3,佐々木氏は、「公共の福祉」と「公権力」の区別が出来ていない。

 引用文c,d,eでは、個人の側に人権主張の受忍を当然の如く要求している。しかし、個人に受忍を要求できるとしたら、それは国家(公益)だろうか、等質な個人である他者(公共の福祉)だろうか。間違えれば、国家と人権が逆立ちしてしまう。

 (1)「公共(public)」とは個人の集合体であって、「公権力(authority)」の命令とは違うもの
 日本の憲法には、ICCPR第18条のような明文化された自由権の制限条項がない。そこで、「公共の福祉」が制限の名目に利用されることが多い。(立川ビラ事件・葛飾ビラ事件…)

 ところが、20C初頭ワイマール憲法に由来する本来の「公共の福祉」概念とは、各人の自由権を公平に保障するため社会的強者の自由を政策的に制限するものであって、個人の権利の領域のものなのである。「多数派の専制」に陥りがちな「公権力」とは対極にあって、むしろその濫用を制限する概念なのである。


 佐々木氏は、信条に関わる国家行為を「意図的型」と「非意図的型」に分類し(p9)、前者なら人権侵害に当たるが、後者ならに「正当な統治行為」とする(p24)。そこから、国家が「非意図的」で「非常に強い公共目的」が存在する場合(p48)、内心の統制が許される、と導く。例外は内心の「深いレベルでの衝突」を証明できた者だけだと言う。日本では裁判官が「人権」を許可する?

 しかし、思想・良心の国際スタンダードとは、前記「ICCPR18条」の通り国家の側に抑制を求めるものなのであって、勝手に独自の分類を持ち込んでも通用しない。そもそも人権侵害に、侵害する側が「意図的」であるか「非意図的」であるかは関係ないのであって、侵害されたか否かの事実だけが問題なのである。これでは国家によるお為ごかしの人権侵害が悉く免罪されかねない。佐々木氏は「公共の福祉」の名目で、いとも簡単に「人権」を「統治行為」の風下に置いてしまっている。

 (2)国際社会の常識=公共の福祉を無限定で人権制約に用いてはならない

 日本の法廷では、「公共の福祉」がしばしば「誤用」されるため、国連自由権規約委員会から「曖昧で制限のない」公共の福祉概念の適用について「懸念と勧告」が何度も示されてきた。

 【参照】 国連自由権規約委員会日本政府審査最終見解(2008/10/30)

 10.委員会は、「公共の福祉」が、恣意的な人権制約を許容する根拠とはならないという締約国の説明に留意する一方、「公共の福祉」の概念は、曖昧で、制限がなく、規約の下で許容されている制約を超える制約を許容するかもしれないという懸念を再度表明する。(第2条)
 締約国は、「公共の福祉」の概念を定義し、かつ「公共の福祉」を理由に規約で保障された権利に課されるあらゆる制約が規約で許容される制約を超えられないと明記する立法措置をとるべきである。

 (3)「人権」論を装った自由の否定

 個人と国家が逆立ちした「人権論」に立脚した結果、不起立を「身勝手」と同一視し、校長による職務命令を「公共の福祉」に読み替えて、思想良心を侵害しない合憲合法な強制(「外面的行為」)という奇妙な領域を創造してしまった。真っ正面から「国家儀礼は強制できる」とした方が分かり易いのに、わざわざ民主的「人権」論を装って同じ結論を導き出しているところが、よりたちが悪いのである。
 なお、この論文にはまだまだ「人権の相対化」「通俗多数決正義論」「国家=学校論」など多くの逆立ちがあるが、それらは機会を改めたい。「外面的行為=人権外」論の誤りはそこからはじめて見えてくる。

 東京「君が代」裁判第3次訴訟『原告団ニュース』号外から