「暴力装置」についてツィッターで呟いたのだが、ついでに転記しておく。
「暴力装置」ということばが問題になっているが、「暴力」を以て「権力」の裏付けとする機構は、やはり「権力」の「装置」であろう。同様に「言説」を以て「権力」の裏付けをするのが「言説装置」である。
「暴力装置」と「言説装置」の組合せによって成り立っているのが「政治」である。平時にあっては「言説装置」を発動させておくくらいで済むが、いざとなれば「暴力装置」を直接に発動させるわけだ。その本体は「軍隊」、そして「警察」である。
「暴力装置」が発動するのは「戦争」あるいは「内乱」である。その際にも「言説装置」は発動されるが、どちらに優位性があるかといえば「暴力装置」の側である。「暴力装置」が「言説装置」を支配する事態が発生する。「非常時」の「言論統制」であり「思想統制」である。
「暴力装置」が発動するのは「戦争」あるいは「内乱」である。その際にも「言説装置」は発動されるが、どちらに優位性があるかといえば「暴力装置」の側である。「暴力装置」が「言説装置」を支配する事態が発生する。「非常時」の「言論統制」であり「思想統制」である。
「暴力装置」が「暴力装置」であることを明らかにするのは「戦争」や「弾圧」で生命や身体が奪われるという事態のもとにおいてである。「死人に口無し」、殺してしまえば、あるいは閉じ込めてしまえば、口封じになるのである。それを「暴力」といい、そのための機関を「暴力装置」という。
それに対して「文学」は端的に「言説装置」であり、「文学者」はその装置の中枢にある「ことば」そのものを生産し、加工し、さらに再生産する者である。「文学者」は「言説装置」の中にあるから、当然その規制を受けるが、「文学者」が「言説装置」そのものではない。
「言説装置」は「暴力装置」の優位の下に置かれているから、「文学者」の「ことば」も時により「暴力装置」の強い規制を受ける。しかし、それだけではない。「ことば」は歴史と社会を蓄積した「文学者」の「身体」を通じて発せられるものである。
「文学者」の「ことば」の「身体」性と、受け止める「読者」の「身体」性とが出会うところに、「歴史」と「社会」を内包した「意味」が発生する。そこに生れる「意味」は、記憶を宿す「身体」がある限り、消すことはできない。「ことば」という媒介そのものを「暴力装置」が滅ぼすことはできない。
だからこそ「暴力装置」は「言説装置」の中枢にある「文学者」を拘束し、拷問し、虐殺するのだ。拘束し、拷問し、虐殺するものが「暴力装置」でなくて一体なんなのだ?「政治」の「言説」は「暴力」を背後に持つ。「言説」の背後に「暴力」を持たないことが「文学者」の「ことば」の条件なのだ。
*いうまでもないが、所詮つぶやきである。写真は「骨董品」といわれる陸上自衛隊「74式戦車」(http://www.news.janjan.jp/government/0802/0802150824/1.php)だ。。。これでも「暴力装置」ではないというのか?* .
Prof. Shima's Life and Opinion
Shima教授の生活と意見。
http://blog.livedoor.jp/insectshima/
「暴力装置」ということばが問題になっているが、「暴力」を以て「権力」の裏付けとする機構は、やはり「権力」の「装置」であろう。同様に「言説」を以て「権力」の裏付けをするのが「言説装置」である。
「暴力装置」と「言説装置」の組合せによって成り立っているのが「政治」である。平時にあっては「言説装置」を発動させておくくらいで済むが、いざとなれば「暴力装置」を直接に発動させるわけだ。その本体は「軍隊」、そして「警察」である。
「暴力装置」が発動するのは「戦争」あるいは「内乱」である。その際にも「言説装置」は発動されるが、どちらに優位性があるかといえば「暴力装置」の側である。「暴力装置」が「言説装置」を支配する事態が発生する。「非常時」の「言論統制」であり「思想統制」である。
「暴力装置」が発動するのは「戦争」あるいは「内乱」である。その際にも「言説装置」は発動されるが、どちらに優位性があるかといえば「暴力装置」の側である。「暴力装置」が「言説装置」を支配する事態が発生する。「非常時」の「言論統制」であり「思想統制」である。
「暴力装置」が「暴力装置」であることを明らかにするのは「戦争」や「弾圧」で生命や身体が奪われるという事態のもとにおいてである。「死人に口無し」、殺してしまえば、あるいは閉じ込めてしまえば、口封じになるのである。それを「暴力」といい、そのための機関を「暴力装置」という。
それに対して「文学」は端的に「言説装置」であり、「文学者」はその装置の中枢にある「ことば」そのものを生産し、加工し、さらに再生産する者である。「文学者」は「言説装置」の中にあるから、当然その規制を受けるが、「文学者」が「言説装置」そのものではない。
「言説装置」は「暴力装置」の優位の下に置かれているから、「文学者」の「ことば」も時により「暴力装置」の強い規制を受ける。しかし、それだけではない。「ことば」は歴史と社会を蓄積した「文学者」の「身体」を通じて発せられるものである。
「文学者」の「ことば」の「身体」性と、受け止める「読者」の「身体」性とが出会うところに、「歴史」と「社会」を内包した「意味」が発生する。そこに生れる「意味」は、記憶を宿す「身体」がある限り、消すことはできない。「ことば」という媒介そのものを「暴力装置」が滅ぼすことはできない。
だからこそ「暴力装置」は「言説装置」の中枢にある「文学者」を拘束し、拷問し、虐殺するのだ。拘束し、拷問し、虐殺するものが「暴力装置」でなくて一体なんなのだ?「政治」の「言説」は「暴力」を背後に持つ。「言説」の背後に「暴力」を持たないことが「文学者」の「ことば」の条件なのだ。
*いうまでもないが、所詮つぶやきである。写真は「骨董品」といわれる陸上自衛隊「74式戦車」(http://www.news.janjan.jp/government/0802/0802150824/1.php)だ。。。これでも「暴力装置」ではないというのか?* .
Prof. Shima's Life and Opinion
Shima教授の生活と意見。
http://blog.livedoor.jp/insectshima/