育委員会―校長―教師―子どもというヒエラルヒーを通して組織的に進められた国旗・国歌強制であり、教師集団の教育の自由の侵害がまず問われるべき場面である。」 (市川「教師の日の丸・君が代拒否の教育の自由からの立論」法律時報80巻9号73-74頁)
◎ 成嶋隆教授の回答(4)
【Iさんのご質問】
国旗国歌法、学習指導要領の国旗国歌条項の拘束性について、9月30日に埼玉の再雇用二次弁護団が以下のような主張を行った。
"国旗国歌法は、「尊重義務」を盛り込むかどうかの議論を経て、尊重義務を盛り込まず、又、政府が繰り返し「義務づけるものでない」「国民生活に変化はない」「教職員の職務に変更はない」「生徒に強制しない」と答弁した経過を総合すれば、単に「義務づけていない」だけではなく、尊重義務を否定し、国民・生徒・教職員に義務づけ強制することを否定して成立した法律である。
学習指導要領の国旗国歌条項のあとに国旗国歌法が成立しており、学習指導要領の国旗国歌条項も「義務づけ否定」の国旗国歌法の精神の拘束をうける"という、これまでより踏み込んだ主張だった。
この観点は、共有し、積極的にふくらませて主張していくとよいのではないか。
【コメント】
「日の丸・君が代」訴訟の判決のなかで、国旗国歌法が出てくるのは、例えば次のような文脈においてです。
――「……原告らは、いずれも都立高等学校の教職員等であって、法令等や上司の職務上の命令に従わなければならない立場にあり、校長から学校行事である卒業式等に関して、それぞれ本件職務命令を受けたものである。そして、国旗・国歌法は、日の丸を国旗とし、君が代を国歌とする旨明確に定め、また、学校教育法43条に基づき定められた高等学校学習指導要領は『……』と定めているところ、卒業式等に参列した教職員等が、国歌斉唱時に国旗に向かって起立して、国歌を斉唱するということは、これらの規定の趣旨にかなうものである。……」(東京地裁2008年2月7日判決)
ここに示されているように、定義規定しか持たず、また制定の際に「義務づけはない」との説明がなされた国旗国歌法が、学習指導要領の国旗国歌条項とともに、起立・斉唱の義務づけの〈根拠規定〉として援用、というよりも悪用・濫用されています。
このように恣意的な援用に対しては、逐一反論していくことが重要だと思います。同法には、尊重義務規定はありませんが、他方、「国民に掲揚・斉唱を強制してはならない」といった規定もありません。
しかし、制定過程における政府答弁は、同法の〈立法者意思〉を知る手がかりとなるものです。紹介された弁護団主張のような議論をもっと押し出してもいいでしょう。
『予防訴訟をすすめる会』
http://www7b.biglobe.ne.jp/~yobousoshou/index.htm
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