K.H.

 私は、1969年4月、東京都の教員となり、39年間、障害児学校に勤め、2009年3月に定年退職致しました。
 障害児が学ぶ学校では、日常的に何が大事にされているのか、また行事の中でどんな力をつけようとしているのかを述べ、10・23通達が、障害児教育の実態にいかにそぐわず、教育に対する不当な支配、介入であるかを、陳述致します。
 私はこれまで、知的障害児の学校、肢体不自由児の学校を経験してきました。その中でたくさんの障害児、その保護者と出会い、障害を持って生きることのしんどさや意味、時には豊かさについて学んできました。

 私が教員になった当時は、障害の程度によっては学校教育そのものが受けられない状況があり、地域によっては、障害児は隠れるように生きていることさえありました。
 私は、例え障害があっても、生きていることそのことが尊ばれ、子どもたちが力いっぱい生命を開花させ、生きることそのものが大事なことであり、教育の目的になると学びました。
 私はこれまで高等部を担当することが多かったので、思春期・青年期といわれる時期の子どもたちとの関わりがほとんどでした。障害を持って生きることは、無意識に自分を否定してしまうことが多く、それに加え思春期の揺れの中で、自分に対する信頼感や安心感が持てず苦しむ子どもたちと、たくさん出会ってきました。ここでは、ある生徒との関わりを紹介します。


 Mさんは、人との関わりが苦手で、暴力暴言が絶えない生徒でした。育ちが複雑で、Mさんの記憶にある限り、家庭で生活したことはなく施設で暮らしていました。彼が高等部2年生の時、私はクラス担任になりました。身体も大きくカがあるので、大人でも「こわい」と思ってしまうほどの存在です。
 当初私は、Mさんの暴力暴言の問題行動に振り回されていました。Mさんは、自傷行為もあり、傷ができるとそこをさらに大きくしてしまうような所がありました。痛みに鈍さを持っているようにも見え、また、自信がないことはもちろん、「自分」であることへの安心感が、全く育っていないと感じました。常に人に怯え、暴力暴言で自分を誇示することで、自分を保っているように思えました。
 極端に甘える面もあり、それも本当の意味での人に対する信頼が育っていないのではないかと思えました。
 本来なら、乳幼児期、少年期に育まれてくるはずの、「自分への信頼」「人への信頼」が、非常にもろい状態であったのです。

 ある時、保健室でのことです。Mさんの足の指は、皮がむけ、ただれているような状態になっていました。水虫をひどくしたようです。塗り薬は持っているようなのですが、きちんとは使えていないようでした。お風呂のときに洗うこともできていなくて、その上皮を自分でむいてしまうとのことでした。
 Mさんは、自分のひどい足の状態を面白がって見せていました。大人が、びっくりしたり、しかめ面をする反応が面白いのです。「これは痛いよね」といえば「俺はな、これくらいは痛くないのさ」と得意そうです。

 私は、ここでこそ対応せねばと直感しました。
 大きなバケツに適温のお湯を張り、片足ずつ洗うことを思いついたのです。本人は偉ぶって「だったらさっさとやれ」などと言っていましたが、照れくささと嬉しさが見え隠れしていました。
 お湯で、硬くなっている皮膚を柔らかくしてから、石鹸を泡立て、きれいに洗いました。何度もお湯を入れ替えさっぱりと両足を洗いあげ、クリームをつけて仕上げました。見違えるほどきれいになったので、私は思わずMさんの足に鼻を近づけ、「いいにおい!」と言ってしまいました。
 その様子を見ていたMさん、その日一日、何人もの人に「俺の足の匂いをかいだんだぞ」と、笑顔で言いまわる姿がありました。

 このこと以後、「足洗い」は、気持ちが不安定になった時、友だちや先生とうまくいかない時など、気持ちを切り替える大事な時間となりました。
 大人が自分だけに気持ちを向けてくれる時間、「足洗い」しながら自分の素直な気持ちを表現できる時間でもありました。
 徐々にですが、Mさんの暴力暴言も影を潜めていきました。書葉に代えて表現する力もつき、何よりも人に対して、びくつくことが少なくなり、人への信頼が確実に育ったと見ています。
 Mさんは、今作業所で働いています。年1~2回の、友だちや私との出会いを楽しみにしてくれると同時に、新たに出会った人との関係を、自分の力で築いていっています。
 私は、Mさんとの出会いの中で、人は育ち直しができるということの確信を、持つことができました。

 障害児学校は、通常の学校に比べ、教員数が多く配置されているので、生徒一人ひとりに関わる時間が多くあります。一人ひとり丁寧に見ていくことを大切にしているからです。
 その中で、それこそ一人ひとりの内面に寄り添い、時には子どもの成育史や人格の奥底にまで触れながら、試行錯誤の中で、子どもも教員も一緒になって、意識の底に隠れている感覚や感情を探っていきます。
 自己肯定感が育ち難い時代と言われていますが、私は、自己肯定感とは、「自分であること」の安心感が育つことなのではないかと思います。そして、その安心感は、「自分であること」をしっかり受けとめてくれる人がいてこそ、育つのではないかと思います。
 障害がある子どもたちは、障害があるということだけで、自分を否定的に捉えがちです。
 私が39年勤めてきた障害児学校は、いずれも教員たちが話し合いながら、子どもたちの少年期・思春期・青年期それぞれに、必要な揺れや失敗をおおらかに見守りながら、子どもたちが、学校の主人公として、障害があっても自らの力で成長していくことを、大事にしてきていました。
 10.23通達までは、校長も教頭も子どもを中心にすえた視点は、同様だったと確信しています。
 日常の学校生活では、以上のように時間をかけ、子どもたちに丁寧に関わり、粘り強く対応しています。

