イメージ 1

(写真は、2006年9月16日裁判報告集会にて 原告と弁護団をねぎらい挨拶する高橋稔会長 、左:青木茂千葉友愛会会長)

『支えようニュース 2010年8月18日号より』

≪ 大きな役割を果たした支援する会
  
         千葉の会総会を終えて ≫

   原爆症認定集団訴訟を支援する千葉の会 会長 高橋 稔

 2010年5月25日、千葉第2次訴訟に対する千葉地裁の判決が下り、この7年間の支援する会の大きな仕事が一段落しました。
 この7年間もの間、集団訴訟を原告の分身としてしっかりと支えていただいた、支援の皆さんに「ありがとうございました」「ご苦労様でした」と、会を代表してお礼を申し上げたいと思います。

 また、この裁判をすすめて来た千葉の弁護団の皆さん、そして命をかけて国を相手に大変な裁判を闘ってきた原告のみなさん、本当にご苦労様でした。

 思い起こせば2002年、被団協からの「全国で原爆症集団訴訟を起こそう」という呼びかけに答えて2003年3月千葉県に弁護団が結成されました。5月27日に千葉県からは一人、初めての原告が千葉地裁に提訴したのです。朝比奈さんでした。
 この動きの中で、被爆者を励まし、弁護団を支え、裁判を支援しようと県内から多くの人が集まり、「原爆症認定集団訴訟を支援する千葉の会」が結成されたのでした。

 結成総会に当たる第1回目の総会は、2003年5月31日でした。今から7年前のことです。
 その後、7月26日には高田さんが千葉地裁に2人目の原告として提訴をし、その後、多爪さん、三瓶さんと続き、第1次訴訟は4名の原告が国・厚生労働大臣を相手に裁判が始まったのでした。

 第1回目の口頭弁論はその年の9月12日でした。法廷で全国の弁護団長の池田弁護士が「きのこ雲の下で人々がどのような状態になっていたのか、その惨劇を直視してほしい」と裁判長に求めました。
 引き続いて、原告の朝比奈さん、高田さんが自分たちの被爆体験と、その後現在に至るまでの体の苦しみ、心の悲しみを裁判官に訴えました。二人の話にしーんと静まりかえる満員の傍聴席。その時の法廷内の光景が、鮮やかによみがえってきます。
 口頭弁論も回数を積み重ね、そのたびに支援の会は分身を増やし「公正な裁判を」の署名を持ち寄り、裁判後の集会では秋元弁護士の話を聞き、次の口頭弁論までの行動を確認しあったのでした。
 2005年から2006年には、新たに4名の被爆者が相次いで千葉地裁に提訴をしました。第二次訴訟の皆さんです。岩佐さん、市川さん、飯田さん、中村さんでした。千葉の原告は総勢8名となったのでした。

 裁判が始まって、5年後の2008年10月14日、第1次訴訟の千葉地裁判決が下りました。全員が勝利でした。支援の会全員で大喜びしましたね。

 国は高裁へ控訴しましたが、2009年3月12日東京高裁は原告に勝利の判決を出しました。その後、国は全国では異例の最高裁へ上告したのでした。

 2008年4月、国・厚労省は、今まで国が認定基準としていた悪名高い「原因確立」をやめ、「新しい審査の基準」という、新しい認定基準を発表しました。この発表をさせることになったのは、千葉をはじめとした、みなさんの集団訴訟の全国のたたかいの大きな成果でした。
 千葉を含め、全国での裁判が次から次へと勝利をしたため、とうとう国は解決の方向を検討せざるを得なくなったのでした。

 2009年8月6日、広島の原爆の日です。この日に、新たな動きがありました。当時の麻生総理は被団協と「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針にかかる確認書」の調印をしたのでした。やっと解決の方向に動き出したのです。
 そして、昨年2009年12月1日、「原爆症認定集団訴訟の原告に係わる問題の解決のための基金に対する補助に関する法律」が、衆議院本会議において全会一致可決成立したのでした。

 このように状況が変化している中で2010年5月25日、千葉地裁で第2次訴訟の判決を迎えたのでした。中村さんは国が認定を拒み続けてきた「甲状腺機能低下症」について裁判所は原爆症と認めました。残念でしたが岩佐さんの「白内障」は老人性ということで認めませんでした。今現在被爆者が「白内障」を原爆症として認定を受けようとしても、多くのケースで却下されている状況があり、今回の千葉地裁の判決もその流れの中にあるものと考えざるを得ません。

 集団訴訟の裁判はひとまず終わりますが、被爆行政は被爆の実相に答えるためには、まだまだ多くの問題を抱えています。

 先日の総会では、一応の支援の会の役割を終えることが確認されましたが、核兵器廃絶と被爆者援護の私たちの運動課題をしっかりと踏まえた運動をそれぞれの皆さんの立場で勧めていただきたいと考えています。
同も長い間ありがとうございました。(総会のあいさつに一部加筆)



 『裁判闘争にご協力ありがとうございました』

    千葉県原爆被爆者友愛会 会長 青木 茂

 長崎の被爆者、松谷英子さんは、2・4キロメートルで被爆。飛んできた瓦が頭に当たり、半身不随の身になったが、厚生労働省は原爆症と認めなかったたので裁判に訴え、最高裁まで戦い勝利しました。この闘いを支援した被爆者は、これで認定の基準が緩和されることを期待したのに、厚生労働省は新たに「原因基準」なるものを出し、今まで以上に厳しい審査基準になりました。被爆者の中に不満が渦を巻いていました。
 松谷さんの闘いは個人の闘いでしたが集団で裁判を勝利すれば、厚生労働省の審査基準を改定させられるのではないかと、近畿で9名が提訴しました。

 友愛会としては、原水協や弁護士の方々の温かいご支援をいただき裁判闘争に踏み切りました。

 支援する千葉の会が結成され、裁判費用の調達、裁判ごとの傍聴、ある時は台風で下半身はずぶぬれで、70名あまりの方が出席していただきました。

 また、国会請願や厚生労働省前の座り込み、真冬の寒い中、あの横断幕1枚でも寒さが和らぐことも知りました。

 また、駅頭で署名、カンパの訴えと座り込みに、座布団を用意していただきました。支援団体独自の横断幕やのぼりを作成し、うたごえの方の活躍は全国の仲間の評判になり、こうした千葉県での裁判闘争は高い評価をいただきました。支援する方々が、原告の分身となり物心両面のご支援をくださいました。しかし不当にも白内障の原告は敗訴となりましたが、7名は勝訴することができました。

 ご協力いただいた団体・個人のみなさんにあらためてお礼申し上げます。
 また、弁護団と医師団に感謝を申し上げます。

 私たちは裁判の中で明らかになった原爆被害の悲惨さ残虐さを広く訴え『核兵器廃絶』『再び被爆者をつくるな』の闘いを推し進めることで、皆様に答えていきます。ありがとうございました。