(2)国旗国歌強制のケース
~教員の思想・良心の自由の主張は「反社会的行為」か
佐々木理論を具体的な国旗国歌強制の場面に当てはめると、どうなるか。不可侵な「人権」を通俗的な「迷惑論」で逆立ちさせているのだから、公権力の介入を極限まで正当化する結論にしかなりようがない。
本当に検討されなければならないのは、公権力の介入様式が「外面的行為の強制」なのか否かではなく、「立ちたくない、歌いたくない」個人の抵抗感が不可侵な権利なのかただのわがままなのか、である。問題がすり替えられることで、国家権力と国民主権が見事に逆立ちしていく。
①生徒への起立斉唱の強制は、許されない。
当局の目的が「国を愛する心を育てる」なら、外面的強制(y)ではそぐわないから、参列する生徒全員に、制裁・不利益を背景に、自発的行為(Y)を強制していることと認定されるので、違憲違法になるという。
ただし目的が、「外面的行為の強制(y)」に止まれば、式の中での生徒に対する「起立斉唱命令」は全体として有効(z)で、特別な事情で立てなかった生徒(Z)だけの部分の問題になる、とする(どこまでも思想・良心を狭めなければ気が済まないらしい)。この場合の佐々木氏の用意する「解決策」は、「列席者に着席のまま歌わせる」ことである。
② 音楽教員へのピアノ伴奏の強制は、許されない。
『外面的行為(y)だから信念が傷つくことはありえない』!?
目を疑う理由付けが展開される。学者の机上の空論とはこう言うものを言うのか。
<教師がここで、「君が代」を歌い演奏し、それに関する指導を行う行為を、個人として「君が代」にコミットする意思を全く持たずに行っても、それどころか個人として「君が代」に反対する意思を内に持ちながら行っても、その行為の本来の目的は些かなりとも減じることはない。>(p67)
<その信念を傷つけることなく、その職務上の行為に携わることができるはずである。>(p67)
ピアノ伴奏を「外面的行為(y)」と決めつける強引さには、音楽教員・芸術家一般から一斉に抗議の声が上がりそうだ。
芸術活動に対して「自発的(Y)」と「外面的(y)」の区別があるとは「一般的には」聞いたことがない。何のためにこんな区別が登場させたかというと、「思想・良心の自由」の制約を公権力に許すためである。
佐々木氏は『外面的行為(y)だから信念が傷つくことはありえない』として、「法律」で「芸術」を裁くという野蛮な試みを行った。
単に「好き嫌い」の問題なら「権利」以前の身勝手の領域で、「公共の福祉」に反してまで王様の特権の主張は許されないことは、前稿で指摘した通りである。しかし「信念」は「好き嫌い」ではない、「思想・良心」という「権利」なのである。
③ 『教員への起立斉唱命令は、「外形的行為」ならば許される』!?
この理由も、教育の現場感覚からは理解できない。
教員に対する制裁・不利益が、懲戒権の行使・勤務評定・人事異動などで用意されている(X)なら、「起立斉唱命令」は人権侵害に当たり無効である。また、「国家=学校」の正当な権限の範囲の外にある事柄(クラスの生徒全員に起立を指導せよとの命令)には、服従する義務はない。この場合は、生徒の人権を侵害する任務(Y)に当たるからである。
それなのに「外形的行為(y)」の命令であるならば(司会者として号令をかける、音響装置のスイッチを入れるなどの行為と同様に)、これらは任務であり、思想良心の自由の主張は成り立たない(またしても権利と身勝手の混同)。
どうして、生徒の場合(Y)と異なるかというと、教員への命令は、職務上の事柄だから、「外面的行為(y)」に当たるからというのである。同じ起立斉唱行為が、立場によって「自発的行為(Y)」になったり、「外面的行為(y)」になったりする。生徒には「権利」でも、教員には「身勝手」というのだ。
<式次第に国歌斉唱部分を含めることは、国家=学校の正当な権限の範囲内の事柄だ、とみなしている。その範囲内で、個々の教師に対して職務上の任務として課される事柄は、「外面的行為」の遂行を求めるものである(p70)>
(「国家=学校」と等式で結ぶ単純さのおかしさ加減は次節で取り上げたい。)
④なぜ「職務」だと「外面的行為」になるのか
これは加害者の論理で被害者を裁くまやかしである。「外面的行為(y)」とは、加害側から見た分類であって、被害者の人権に添った分類ではない。
「職務」だから「外面的行為」として出来るはずであり、「外面的行為」だから「職務」として命じても違法性はない、というのは巧妙なトートロジーでしかない。人権の審査基準になっていない。
問題は、「外面的行為(y)」と「自発的行為(Y)」の「線引き」を検討し直すことではなく、人権とは無縁な非学術的用語にキッパリと見切りをつけて、本来の*国際的に承認されている審査基準に立ち返ることである。
(続)
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫
~教員の思想・良心の自由の主張は「反社会的行為」か
佐々木理論を具体的な国旗国歌強制の場面に当てはめると、どうなるか。不可侵な「人権」を通俗的な「迷惑論」で逆立ちさせているのだから、公権力の介入を極限まで正当化する結論にしかなりようがない。
本当に検討されなければならないのは、公権力の介入様式が「外面的行為の強制」なのか否かではなく、「立ちたくない、歌いたくない」個人の抵抗感が不可侵な権利なのかただのわがままなのか、である。問題がすり替えられることで、国家権力と国民主権が見事に逆立ちしていく。
①生徒への起立斉唱の強制は、許されない。
当局の目的が「国を愛する心を育てる」なら、外面的強制(y)ではそぐわないから、参列する生徒全員に、制裁・不利益を背景に、自発的行為(Y)を強制していることと認定されるので、違憲違法になるという。
ただし目的が、「外面的行為の強制(y)」に止まれば、式の中での生徒に対する「起立斉唱命令」は全体として有効(z)で、特別な事情で立てなかった生徒(Z)だけの部分の問題になる、とする(どこまでも思想・良心を狭めなければ気が済まないらしい)。この場合の佐々木氏の用意する「解決策」は、「列席者に着席のまま歌わせる」ことである。
② 音楽教員へのピアノ伴奏の強制は、許されない。
『外面的行為(y)だから信念が傷つくことはありえない』!?