 次に障害児学校での行事がどう捉えられているかについて述べます。
 行事は、子どもにとっては、具体的で、分かりやすい「目標」であり、「節目」になるものです。
 障害児の中には、変化にとても弱く、不安が増大しパニックになってしまうケースもありますが、取り組みの仕方や、教員の関わり方で工夫していきます。
 「目標」「節目」となる行事を通し、成長するケースも随分見てきました。丁寧に日常の中で積み上げてきたものを、たくさんの人の前で発表することで自信をもつことができ、更に新たなことに挑戦していく子どもたちの姿も多く見てきました。
 「卒業式」は、子どもたちにとっては、特に大きな「節目」であり、そのことが実感できるように様々な工夫がなされてきました。
 互いの生育史を表にしてまとめる学習を取り組んだり、手作りお楽しみ会を企画したり、自分たちで歌をつくったこともありました。式場も皆なでアイディアを出し合い、装飾も考えました。
 式当日のことだけでなく、そこに至る過程を大事にしてきました。式も子どもを主人公としながら、保護者の方や関係者が、皆なで祝うことを大事にしてきました。その中でかもし出される雰囲気が、子どもたちに伝わり、誇らしく感じたり、嬉しさを実感したりする姿を見てきました。

 例えば、1998年3月の卒業式。Iさんが、卒業証書を受け取りにいく場面で担任として私が送ったメッセージです。
 「私なんていなくなればいい、泣きながら自分を傷つけていたIさん。この3年間で自分を大切にする素敵な女性に成長しました。これからも自分を大切に新たな生活、出会いを楽しんで下さい。」
 フロア形式なので、在校生、保謹者、教員みんなに見守られる中、緊張しながら、しかし、誇らしさも滲ませ一歩ずつ進むIさんの姿がありました。
 壁面には、在校生の作った花が一面に飾られていました。壇上は使いませんでしたが、やはり全校生徒で作った貼り絵に「卒業おめでとう」の文字が浮かび上がっていました。温かさと優しさにつつまれていました。

 Iさんは、知的な遅れは軽度ですが、情緒不安が強く、入学当時は病院に入院しながらの登校でした。パニックを起こすと机の角に頭をぶつげたり、高い所から飛び降りたりと、見ているこちらも苦しくなるような状況でした。心のひだに寄り添うように粘り強くかかわる中で、3年間をかけ、変わっていきました。本人にとっても、教員にとっても、保護者にとっても、諦めないで向かい合った3年間あっての卒業式なのです。
 Iさんが自分の成長を受け止め、先に進む決意を、それまで応援し見守ってくれた人たちの前で表現する、そのことそのものが厳粛なのです。

 これに対し、先ほど紹介したMさんは、2003年の通達を受けた翌年、卒業しました。日の丸を揚げた壇上を正面とし、全員が正面に向かい、手作りの装飾は禁止となりました。
 自分を全否定しながら、暴力で人との関わりを作ってきたMさんが、人との優しいふれあいが増え、人を求める気持ちが育ってきた3年間。Mさんにとって、新たな旅立ちにふさわしい厳粛な式とはどういうものなのでしょう。
 フロア形式でなくなったことで、Mさんへのメッセージも短縮ぜざるを得ない、壇上で卒業証書を受け取るMさんの表情も見えない。余りにも内容が縛られ、Mさんの成長を共有しながら、これからのことを想像しあう状況は、ほとんど作り出すことができなかったのです。
 式後、保護者の方たちも「去年のような卒業式がよかった」と口々にいっていました。

 10.23通達以後、子どもを主人公とした「卒業式」は、できなくなってしまいました。
 会場の装飾も、思うようにはできません。子どもにとってわかりやすい工夫も、できにくくなっています。
  国歌斉唱の場面では、予め、教員の立ち位置が決められ、そこから離れないようにとの指示があります。
 呼吸器をつけた生徒や、痰が絡み対応が必要な主徒、身体の姿勢に常に気を配らねばならない生徒など、その時々に対応することが求められますが、それより国歌斉唱が優先されるのは納得いきません。
 これまで私は、子どもたちが、教育を受ける権利の主体者として、大人になりゆく過程を大事に考えてきました。それが自分の教員として成り立つ基盤となっています。本来なら喜びである「卒業式」は、10.23通達以後は、私にとって苦痛でしかありませんでした。これまで生徒を主体としてきた「卒業式」を混乱させたのは、10.23通達であると思います。

 子どもを蚊帳の外に置くようなやり方は、行事だけでなく、日常の学校生活にも広がってきています。七生養護学校に勤務していた時、当時の教頭が、「生徒の実態より制度が優先だ」と、公然と言ってのけたのを聞き、怒りより怖さを感じたことは忘れられません。
 職員会議や、学年会などこれまで意見を自由に述べ、子どものことについて話していた時間は、極端に短かくなり、上からの指示伝達たけがまかり通っているのです。

 私はこの通達やその運用によって、私の39年に及ぶ教員生活の中で、自分の根っことして持ち続けてきたものを、失ってしまうと感じています。
 それは、障害児教育の先人達が私に伝えてくれた、障害児に光を当てるのではなく、障害児が社会の光になっていくのだという思想。
 私が教員として出会った子どもたちは、ハンディを抱えながら、どの子も、心の奥底では、人間として「よりよく生きたい」との願いを強く持っていました。障害のあるなしではなく、人としての当然の権利を持つ主体者として生きていくことの尊さを認め、見守る教育の灯火を、消すわけにはいきません。

 教育に対する不当な支配・介入を絶対に許さない判決を、改めて出していただけるよう切望致します。

≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!≫