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  ★ 立川、葛飾に続く「言論表現の自由」圧殺を許すな! ★
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  ■□■ 第7回最高裁要請行動11月2日(火)9:45最高裁東門集合 ■□■

 ◎ 板橋高校卒業式事件・顛末記<20>  「ナナカマド」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》

 5月下旬の家宅捜索後、板橋署からの呼び出しが続くようになる。
 ある集会で、「捜索された、どう対応したらいいのかなあ・・・」と発言したら老弁護士に呼ばれた。
 74歳、歴戦の勇士である。戦後の日教組運動と、それへの刑事弾圧の歴史について1時間ほどの講釈が続く。
 結論として、「一切黙秘!」、これに尽きるという。
 検察は、片言隻句を捉えて起訴してくるのだという。
 何らかの説明、言葉を発することは、彼らに素材を提供するにほかならない。
 公安・検察は罪体の欠片を探し求めているのであって、その連中に「こうなんですよ、だから起訴するに値しませんでしょう」と言ってもまったく無意味、筋違いであるということを諄々と老弁護士は語った。

 よって、方針は確定した。
 呼び出しには応じない。
 逮捕されたら、完全黙秘で臨む。
 A社の記者が言った。「警察行って、説明すりゃいいじゃんか」と。

 家宅捜索が終わって、警察車両を見送る際、私は警備課課長に言った。
 「よく調べてくれ、参列者に聞けば教頭のコピー配布制止などないことがすぐ分るから・・・」
 愚かなことを言ったものだと、今は思う。
 彼らはそんなことは百も承知なのだ。
 そのうえで如何に罪体を探すかということに一所懸命なのである。
 方針は上からの命令としてくる。
 署の課長に何の決定権があるというのか。
 最後、「もし逮捕などしたら、板橋署は卒業生で包囲されるよ」といってみたら、その時はキリッとした反応が生じた。
 「厳しく、取り締まる!」と。

 毎年、300人前後の卒業生が出る。
 私の教科は倫理で2単位、ほぼ1学年全体の生徒に接する。
 となると、板橋署を包囲する位置関係にある高島高校に4年、城北高校に12年、板橋高校に7年いたのだから、23年間、板橋署周辺に居住する高校生に授業したことになる。
 ざっと、6000人!であろうか。
 振り返って、よくまあそんな人数の諸君に授業をしたものだとビックリすると同時に、お粗末な授業であったことは汗顔の至りであったと思い知らされる。

 実に様々な生徒がいた。
 ある卒業した生徒のひとりは、こう言った。 「先生って、授業中1回は、嫌な話をするでしょう」と。
 あれはこたえた。 時たまであると自負していたのに。
 高村光太郎が、戦後福島で、尻から出たサナダムシをどんぶりに入れ醤油掛けて食ってしまった話のことか、アダムとイブの蛇の話か、ぼっとん便所の話か、あれこれ思い浮かんで浮かぬ顔になった。

 授業には、ひとりひとり教壇に立って自分の言葉で、自分のことや何でもいいから自分が思っていることあるいは思っていたこと、過去・現在・未来のことなど、しゃべることを取り入れた。
 1時間に1人である。 クラス45人として、45時間の授業がそれに当てられることになる。
 4月のはじめにくじを引いて、自分の番が決まる。 1番は次の授業日であり、ラストは来年2月頃に順番が回ってくるであろう。
 もじもじして、決められている10分以上をこなせず、立ち往生してしまう子もいたが、逆にみなが30分以上話すクラスも出現した。
 この23年で6000人もの青年たちの話を聞いたことになるのか、あらためて感慨が深い。

 葬式で所作がわからず、焼香の際、間違って火の方に手を入れた話があった。
 1か月のアルバイトでの10万円ほどを1日のパチンコで掏ってしまい、銀行帰りのおばさんのバックを掻っ攫った話。
 これにはいささか慌てた。つい最近の犯罪の告白ではないか。銀行から金を下ろしたのでなく預金したらしくバックには1銭の金もなかったそうだが、かん口令を敷いた。
 しかしまあ、面白い話は千里を走るのであろう、よく保護者から「うちで、授業の話を全部聞いてますよ」などと笑いながら言われて、「いやあ」と言って逃げ出すしかなかった。

 まあ総じて、悪いことをやってる奴の方が話が面白いのは、ある意味では困ったものであった。
 少年院での日常を詳細に語ったI君の話には1時間、クラス中がシーンとなってみな真剣にかつ爆笑しながら聞き入った。
 人に聞かせる話をする、笑わすあるいは泣かせるというのは難しいものだ。
 その生徒がまだ一言も言わないのに、前に茫洋と立っただけで笑いが巻き起こる場合もあれば、実に聞くべき価値ある発表であるのに、みながうんざりしていたりする。
 嘱託で行った都立青井では、悲惨な話が多かった。
 日常的に父親の暴力にさらされている話など、家庭が崩壊している話が出てくる。
 みな大なり小なり人生のきびしい過程を通過しているのであろう。

 人は皆、一冊の本を書けるのだ。
 どんな人でもそれなりに波乱の人生模様を形作る。
 たとえ17歳であっても、人は多くの試練を乗り越えてくる。

 かって何かの著述で見たが、朝鮮民族は、「六歳にしてみな思想家である」というのがあった。
 植民地下の朝鮮にあって、人は自分の所在を六歳にして尋ねざるを得ないというのであろう。
 民族の問題は、異動する先々の学校の生徒の幾人かにとって実に難しい問題をはらんでいた。
 かの「北送」が、人質と拷問と誘拐とありとあらゆる残酷な諸相をもたらしているだけに事柄は極めて深刻であった。
 中国残留孤児に派生する問題もまた極めて複雑な様相を呈している。
 理解するということと、感情・心理はまた別の問題であることも多い。
 「わかったようなこというんじゃねえ」 「ほんとんに考えているんかよ」と糾弾されることも多かった。
 その意味で、教員でありながら多く生徒に教えられたと思う。 良き生徒で私はなかったが。
 まこと何千人、千差万別、様々なひと=生徒がいた。