目を疑う理由付けが展開される。学者の机上の空論とはこう言うものを言うのか。
<教師がここで、「君が代」を歌い演奏し、それに関する指導を行う行為を、個人として「君が代」にコミットする意思を全く持たずに行っても、それどころか個人として「君が代」に反対する意思を内に持ちながら行っても、その行為の本来の目的は些かなりとも減じることはない。>(p67)
<その信念を傷つけることなく、その職務上の行為に携わることができるはずである。>(p67)
ピアノ伴奏を「外面的行為(y)」と決めつける強引さには、音楽教員・芸術家一般から一斉に抗議の声が上がりそうだ。
芸術活動に対して「自発的(Y)」と「外面的(y)」の区別があるとは「一般的には」聞いたことがない。何のためにこんな区別が登場させたかというと、「思想・良心の自由」の制約を公権力に許すためである。
佐々木氏は『外面的行為(y)だから信念が傷つくことはありえない』として、「法律」で「芸術」を裁くという野蛮な試みを行った。
単に「好き嫌い」の問題なら「権利」以前の身勝手の領域で、「公共の福祉」に反してまで王様の特権の主張は許されないことは、前稿で指摘した通りである。しかし「信念」は「好き嫌い」ではない、「思想・良心」という「権利」なのである。
③ 『教員への起立斉唱命令は、「外形的行為」ならば許される』!?
この理由も、教育の現場感覚からは理解できない。
教員に対する制裁・不利益が、懲戒権の行使・勤務評定・人事異動などで用意されている(X)なら、「起立斉唱命令」は人権侵害に当たり無効である。また、「国家=学校」の正当な権限の範囲の外にある事柄(クラスの生徒全員に起立を指導せよとの命令)には、服従する義務はない。この場合は、生徒の人権を侵害する任務(Y)に当たるからである。
それなのに「外形的行為(y)」の命令であるならば(司会者として号令をかける、音響装置のスイッチを入れるなどの行為と同様に)、これらは任務であり、思想良心の自由の主張は成り立たない(またしても権利と身勝手の混同)。
どうして、生徒の場合(Y)と異なるかというと、教員への命令は、職務上の事柄だから、「外面的行為(y)」に当たるからというのである。同じ起立斉唱行為が、立場によって「自発的行為(Y)」になったり、「外面的行為(y)」になったりする。生徒には「権利」でも、教員には「身勝手」というのだ。
<式次第に国歌斉唱部分を含めることは、国家=学校の正当な権限の範囲内の事柄だ、とみなしている。その範囲内で、個々の教師に対して職務上の任務として課される事柄は、「外面的行為」の遂行を求めるものである(p70)>
(「国家=学校」と等式で結ぶ単純さのおかしさ加減は次節で取り上げたい。)
④なぜ「職務」だと「外面的行為」になるのか
これは加害者の論理で被害者を裁くまやかしである。「外面的行為(y)」とは、加害側から見た分類であって、被害者の人権に添った分類ではない。
「職務」だから「外面的行為」として出来るはずであり、「外面的行為」だから「職務」として命じても違法性はない、というのは巧妙なトートロジーでしかない。人権の審査基準になっていない。
問題は、「外面的行為(y)」と「自発的行為(Y)」の「線引き」を検討し直すことではなく、人権とは無縁な非学術的用語にキッパリと見切りをつけて、本来の*国際的に承認されている審査基準に立ち返ることである。
(続)
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
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