10.2予防訴訟原告団会議での講演「教育『改革』動向のなかの予防訴訟の意義」に対するご質問について

 上記の講演について、お三方から文書によるご質問をいただきました。ありがとうございます。当日は、時間が少ないこともあって、後日、お答えするという扱いにさせていただきました。遅くなりましたが、以下、それぞれのご質問をあらためてご紹介し、「コメント」というかたちで回答いたします。難しいテーマが多く、かならずしも十分な答えになってはいないと思います。私自身の今後の検討課題とさせてください。

2010年10月7日
新潟大学 成嶋 隆

 【Hさんのご質問】(1/3)
 成嶋先生が佐々木弘通論文を批判した文章を読んだことがあります。
 (1)佐々木氏は、「外面的行為を強制しても、思想・良心の侵害にならない」例として、「前にならえ、気をつけ、休め」や「授業中私語を慎め」などをあげていました。これらと、人権を同列に並べていることがおかしいと思うのですが。

 【コメント】
 いずれも「難問」です。


 まず(1)の佐々木説ですが、氏のいう「外面的行為」とは、「自発的行為」の対極にあるもので、「当事者の自発性に基づいていなくてもその行為が現実に行われること自体に価値がある」行為であり、「外面的行為の強制」とは、「公権力が、特定内容の『内心に有るもの』を侵害する意図なしに、一般的な規制措置を行う場合」をさすとされています。
 そして、「『外面的行為の強制』が或る個人の保持する特定内容の『内心に有るもの』と深いレベルで衝突するとき、同規制からその個人を免除することが憲法上の要請である……」と説かれています。
 要するに、「外部的行為」のなかには、当人が自らすすんでその行為を行うのではなく、あるいは規則で決められているから、あるいは大多数の人がそれを行うから、あるいはそれを行うのが「社会通念」だから、といった様々な理由から、とにかく形だけでもその行為を行うことで社会がよしとするような行為のことを言っているようです。
 そこで、「前にならえ、気をつけ、休め」といった行為や「授業中私語を慎む」という行為(不作為)などが、この「外面的行為」の例として挙げられることになるのだと思います。
 問題は、佐々木説が、国歌斉唱時のピアノ伴奏という行為を「外面的行為」として位置づけた点にあります。つまり、佐々木説は、入学式・卒業式で音楽教師が「君が代」斉唱のピアノ伴奏をすることは、本人の自発性に基づく必要のない、まさに型どおりの機械的な行為なのであって、これを強制しても本人の内心と衝突するはずはない、と述べているのです。

 すでにお気づきのように、この理屈がピアノ事件の最高裁判決(多数意見)に援用されるところとなりました。同判決の次の一節です。
 ――「本件職務命令当時、……入学式や卒業式において……『君が代』が斉唱されることが広く行われていたことは周知の事実であり、客観的にみて、……『君が代』のピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって、……伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり、特に、職務上の命令に従ってこのような行為が行われるような場合には、上記のように評価することは一層困難である……。」
 この論法の最大の問題点は、とくに末尾の「職務命令に従って行う場合には……」という部分にみられます。
 つまり、音楽教師が職務命令を受けてピアノ伴奏をするという行為は、外観上、命令を受けて行う機械的な「外面的行為」として映るから、当人は内心との葛藤を覚えていないはずだという評価につながってしまうのです。

 佐々木説のこのような問題点について、棟居教授は次のように批判しています。
 ――「『自発的行為の強制』のみが違法となると考えてしまうと、……外観上も強制のゆえであって自発的意思のゆえではないことが明白でありさえすれば、『自発的行為の強制』型に当てはまらず、原則として合憲となってしまう……。処分内容が重ければ重いほど、そもそも強制された外面的行為であることとなり、『自発的行為』という外観を呈する余地が存在しなくなる。……これは内心の自由の保障が中心をなすはずの思想の自由にとっては、強制が強ければ強いほど侵害とされにくいということであるから、解釈論上の重大な背理〔となる。〕」

『予防訴訟をすすめる会』
http://www7b.biglobe.ne.jp/~yobousoshou/index.htm

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