 J高校の卒業生は、やくざを殺め、刑務所でテレビを見て私が歌っているのを見て、出所後ただちにI高校に私を訪ねてきた。
 「先生、見ました!」 「何を見たんだ?」
 「テレビで歌っているのを見ました」 「何処で?」
 「刑務所で、テレビを見る時間に見ました」 
 元の担任が出てる場面を偶然見て、出してはならない規則の声を必死でこらえたという。

 これは、TBSの高校対抗歌合戦の番組に私が出た事件のことである。
 ことの成り行きで仕方なく出た音痴の私は、岸洋子の「恋心」を歌って、司会の高田純次に「怪獣が歌っていた」と揶揄された。

 話は様々に脱線するが、私は何度かラジオ・テレビに愚顔・悪声などを呈した。
 最も古くは、半世紀より前、1952(昭和27)年、ラジオ「仁丹子ども音楽会」に白金小学校ブラスバンドの一員として出場したことである。
 音楽の佐世保に転勤した先生は最後まで、「太鼓が心配だ、心配だ」と言っていた。
 言うまでもなく大太鼓担当は私であり、何で音楽のクラブに入ったか今考えてもさっぱりわからない。

 二度目は確か、メーデー会場を歩いている時であった。
 いきなりマイクを突き付けられ、「メーデーの歌、知ってますか?」と聞かれた。
 「そんなもの、知らねえ」と答えたらNHKの夜の11時かのニュースで流された。
 「メーデーの歌も知らない参加者」というコメント付きで。
 メーデー会場と言えば、山本薩夫監督の息子に会った。 宣伝カーの上に乗っていた。
 学生時代仲良くて、杉並の家に泊まったこともあった。
 絵を見て、「すべての絵には思想がある」などと私が生意気なことを言ったことを何故かいまでも覚えている。
 彼は、「若尾文子は馬鹿だと親父が言っていた」との言を述べ、それも何故かいまも記憶にある。
 宣伝カーの上の彼は、「俺も、偉くなってのー」と言って、降りてこなかった。

 次には、「おばさんと呼ばないで」とかいう、NHKの朝の番組であったと思う。
 三省堂の「新明解国語辞典」が主幹のY氏の独特の個性、偏見によって極めてユニーク言葉を変えれば、変であったのだ。
 J高校の社会科のY氏がひと夏掛けて読み、問題個所を列記した。
 例えば、「老婆」・・・年輪の古さだけが目立つ、役に立たなくなった婦人。
 すべてがこんな調子であった。 それを「朝日」が書き、NHKも学校の社会科に収録に来た。
 Y氏と言えば、親が病気になったとの伝を聞き、ただちに奥さん、都立高校の先生をしていたが辞めさせて、一家で佐賀に帰って行った。
 九州の人間とはそうなのかと変に感慨をもった記憶がある。
 山本有三「人間の壁」の主人公、佐賀教組書記長の息子だったようだ。

 この社会科準備室収録には、「臨教審」発足の日にTBSも来た。
 組合本部から推薦されたJ高校の社会科教員S氏への取材であった。
 カメラテストで私が数分応答した。
 「どう思いますか?」
 「学歴社会を作った連中が、なくそうと言ったって茶番だー」ってなことを私が答えた。
 夕刻過ぎ、6時半だったか新堀さんがキャスターで番組が放映された。
 S氏は一切出ないで、私へのカメラテストのインタビューが放映された。
 なんかS氏に悪いことをした結果となってしまった。 組合委員長、坂牛氏が怒っていたとあとで聞いた。
 新堀さんはだいぶ前だと思うが、S氏も最近亡くなった。

 今回の<事件>で、何回かテレビに出た。 歯が欠けていたので、同僚に怒られた。
 NHKは、私がグランドの端がいいと言うのに、何故か体育館の壁際に連れて行ってそこをインタビューの場所とした。
 放映されたのを見たら、私の姿とともに、式場・体育館を追い出される際の私の抗議の音声のみを流した。
 前段の淡々とした私の保護者へのコピーの説明は一切放映されなかった。
 ただ騒いでいるとの印象操作に尽きていた。
 勿論、卒業生が一斉に着席した場面はカットした。
 「刺激が強すぎるので」と担当K記者は後に言った。
 このNHKに「ICレコーダー」の音声を密かに提供したO氏は、放映内容を見てショックを受けていたようだ。

 刑事訴訟法が変わって、刑事事件の証拠を報道機関等に提供することは犯罪となった。
 これでは冤罪事件のキャンペーンなど出来なくなる。
 それら証拠をもとに書籍などで裁判批判をすることも不可となる。
 裁判は、法廷でのみ、裁判官にすべて一任せよ! 批判は邪魔だ! ということを法務省は推進している。

 TBSだけが卒業生の一斉着席場面を日曜朝の番組で放映した。
 解説者はどう言ってよいか戸惑っていたようだ。
 「立つなって言うのも、問題ありますねえ・・・」とかひとりが言ってお茶を濁した。
 担当のK女性記者は、園遊会の翌日、米長宅に張り込むなど行動力のあるいい記者であったと思う。

※ 顛末記の過去ログは、
 顛末記(19) http://wind.ap.teacup.com/people/4507.html

 30回くらいの連載になる予定です。

≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
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